才能があること。光を見つめること。林檎をかじること。

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「あ、」 「え、どした」 「楽譜忘れてきた」 「えー」 「土日家で練習したいし取ってくる」 「帰ってていい?」 「いいよ別に」 それじゃ、と彼女は踵を返した。陽が落ちるのも早くなってきた秋、昇降口での出来事である。靴を履き替える前でよかった、と彼女は独り言ちた。橙の強く眩しい光が校舎内のあちこちから差し込んでいてどこを向いても眩しい。目を細めながら、あんなことを言っておいてきっと待ってくれている天邪鬼な彼のためにもやや駆け足で、校舎を上へ上へと進んでいた。 彼女はいわゆる特待生だった。ピアノ一本で生きてきた彼女にとってピアノは手であり足であり声であり、人生だ。ついさっきまで、それこそ彼が帰ると声をかけに来るまで、先生のレッスンが終わった後ひとりぼっちの音楽室で、ピアノと向き合っていた。 がちゃん。音楽室特有の分厚い防音扉を開く。さっきまで自分が座っていた椅子、弾いていたピアノ、先生が使っていた譜面台。数分前までと全く同じ状態のその空間は、音楽がないだけでやけに寂しく見えた。無音の音楽室が、彼女の息遣いとオレンジの陽で満たされる。 「…あった」 探し物はピアノの蓋の上に、無造作に置いてあった。きっとあとでまとめよう、と思ったきり忘れていたのだろう。金メッキで覆われた林檎のペーパーウェイトを下ろして、角を揃えてファイルにしまう。かばんにまで橙が侵食していくその中にひときわ目を引く赤が見えて、思わずファイルを入れ込む手を止めてしまった。眉間にぎゅっとしわが寄るのがわかる。ごろり、と林檎が転がった。オレンジを乱反射する。 「じゅけん、なぁ」 呟いて言葉にして、苦いものを口にしたような感覚になった。うげえ、と舌を出してみるけれど何も変わらない。しかたがないからすべてを、楽譜に書き込んである赤すらも見なかったことにして夕焼けを閉じ込めた。
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