才能があること。光を見つめること。林檎をかじること。

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「帰るんじゃなかったの」 「おせーよばーか」 彼女の質問を華麗にスルーした彼は、よっとおっさんのような掛け声とともに立ち上がった。190センチを超える長身がこちらを向いて、目に刺さる夕日を遮った。 「楽譜あったの?」 「あったあった」 ついでに嫌な現実も落ちてたから閉じ込めた、というと彼はそりゃあよかったと苦笑いした。彼は幸いにして、受験生を苦しめるあの赤い分厚い奴らとは無縁のまま、大学生になれそうらしい。それでも「結果」という二文字が彼を追い立てていることも、クラスでからかわれるような余裕などないことも、彼女だけが知っていた。 未熟なままでも、熟れすぎて痛んでもいけないその身体を維持するのは本当に大変なのはお互い様だった。だからこそ傷をなめ合うように二人で永遠に寄り添っていられるのだ。 「ねえ、」 「うん?」 「水中ってどんな感じ」 ローファーの踵を鳴らしながらふと聞いてみようと思ったのは、おそらく彼と水のイメージが不可分だからだろう。その長身は真っ黒に日に焼けていて、身体のいたるところに後から装着したような筋肉がぼこぼことついている。15年以上の積み重ねが体の一部になっているのは両者ともにそうなのだが、水泳選手である彼はなおのこと、ピアノを弾く彼女とは比べ物にならないほど身体的特徴がわかりやすかった。 「そーだなぁ」 二人並んで校舎を出る。ちょうど最終下校を知らせるチャイムが鳴った。正門を抜けて街中へ、夕日に吸い込まれるように坂道を下っていく。彼は答えあぐねるように口を開いては意味を成さない音を発して、を繰り返していた。 「今さ、『水の戯れ』って曲弾いてるの」 唐突に彼女が口を開いたのは彼を答えやすくするためなのか、はたまた話したくなったのか。 「なんか、ものすごく上手くいかなくて、なんだろう、スランプなのかな。あの音楽室が時々水槽みたいに思えて息苦しくて」 そんな曲ではないことなど、弾いている彼女が一番わかっていて、それでもあの閉鎖空間が水で満ち満ちて息もできないような、そんな『水の戯れ』になってしまうのだ。 「…俺も、水の中は苦しいよ」
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