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去年の夏。
夕方から急に降り出した大雨の中で彼女は言った。
「雨って、なにもかもを流し去ってくれる気がするの」
傘を渡そうとする僕を制止して、ずっと雨に打たれていた。髪も服も、全身がずぶ濡れになってもお構いなしだ。時々、通行人が彼女を不審げな目で見ながら通り過ぎる。そんな彼女を僕は少し離れたところで傘をさしながら眺めていた。
それから彼女は度々、雨に当たるという行為を繰り返していた。ただ、雨の日に毎回そうするわけでもなかった。彼女は短期集中的な雨の時に打たれていることが多いように思えた。
そして打たれているとき彼女は目をつむり、指を組み合わせていた。豪雨や雷鳴が伴う中でのそれは、なにか神聖な祈りの所作にも見えた。
僕には彼女がいったいなにを流し去ろうとしているのかわからなかった。彼女がなにを思い、なにを感じ、なにを祈り、願い、あるいはなにを懺悔しているのか計り知れなかった。ただ彼女の行為を眺めていることしかできなかった。
そうしているうちに、雨は止み、晴れ間が差す。彼女はゆっくりと目を開き、指を解き、僕のほうを向き、ふっと力なく微笑むのだった。その微笑みがなにを意味するのかもやはり僕にはわからなかった。
彼女の中でなにかが起こり、そのことが彼女をあのような行為に至らせている。それについて僕は一度も問いただすようなことはしていない。それについて僕は一切関わってはならないとすら思っていた。
雨に打たれている彼女に「どうしたの?」と声をかけたら積もった木屑に息を吹きかけるように、簡単に宙へ舞ってしまうだろう。それほどまでに彼女は薄く、儚く、透明になっていた。そのまま雨に溶け出して、消えてなくなりそうなほどに。
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