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「もし誘いを──二重スパイを断ったら、と脅されたが、俺もこれを持ってるからな。くぐり抜けてきた修羅場の数は、こっちの方が上だ。天井に向かって撃って、混乱に乗じて逃げ出してきた」
これ、と言ってテオバルドが上着の内ポケットから取り出したのは、拳銃だった。
それは、志貴を驚かせるものではない。何故なら志貴も、『スペイン語』のレッスンを含め、出歩く時は常に携帯しているからだ。──勿論、二人きりの今日の遠出にも。
心から求めながらも、心の底からは信じられなかったスパイが、職務への忠実さのために命の危険に晒されている。いつだって不誠実なのは志貴一人で、テオバルド、そして一洋も、常に志貴が求めるものを与え、それでいて恩を着せることなくその意思を尊重してきたのだ。
「これからどうするつもりなんだ」
引きとめる調子にならないように、志貴は訊ねた。
昔から何も変わらない、甘やかされるばかりの自分を嫌悪し自省するのは、今でなくていい。
「国を出て身を隠す」
「どこに。当てはあるのか」
「こういう時の飛び先も用意してこそ諜報員だ。始発の切符と荷物も、ここに来る前に手配した」
「どこへ行くんだ」
「知らない方がいい。それがあんたのためだ」
──俺たちに残された時間は、──もう長くない。
不意に、焦燥に翳るテオバルドの顔が蘇った。
いつも余裕のある陽気な兄ちゃんの顔をしていたから、強く腕を掴まれたこともあり、やけに印象に残ったのだ。
(そうだ。情報が減ったのは、あの頃だった……)
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