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「──あんたなら簡単だろう。そうやって濡れた目で見つめられたら、どんな男だって思うままに跪く。潤んで星みたいに揺らめいて、初心を匂わせて、したたかだ。性質の悪い手練れの悪女の手管に一度落ちてしまったら、逃げようという気にもなりゃしない」
「君は恋人を、悪女呼ばわりするのか」
互いを詰るのも、もはや睦言だ。
甘噛みの仕返しに、唇でテオバルドの耳朶をやわらかく食み、そのまま囁きを送り込む。去ろうとしている男が、最も欲しがる言葉を。
「私なら、恋人はやさしく可愛がりたい」
途端に尻をきつく掴まれ、志貴は甘い呻きが洩れそうになるのをどうにか堪えた。食い込んだ指が尻たぶをいやらしく揉み、その淫靡な痛みが、はしたない体に別の男との夜を呼び起こす。
テオバルドが焦がれた恋人は、他の男の愛撫に慣らされている。その体を、望むほどの価値もないと知らないまま、存分に貪ればいい。そして快楽に弱く脆い様を蔑み、手に入れたものの卑しさに失望して、後腐れなく背を向けてくれたらいい。
恋人の名で呼ぶ相手はただ一人。
ピラールの面影だけを胸に残し、連合国に追われることがなくなったら──この戦争が終わったら、遠い極東の国など忘れ、愛する人がいる国で穏やかに暮らしていく。
この先テオバルドに望むことは、それだけだ。志貴から──日本から距離を置くほど、戦後彼の身は安全になる。
口には出さない思いを伝えるように、再び唇を重ねた。
それは、さきほどとは異なり、昼間墓地で交わした口づけと同じく静謐なものだった。永遠の眠りに就くテオバルドの両親の前で誓いを立てる誠実さで、志貴は男の唇を吸う。
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