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「こんばんは、志貴」
「……テオバルド」
つい先ほど別れたばかりのスパイが、街灯のか細い光の中、亡霊のように立っている。そのくせその不気味な存在感は威圧的と言っていいほどで、志貴は思わず顎を引いた。
「どうかされましたか。先ほど公使がお伝えした通り、『パパ』の返事は年明けにならないと……」
「勿論わかっているとも。ただ確かめたかっただけだ」
「確かめる?」
「梶が確かに日本公使で、帰る家はその公邸だということを」
テオバルド・アルヴァは、スペインの外相がお墨付きを与えるスパイ。
そういう触れ込みで今夜顔を合わせたにもかかわらず、その懐に隠した本性の刃をちらりと見せられ、志貴は動揺した。改めて突きつけられた事実に、何故か安堵と失望が綯交ぜになった不可解な感情に包まれたのだ。
彼の用心深さは、自陣のスパイとして信頼に値するものでありこそすれ、失望する理由などないはずだ。それでも、外相からの斡旋であってもこうして疑い試されたことに、微かな不快感があった。
しかしそれは、ただの甘さに過ぎなかった。あの食事の場だけで彼の信頼を勝ち取ったと思い込み、それを裏切られたように感じたのなら、練達のスパイの取引相手としていかにも幼稚で御し易く、外交官としても失格の烙印を押されかねない。
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