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四
約二か月後。
いつもの蕎麦屋で昼食を済ませ刑事課に帰ってきたところ、出入口のすぐそばのデスクに座って受話器を耳に当てていた戸部が、
「あ、ちょうど今帰ってきました。代わります」そう言って受話器を小須賀のほうへ差し出してきた。
「誰?」
「地検刑事部の清水さんです。緊急のようです」
小須賀はもちろん清水検事と面識はある。三十代前半の、声が大きくいつも溌剌とした若手の男性検察官だ。しかし一体何の用事だろうか。
受話器を耳に当てて、もしもし小須賀です、と応える。
「あ、お疲れ様です。清水です。例の不動産会社社長殺人の件ですが」
「不動産……? ああ、あの件ですね。どうかしましたか?」
家宅捜索に入った一週間後、捜査本部は解散された。所轄の刑事課といえども、つねに案件を山のように抱えている。二か月近く前のことなど、ほぼ全て頭から抜けていた。その後、梶原は起訴されて、そろそろ初公判が始まるころのはずだが。
「被告人の代理人と公判前整理手続きを進めておるところなんですが、昨日になって急に、被告人の梶原が『自分にはアリバイがある』と言い出したんですよ」
「はあ? それはいったいどういうことですか?」
「事件当日の十月十日、梶原は夕方から出勤して店を開けたそうなんですが、その日は急に体調が悪くなったため、午後九時あたりに店を閉めて最寄りのビジネスホテルの部屋にチェックインして、そこで朝まで寝ていた、というんです」
「なぜ今ごろになって、そんなことを。こっちの取り調べでは、梶原は当日は店でずっと仕事をしていたが、客は来なかった、みたいなことを言ってたはずですが」
「うっかり忘れていた、ようやく思い出した、ということらしいです」
「……ハッタリじゃないんですかね?」
「もちろんその可能性もありますが、聞き捨てるわけにもいきません。お手数おかけしますが、そちらで梶原のアリバイについてもう一度調べてもらえないでしょうか」
「わかりました」
「ホテルは、市役所の裏にある『ホテル田ノ浦』というところです」
「当たってみましょう」
「よろしくお願いします」
電話は切れた。
「どうしたんですか?」戸部がすかさず聞いてくる。
「それが……」
小須賀は今清水検事から聞いたことをほぼそのまま戸部に説明した。
戸部は聞きながら徐々に顔を渋くしていく。
「もしそれが本当なら、おおごとじゃないですか」
「そうだな。……至急、ホテル田ノ浦に電話をして、捜査に協力してもらえるよう要請してくれ」
「わかりました」
小須賀が戸部を伴ってホテル田ノ浦を訪れ、再び刑事課に戻ってきたときは午後二時半を過ぎたところだった。
小須賀のデスクのすぐそばに、捜査一課長の宮畑が立っている。
宮畑は小須賀の姿を見つけると、”こっちに来い“という感じで手招きをした。
「どうしたんですか?」
「うちにも地検から連絡があって……、いったい、どういうことだ?」宮原は苛立った様子を隠さない。
「いったいどういうことかを、これから確かめるんです。ホテルには、十月十日に梶原が宿泊したという記録が有りました」
「間違いないか?」
「ロビーの受け付け従業員に、写真を見てもらって確認してもらいました。この男で間違いない、ということです」
「しかし、ホテルにチェックインだけして、外出して河野尚一を殺害して戻ってきたということも考えられるだろう」
小須賀は手のひらに握っていたUSBメモリを宮畑に見せる。
「当日のホテル内の防犯カメラの映像を、コピーしてもらっています」
「よし、すぐに鑑識にまわせ」
「鑑識にまわすまでもないでしょう。梶原の顔を直接知っている我々が見たほうが、正確です」
取調室にノートパソコンを持ち込んで、防犯カメラの映像を全画面で表示させ、小須賀と宮畑と戸部が頭を寄せ合うようにして、その画面を凝視する。
五倍速で再生を始めて、十分ほど経ったところで、
「あ、今のが梶原ですね」と戸部が画面を指さした。
速度を通常に戻して、もう一度再生させる。
そこには、たしかにホテルに入ってきてロビーで宿泊の手続きをしている梶原が姿があった。画面右上に表示された時間は、「10月10日 20:44」となっている。
「この時間は、正確なものか?」宮畑が問う。
「ええ、二分ほど遅れているようですが、ほぼ正確です」戸部が答えた。
梶原が事件当日、ホテルに宿泊したと確認できたことになる。
「しかし、ホテルを抜け出して現場に行った可能性もあるだろう」
「梶原が宿泊した階の映像ももらってきてます。こっちで確認しましょう」
戸部が別の動画ファイルをダブルクリックして再生させた。
ホテル五階の廊下に設置されたカメラの映像で、各部屋の出入口の扉が見える。
その映像を「20:44」まで早送りし、そこからじっと見ていると、「20:49」にロビーで宿泊手続きをすませた梶原が、505号室に入って行った。
小須賀が宮畑の顔を横目で見てみると、額にうっすらと汗がにじんでいる。
「梶原の証言では、朝までずっとこの部屋で寝ていたそうです。犯行時刻はこの日の二十二時から二十四時のあいだでしたから、もしこのまま梶原が部屋から出て来なければ、アリバイが成立するということになります」
「部屋の窓から抜け出したということは考えられないか?」宮畑が言った。
それに戸部が答える。
「ないですね。ホテルの部屋の窓は、全室いわゆるはめ殺しになっていて、開けられないようになっています。出入り口はほかにはありません」
再生を三倍速にして、動画の確認を続ける。
途中、宿泊客がほかの部屋に入っていく様子がいくらか見られたが、505号室の扉は一度も開かれない。
念のため、犯行時刻を大きく過ぎた午前五時あたりまで再生を続けたが、やはり梶原が部屋から出てくることはなかった。
宮畑は額から滝のような汗を流している。
殺人での誤認逮捕となると、本部長が出席しての謝罪会見となるだろう。もちろん捜査本部を指揮した宮畑捜査一課長の失態となる。免職や降格になることはないだろうが、僻地の警察署長へ左遷くらいはあってもおかしくない。
宮畑は懐のポケットからスマホを取り出して、画面を操作し始めた。
「どこに連絡するんですか?」小須賀が問う。
「地検に知らせねばなるまい。梶原は真犯人ではない、と」
「ちょっと待ってください、時期尚早です」
「時期尚早なことがあるか。無辜の市民を拘束してしまってるんだ。一秒でも早いに越したことはない」
小須賀は大きく息を吸い込んで、
「まだ梶原が真犯人ではないと確定したわけじゃありません」と言った。
宮畑の険しい表情に、懐疑の色が浮かぶ。
「お前、いったい何を言っとるんだ。今さっき、梶原のアリバイを確認したばかりじゃないか。頭おかしいのか?」
「誤認逮捕しました、真犯人はまだ見つかってません、などと発表すれば、我々の面子は丸つぶれです」
「それが事実なんだから仕方ないだろう。お前はこの件を隠蔽しようとでも言うのか」
「梶原が現場にいなかったとなると、もうひとりの重要参考人である河野摩季の犯行の可能性が高くなります。河野摩季を引っ張りましょう」
「それはそうだが、河野摩季が真犯人であると示す証拠はない」
「それこそ、身柄を取って自白させればいいじゃないですか」
「もし、ひとつの殺人事件で二回も誤認をやらかしたんじゃ、洒落にもならん。もう一度捜査本部を起ち上げて、慎重に事を運ぶしかない」
小須賀は机を手のひらで軽く叩いた。そして、
「おい、戸部。ザキさんと行って、河野摩季を任意で引っ張ってきてくれ。『梶原が真犯人でない可能性が出てきたので、もう一度事情を聴きたい』と言えば、おとなしく来るはずだ」
「ちょっと待て、勝手なことするな!」宮畑が叫ぶ。
「あくまでも任意で、少し確認するだけです。どっちにしろ、河野摩季の動向を追っておく必要はあります」
小須賀は戸部に行くよう目で合図をした。
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