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「七海ちゃん」
その日の路上ライブが終わって人集りがなくなると、私に気づいた長村(ながむら)さんは私を呼びかけた。
彼が私の名前を呼ぶその瞬間、ありふれて何の変哲もない名前が、特別なものに変わって輝きを放つ。
「来てくれたんだ」
「部活が終わるのが遅くてあんまり聴けなかったんですけど……。長村さんの声が、聞きたくなって」
私がそう言うと、長村さんは優しく微笑んだ。そして目線を私の高さに合わると、私の頭をくしゃっとした。そうして、いつもありがとな、と甘い声で言った。
私は思わず長村さんから目線を逸らす。明らかに鼓動が速くなるのが分かる。
ーーそんなことしないでよ。長村さんへの気持ちに拍車がかかってしまうから。
男性にしては少しだけ高くて、少しだけ出しにくそうな声。そして、曲のパーツごとに表情を変える長村さんのその歌声に、私はあの日、心を奪われた。語るように歌っているかと思えば、言葉からはみ出すように感情をのせ、少しぶっきらぼうに歌っていたりして、そのどちらもが私を夢中にさせた。
長村さんの音楽表現に関わる部分が好きだったはずなのに、長村さんと話すようになり、その人柄にふれて、いつの間にか長村さんのひとつひとつの言動が私の中で特別な意味を帯びるようになっていた。私は、長村さんのことを男性として見ていた。
でも、彼には奥さんがいる。
そして、お子さんもーー。
これが、叶わぬ恋であることは明白だった。
でも、ギターを弾く長村さんの薬指に光るものがないことが、奥さんと上手くいっていないことを物語っているような気がした。
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