2.最悪の思い出

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「母さん、ピアノ行ってくるね」  そう言う娘は何だかそわそわしていた。レッスンまではまだ一時間もある。またあいつの息子と会うつもりなんじゃないか、直感的にそう思った私は娘を引き止めようとしたが娘は慌ただしく出かけて行ってしまった。妙に気になった私は娘の後をつける。とはいえ既に姿はない。そういえば先日の保護者会で、廃材置き場に入って探検する子供がいるらしく業者にフェンスの修繕を依頼しているとか何とかいう話を聞いた。何となくそこに結衣とアイツの息子がいるような、そんな気がした。傘を片手に家を出る。フェンスを乗り越えて廃材置き場に入ると遠くに赤いTシャツが見えた。隣にも人影。間違いない、結衣たちだ。 (いったい何してるのかしら)  すぐに声をかけようと思ったが結衣たちが一体どんな会話をしているのかと気になった。降り出した雨を気にすることなく私は傘もささずにそっと二人に近付く。そして次の瞬間、見てしまった。アイツの息子が私の大切な結衣の頬に……口付ける瞬間を。アイツの囁きが蘇る。 ――ね、俺と付き合わない?  今晩俺と付き合えよ、そういう意味だったのだと今ならわかる。でもあの時の私は勘違いしてあの男について行き……。  頭がクラクラした。体内を駆け巡る血が燃えているかのようだ。体が熱い。アイツとその息子の姿が重なって見えた。しばらくすると結衣が立ち上がりこちらに向かって走ってくる。反射的に身を隠した。今は冷静に結衣と話などできそうにない。娘をやり過ごした私は再びアイツの息子を見る。するとあろうことか傘を肩にはさみ立小便をしているではないか。まるで犬みたいに。そう思った瞬間、今度は真理の言葉が蘇った。 ――まぁ犬に嚙まれたようなものだと思って。  犬の息子もまた犬だ。このままでは大事な結衣が餌食になってしまう。 (結衣を、守らなきゃ)  私は無意識のうちに近くに落ちていた鉄パイプを手に取るとふらふらと加々見拓真の背後に忍び寄った。雨音のせいかアイツの息子は全く気付かない。この時私の目に映っていたのはもはやアイツの息子ではない。アイツ自身だった。  正直言ってそこからのことはよく覚えていない。気付けば血塗れのビニール傘と頭から血を流して倒れる少年の姿。傘のおかげでほとんど返り血を浴びることはなかった。少年はピクリとも動かない。自分の荒い呼吸音で我に返る。何の罪もない子供に何ということを。心の中でそう叫ぶ私がいる一方で、ものうひとりの私が囁く。 (この子のお兄ちゃんだかお姉ちゃんだかになるはずだった私の子は産まれてくることすらできなかったじゃない。きっと天国で寂しがっているわ。そう、これからは弟と一緒よ)  その考えに満足した私は微笑みながら少年を見下ろすと彼を物置小屋に隠し帰宅した。夫に具合が悪くなったと言って義父の家には結衣と二人で行くように頼む。さぁ、あとは綺麗に後始末するだけ。そう、実際私はうまくやったのだ。土砂降りの雨が様々な痕跡を洗い流してくれたのもよかった。その後廃材置き場だった場所はマンションとなり加々見拓真は行方不明のまま今も見つかっていない。
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