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「こーのぼり!」
お散歩の途中で近所の家のベランダからぶら下がる黒と赤の小さなこいのぼりを律が指さす。
「こいのぼりだね。おとうさんと、おかあさん」
「りっちゃんのこーのぼり、ままと、とぉると、りっちゃんと、あかちゃんと」
「ふふ、そうだね。りっちゃんのは4人家族だね。あ、4匹家族か」
満1歳の記念にうちの実家から贈られた小ぶりのこいのぼりは、外玄関を出たところに飾られている。風を受けることがないからいつもだらんと下がってるだけだけど、散歩から帰って来るたびに、律が嬉しそうにそれに触る。
そういえば最近、時々律の口から出てくる赤ちゃんという言葉。意識して教えた覚えはないけど、公園で遊んでる時とか、よく遊んでる子の弟や妹を赤ちゃんだよ、と教える機会はあったから、それで覚えたのかな。
自分だってまだ赤ちゃんみたいなのに律は赤ちゃんに興味深々で、今だってほら、公園で知らない人のベビーカーにトコトコかけていって、じいっと中を覗いてる。
「すみません」
「いえいえ。赤ちゃんが好きなのかな?」
「そうなんです。最近特に」
僕と赤ちゃんのお母さんが話している間も、律はじっと赤ちゃんを見つめてる。不思議なことに、赤ちゃんも律を見てる。まるで彼らにしか分からないテレパシーで会話してるみたいに、静かに見つめあって。
「いーこね。あかちゃんいーこいーこ」
小さな頭を薄く覆う柔らかそうな赤ちゃんの髪の毛を、律がたどたどしい手つきで撫でてやる。
「あなたもいい子」
そのお母さんがふんわり微笑んで、律の頭をそっと撫でた。律は嬉しそうに笑ってくるりと背を向け、砂場の方へまたトテトテ歩き出した。
「弟くんか妹ちゃんが欲しいのかしら?」
「そうかもしれない」
僕も彼女に笑い返し、小さな律を追いかけた。
正直なところ、僕も普通にそう考えた。二人目……もう律も2歳だし、ずいぶん前に矢掛先生にもゴーサインはもらってるし。
でもなんか、まだまだ律と濃密な時間を過ごしたい気持ちもあって透にも言い出せないでいる。
透の口から二人目の話を聞いたことは一度もない。律を育ててみて、もしかしたら子供はひとりでいいって思ってるのかもしれない。子供を一人育てるのにかなりお金がかかるってことは僕だって知ってるくらいだし、透はもっと細かく計算して計画立ててそう。
ま、今はいっか。その時が来れば自然と──
そういつものように考えを流して、スコップで砂をバケツに入れ始めた律の隣に座って、砂場を囲む木々の新緑の葉が風に揺れるのを見上げていた。
夕方、まだ完全に日が落ちないうちに仕事が早めに終わったといって透が帰ってきた。律をお風呂に入れてくれるって言うから喜んで任せてごはんの支度をしようとしたら、
「ままも!ままもおふろ!」
律が透に抱っこされたままウキウキとした様子で言ってきて──
「えっと、ママはごはんつくるからね、りっちゃんはパパと──」
「だめ!ままも!」
「でもりっちゃん、お風呂場は三人はせま──」
「いやんの!ままも!」
いやんの、は律語でイヤという意味。それを聞いた透が「じゃあいつも通りママと入りな」と僕に律をよこそうとすると、今度はひしっと透にしがみついて「いやんのおーー!!」と耳にキンとくる声を張り上げた。
「とぉるも!りっちゃんと、ままと、とぉると、おふろー!」
こうなると律は、頑として譲らない透譲りの意志の強さを見せる。透は僕と視線を合わせて笑うと「だってさ」と僕をお風呂場へ誘った。
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