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水のグラスを押し遣るだけではなく、梶の前からワインボトルを遠ざけ始めた志貴の今夜の任務は、この瞬間に、可及的速やかに梶を公使館――この地では公邸も兼ねている――に放り込むことへと変更されていた。こちらの事情で正式契約が遅れそうな取引相手と、これ以上仕事の話を進めることはできない。他愛ない世間話を交わしつつ食事を終えたら、速やかにこの場を辞して梶を送っていかなければ。
テオバルドにしても、まだ顧客でもない東洋人の相手を長々としたくはないだろう。ましてや今は、数日後に降誕日を控える待降節なのだ。本心はとっとと帰宅して、家族と共にその支度をしたいに違いない。
そんな様子はおくびにも出さず、テオバルドは梶との会話を楽しんでいるように見える。整った顔に感じの良い笑みを浮かべるだけで、表裏のない好人物に見える男前は得だ。おそらく彼ほど――諜報の世界に生きる者ほど、その身に表と裏を内包した人間もいないだろうに。
正確を期す必要のない世間話は英語でなされ、志貴は通訳から解放された。メモと万年筆をしまい、話を振られれば控えめに返しながら、専ら聞き役に回る。練達の外交官である梶の話術には学ぶべき点が多く、対するテオバルドは彼の『友達』――スペインの外相がお墨付きを与えるスパイなのだ。その素性や経歴は知らされていないが、興味を持たずにいる方が難しい。
そして意外にも、梶とテオバルドは馬が合うようだった。店の前で別れる頃にはすっかり上機嫌で、くだけた口調で友人のように挨拶を交わしたほどには。
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