雨の日は君の匂い

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雨の日は君の匂い

 僕は雨の日が好きだ。  クラスのみんなは濡れるのが嫌だとか、部活ができないとか言って雨を嫌う。  僕から言わせれば、雨の日以外は全部嫌いだ。道を歩いているだけで排気ガスは体を痛めつけ、頭痛がしてくる。食事の時間なんて特に最悪で、クラスメイトの弁当の臭いが混ざり合って吐き気すら催す。  それに、人の感情だって漂ってくる。――建前で会話する友達の本音だって、意識しなくても分かってしまうのだから、人と距離を取りたくなるのは自然なことだよね。  雨の日は、雨の匂いが世界を覆ってくれる。雨だけが僕の利きすぎる鼻を鈍らせて、平穏な時間を与えてくれる。  だから僕は雨が好きだ。雨の匂いが好きだ。――毎日、朝から晩まで雨ならいいのだけれど。  母親が「洗濯物、部屋の中に干さないと!」なんて言うものなら僕は喜んで手伝う。  お天気のお姉さんが少し悲しそうに「午後からは、にわか雨の模様です。」と言えば、僕の心は穏やかな喜びで満ちあふれる。  そんな日にはそれ相応の準備が必要だ。  自室の本棚から気になっていたり読みかけだったりした物を、片っ端から鞄に詰め込む。雨の中でだけ、何にも邪魔されず本の世界に溶け込めるのだ。全ての情報を視覚と想像力から得るしかない時間は、僕にとって唯一無二の自由な時間だ。  雨は夕方から降ってくれる方が嬉しい。普通の人は雨に降られながら歩くのが嫌なので、自ずと放課後の教室は僕ひとりになる。  それに雨はたくさん降るほうがいい。心做しかより一層、邪魔な臭いが意識に入ってこなくなる気がする。――雨音も関係があるのかな。  だから、当然のことだけど夏は、というか梅雨は、学校にいる時間が多くなる。二年生ともなれば学校の事情も把握できてきて、どこが空き教室になるかも分かってくる。この二年一組の教室は廊下の端にあってどの部活も使わないのだ。  「今日も誰もいない。」なんて、教室を覗きながら分かりきっていることを呟いて、僕は窓際の席に座る。  雨は先刻から降り出して、窓から見える世界を文字通り洗い流してくれている。そんな僕だけが知っている綺麗な世界に包まれて、僕は本の世界を捲り進める。  今日も良い読書日和。いかにも一雨きそうな空模様。  新しく用意した本を抱えて、少し早足で教室に向かう。「今日も誰もいない。」と口ずさんで、  ――「いるよ」  返ってくるはずのない返事に思わず「えっ……」と声を漏らして固まってしまう。  「今日は私がいるの。」彼女はそう僕の方に目線を遣って呟いた。続けて「でも、気にしないで。」とも。  気にするなと言われても気にならない訳がない。それに、僕は人一倍気になる体質なのだから尚更無理だ。  いつもの席に座って、前の席の彼女の背中を覗き見るようにしてチラチラと観察する。クラスメイトではないし、恐らく同級生でもない。とすると、三年生の先輩なのだろうか……。  「三年よ。雨の日に限って居残っている、本好きそうな人が教室から見えたものだから。私も読書が好きで……一度会ってみたくて。」ジロジロ見ていたことに気づかれたのか、彼女から答え合わせをしてくれた。  「そうなんですね……」三年生の教室は中庭を挟んで反対の校舎だったな、などと考え、適当な返事を返してしまう僕に彼女は手もとの本に目線を落としたまま何の反応も返さない。  それから小一時間経っても教室には一つも変化がない。「この人、ほんとに何しに来たんだ……」口の中で悪態をつきながら活字をなぞっていると、ふと手もとに影が落ちた。 顔を上げた。 僕の額に髪が触れ、その奥の瞳に見つめられる――  その刹那、僕を包む世界が壊れた。  「その本、読んだことあるよ。当時の人は食事をそんな風に捉えていたんだって考えると面白いよね。チーズはデザートっていうよりピザとかのイメージが強いな、私は。好き嫌いの問題もあるし、片目が無くたって美女は美女だと思わない?」  雨の醸し出す匂いが、甘く、目眩がするような匂いで塗りつぶされる。  髪が揺れるたびに、唇が動くたびに、匂いの波に押しやられ、世界が歪んでいるようだ。    「君は色んなジャンルの本を読んでるみたいだけれど、将来やりたいこと、特に興味のあることってないの?料理なんて向いてると思うけどな。きっと美味しい料理、作れると思うな。あとは、香水の調香とかどうだろう?それにしても、香水瓶って繊細で綺麗だよね。」  いつの間にか激しく振りだし降りだした雨は、もはや僕を元の世界に引き戻せない。  「……先輩はどうして料理とか香水とかだと思うんですか?」  「だって君、雨の日の匂い、好きなんでしょう?」  また夏が巡ってきた。  僕は未だに二年一組の教室で雨を過ごしている。  けれど、あの日から雨が創り出した世界に微かに香る匂いが靄のように、でも確かに存在して、治らない傷の痛みを忘れさせない。  
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