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 敬愛する男と、変わり果てたその遺産への考えの相違から別離を選び、今も互いを想い合う美しく孤高な女性──ピラールについて、テオバルドが語ることは二度となかった。  志貴を口説きながら今も心の中に住まわせる人がいても、それはテオバルドの自由であり、誰に詰られることでもない。志貴の心にも、亡き妻の居場所は変わらずにある。  しかし彼女はこの世を去り、ピラールは同じ街(マドリード)に生きている。  過去の恋を理由にするなど、稚拙で卑怯なやり方だ。暴論ですらある。どう言い繕っても、テオバルドは怒り、傷つくに違いない。  しかし、ピラールを引き合いに出すことしか思いつかないほど、志貴はもうテオバルドから離れる手立てを持たなかった。手首に巻き付いた飼い犬の手綱は複雑に絡み付き、ほどくことはできない。ならば彼が失望し、自ら距離を置くように仕向けるしかない。  テオバルドとの別離は、戦争が終わればいずれ訪れることだった。わかっていたことだ。それが早まっただけだ。  桐機関は万全に機能させなければならず、事務的にはこれまで通り、緊密な連携を保つ必要がある。毎日の『スペイン語』のレッスンは続けられ、当たり障りのない社交辞令に終始するだろう。  当たり障りのない社交辞令──まさに外交官の得意分野ではないか。  スパイと連絡員。  肩書きに相応しい関係になるだけだ。 「疲れた……」  誰もいない部屋で、志貴はつい声に出していた。
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