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(え……)
唇に、やわらかな感触。
乾いてカサついたそれが、一洋の唇だとようやく認識し、かすかに身動ぎするまで、志貴の唇は啄むように男に吸われていた。
「……俺は、もっとどうかしてる男だがな」
自虐的に囁く男を、茫然と見つめる。
どうして一洋は──ひととき使命を忘れ、私人として丸一日マドリードを離れた、愚かな同志の唇を吸うのか。腰に手を回し、こうして抱き寄せるのか。
固まったまま凝視する志貴に、一洋は自嘲の笑みを浮かべた。
「豆鉄砲を食らったような顔をしてる。そんな顔をさせるなら、俺の演技もなかなかのものだな」
「……どういう、こと?」
「名演技も、結局無駄になったが。──どうしても、俺は志貴を諦めきれないらしい」
そう言って、一洋の大きな手が志貴の頬を包む。夜気に晒されたせいか、それとも緊張のせいか、その手は冷え切っている。
やるせない吐息とともに、その言葉は真っ直ぐに志貴へと注がれた。
「お前を愛してる、昔からずっと」
一洋の声が、音の連なりから言葉として頭の中で意味を成した時、真っ先に浮かんだのは、まさか、という思いだった。
体を捧げ心を繋ぎとめようとし、拒まれたのは年末──三ヵ月前のことだ。以来、一洋を手淫で慰めることを許されるようになったが、一方的に『薬』を与えられるようになってから一年が経っていた。
それまで、相互自慰の申し出はいつも半端な形で受け入れられ、ただ志貴だけが甘やかされていた。一洋は一貫して、志貴を使って快楽を得ることを頑なに拒んでいたのだ。
何故今になって、これまで触れることもなかった唇に、一洋は──。
◇◇◇
『赤に踊る獣』新版を、Kindleで公開しました。
(Kindle Unlimitedの対象です)
加筆修正に加え、"リング"を巡る二人の攻防を描いた後日談『ランデヴー』を書き下ろしていますので、よろしければご覧ください。(*´꒳`*)
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