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「……でも、覚えてるのはそれだけかよ」
父の威嚇した声に、ハッと我に返る。
顔を少し上げれば──口の片端が吊り上がり、樹さんを真っ直ぐ睨みつける父の瞳が、心無しか涙で潤んで見えた。
「なぁ、樹」
「……」
「二人でここに来たって事は……つまり、そういう事……なんだよな……」
「………うん」
「……」
少し間が空いたのは、僕との関係を……濁したかったのかな……
そっと樹さんの横顔を盗み見るけど、本心を隠すような微笑みを浮かべているだけで、何にも解らない。
「真奈美とは、どうしたんだよ」
感情を抑えているんだろう。父の呼吸が少しだけ荒い。
「………彼女とは、入籍前に別れたよ」
彼女──樹さんの婚約者であり、大空のお母さん……
複雑な感情が入り交じり、僕の心が強く握り潰され、簡単に萎縮させる。
「んだよ、それ……っ!」
「……」
「お前──俺の事、好きだったんじゃなかったのかよっ、!!」
──ビクンッ
荒げた声に、反射的に大きく肩が跳ね上がる。
と、隣から伸びた手が、握り締めたままの僕の手の上にそっと重なり、優しく包み込む。
驚いて樹さんを見上げれば、動じる事なく真っ直ぐ父を見ていて──
それでも。たった、それだけなのに……抱き締められた時のような温もりがして……心が落ち着く。
「………何、してんだよ……
勝手に、俺から連絡取れないように番号変えて、会社も辞めて、真奈美との新居も引っ越して……
愛桜は知らねぇって言うし、樹の実家とか、知らねぇし……他の交友関係も、全然………
……もう、探しようもねーから、お前から連絡来るのを、待つしかなかったんだよ……!」
「……」
「──待ってたんだよ、ずっと! 例え樹とは、友達以上になれなかったとしても……」
吊り上げたままの瞳が赤く充血し、大粒の涙が零れ落ちる。
それを拭わず、気丈に唇を引き結び、父が樹さんを真っ直ぐ捉える。
「……」
──これは、僕だ。
あの日……喫茶店の窓ガラスの向こうに、樹さんの姿を見つけなかった時の、僕の姿──
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