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5話 明日の約束
彼はじっとあたしの顔を見て、思い出したように、また作業を始めた。
経験したことのない反応に、あたしはビビるけど、彼の口元は緩んでる。
「そういうの、ハッキリ言えるってすごいね」
「そう? なろうと思ってるから、それだけだよ」
湿ったタオルを扇風機の近くの椅子にかけると、びらん、びらんと音が鳴る。
「……なれないかもしれない、とか、思わないの?」
彼の声がどすんと胃に落ちてくる。
あたしはしゃかんだ太ももに肘をたてて、自分がつけた水の足跡を見る。
消えかかってるそれが、夢が消える瞬間みたいで、あたしはすぐに目を逸らす。
「……たしかに、そういう考えもあると思う。でもさ、なろうと思ってるから、なれないは、まだ考えたくないかな、あたしは」
そう言ったあたしに返事はせず、彼は黙々と自転車に向き合っている。
会話もなくなり、ただ手際のいい作業を見ているうちに、眠気がさしてきた。
大きなあくびをしてから、あたしは彼に初めて質問らしい質問をしてみることにした。
「あんたは、なんか、なりたいものとかないの?」
「あるけど、君みたいに言いきれるほど、勇気もないしさ」
「……ね、君ってさ、挫折とか経験したことないんじゃない?」
扇風機の温い風が頬に当たる。
タオルが視界の端でたなびいている。
「……あんたね、あたしだって、中学受験は失敗してるし、高校も、第一希望じゃない。でも、夢くらい諦めたくないじゃん! だってさ、夢、だもん……!」
「……あ、なんか、……ごめん」
「別に!」
熱くなった自分が急に恥ずかしくなって、思わず横を向いたけど、彼の視線はこっちを見たままだ。
「……なに」
「自転車、直った」
「ありがと」
雨足は弱くなったようで、ガレージの外の水溜まりには、弱い波紋が散らばっている。
この中を走って帰るならまだマシだと、自転車を受け取ろうと手を伸ばしたあたしに、彼は目を伏せたまま、呟くように言った。
「……あと、オレの夢は、……映画…監督になること」
「ふぅーん」
自転車を受け取り、より俯いた彼の目の前に、あたしは親指を立てた。
「カッコイイじゃん、それ!!!」
「……君だけだよ、そう言ってくれたの」
自転車をガレージから押し出すあたしに、はにかんだ笑顔を浮かべ、横をついてくる。
「ねー、それさ、友だち選び直したら?」
「家族も、なんだけど……」
不意に、彼とあたしの世界が光で区切られた。
蛍光灯の下で、顔を暗く沈める彼と、雨の下で、やたらと笑ってるあたし。
「……あ、明日の午後、空いてる? お礼にアイス奢るわ!」
「え?」
「空いてないの?」
「空いてる、けど」
「そ。じゃ、また明日ね!」
弱めの雨のなか、あたしは自転車で帰った。
びちゃびちゃな服と髪には戻ったけど、なぜか、心はあったかくて、ワクワクしてて。
「……あ、あいつの名前、なんて言うんだろ」
いくつか名前の候補を上げておくことに、あたしは決めた。
正解は、明日のお楽しみだ!
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