ステイホーム・オブ・ザ・デッド

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パンデミック宣言から十日目の朝、俺はいつものように自宅のパソコンの電源を入れた。 程なく曲が流れ、六分割された画面に映し出された面々が(だる)そうに体を揺らし始める。 日課のラジオ体操だ。 在宅勤務になってからは、リモートで個々の顔が丸見えになるため手が抜けない。 出社勤務の時はデスクの陰で深呼吸しかしなかった奴も、今はこれ見よがしに腕を振り回している。 現金なものだ…… そうだ、タナカは…… 俺は画面右下の課内で一番若く、一番真面目なタナカに目を向けた。 いつもは率先して体を動かす奴だが、今は何故かじっとしている。 顔面蒼白で、どこか苦しそうだった。 「タナカ君、どうした?」 課長が深呼吸をしながら声を掛ける。 「す、すみません……今朝から体調が悪くて……」 蚊の鳴くような声でタナカが答える。 さらに突然、「うっ」と口を押さえ画面から姿を消してしまった。 机の下にうずくまったようだ。 間髪入れず、嘔吐する音が画面越しに聴こえてきた。 「大丈夫かね!?タナカ君」 課長がホイッスルのような甲高い声を上げる。 すでにラジオ体操は終わっているが、皆深呼吸の体勢のまま固まってしまった。 どれも驚いた顔をしている。 やがて、デスクの端からモゴモゴと何かがせり上がってきた。 背中のようだ。 机上に手をつき、起き上がったタナカの顔は見るも無惨な様相だった。 血の気の無い頬は腫れ上がり、蜘蛛の巣状に血管が浮き出ている。 見開いた眼球は白目部分が真っ赤に染まっていた。 口から流れる黄色いよだれが、止めどなく机上に垂れ落ちている。 「大丈夫か?タナカ君。顔色が悪いぞ……無理しなくていいんだぞ」 上擦(うわず)った課長の金切り声がさらに高くなる。 音だけ聴けば(ほとん)どカラスの鳴き声だ。 「ううっ……」 タナカが頭を揺すりながら声を出すが、何と言ったのか分からない。 「ふむふむ、そうか……では暫く休んでいたまえ」 課長が神妙な面持ちで相槌を打つ。 いや、分かったのか!?今の言葉が…… 全員の驚きと懐疑の視線が課長に集中する。 それに気付いた課長は照れ臭げに頭を掻いた。 「ウチにもポメラニアンがいるもんでね」 いやいや、ドクタードリトルじゃあるまいし…… てか、イヌと一緒にすんなよ。 課長は澄ました顔で咳払いを一つすると、ごそごそと書類を取り出した。 それを合図に全員が席に着く。 とりあえず朝のミーティングはやるらしい。 「さて、本日の連絡事項だが……」 「うごぉぉぉっ!!」 課長の言葉を(さえぎ)るように突然タナカが吠えた。 思わず全員総立ちになる。 「き、気にするな。風邪の時は(ひど)い咳が出るもんだ」 慌てて課長が皆を制する。 今のは咳か!? いやそれ以前に、タナカはいつ風邪だと分かったのだ? 「ウチのオカメインコも丁度風邪をひいててね……」 いや、あんたんちのペットの話はもういいから。 俺は(いぶか)しげに課長の顔を眺めた。 さすがに皆の頭にもハテナマークが浮かんでいる。 これはもしや…… もしや今流行りの新型ウィルスじゃないのか!? 全員が俺と同じ疑念を抱いたのが雰囲気から読み取れた。 一カ月前、南米の小国で始まった感染はあっという間に世界に広がった。 WHOがパンデミック宣言を出したのが先週の事だ。 日本でも日に数千人単位で感染者が急増し、非常事態宣言も発布された。 県外への移動は勿論、あらゆる外出を自粛せよとの御触れが出た。 サラリーマンを擁する全ての企業が対応に追われ、勤務形態は順次在宅勤務にシフトしていった。 厄介なのは、このウィルスの全容が(いま)だ解明されていない事だ。 唯一分かっているのはという事だけで、罹患後の症状も人によって様々だった。 高熱が続く者もいれば呼吸困難に(おちい)る者もいる。 下痢や嘔吐、筋肉痛や吐血した者もいると聞く。 ただ最近になって共通の症状も顕在化してきた。 感染してから数日後に、を起こす者が急増してきたのだ。 思考力が低下し、人の言語をほとんど解さなくなる。 食事も受け付けず、挙動が極端に粗暴になる。 飢えた狂犬さながらに噛み付きまくるのだ。 接触感染ゆえに噛まれた者も感染者となってしまう。 実際に医療関係者の間で被害が拡大していた。 当然ながら治療薬もまだ無い。 暴れないよう抗精神病薬を投与し、ベッドに拘束するのがセキの山だ。 だがそれにも限界がある。 膨大な感染者数に対し病床数が圧倒的に不足していた。 やむなくホテルや自宅療養で対応するが、往診する医師や医療機器の配備も間に合わず、ほぼ野放し状態となっている。 もはや医療崩壊と言っても過言では無かった。 政府は非常事態宣言の対象区域を全国に広げ、何とか感染拡大の抑制を図ろうとしたが、最早(もはや)手遅れだった。 医療報酬の拡充策も崩壊の波を止めるには至らない。 何より医師の絶対数が足りていないのだ。 これが三十年前の日本なら、とっくに滅んでいただろう。 今俺たちにできることは、極力人との接触を避けること── それしか無かった。 画面を通してしか見ていないので、はたしてタナカが新型ウィルスと同じ症状なのかは分からない。 だが一度ウィルス検査をした方がいいのではないか。 忠告の言葉が喉元まで出掛かるが、結局そのまま呑み込んでしまった。 そんな事を口にして差別表現だと悪者扱いされてはかなわない。 それでなくとも、感染者に対する世間の風当たりは強いのだ。 非難の対象は本人だけでなくその家族にまで及ぶ。 実際、悪戯書きをされたり、投石されたりする家もある。 その要因をつくった存在になどなりたくない。 結局、誰一人口を開く事なく着席したのだった。 「いい知らせだ。今月の安全月間の標語募集で、何とタナカ君の作品が最優秀賞に選ばれた。いや、おめでとう」 課長が取って付けたような満面の笑みで拍手した。 皆もつられてぱらぱらと手を鳴らす。 俺はタナカの様子を眺めた。 机上の書類をじっと見つめ肩を震わせている。 ひょっとして……感激してるのか? おめでとうと言いかけた俺の目前で、タナカは書類を口に放り込むとムシャムシャと食ってしまった。 俺は顔に笑みを貼り付けたまま凍りついた。 見ると全員が俺と同じ状態だった。 「ま、まあ何にしてもウチの課としても鼻が高いと言うもんだ。いや、よく頑張ったな」 課長の何のフォローにもなっていない言葉が(むな)しく木霊(こだま)した。 皆も何とか笑おうとして埴輪(はにわ)のような顔になっている。 タナカ一人無表情で、体を揺すっていた。 さすがに課長も気まずくなったのか、言葉を詰まらせた。 沈黙が流れる。 「……お、おう、そうだ!最優秀賞の賞金を忘れていた。これを手にしたら、風邪など吹っ飛ぶんじゃないか」 『最優秀』と書かれた封筒を取り出し、課長が大仰(おおぎょう)に振り(かざ)した。 まだ『風邪である説』を変えるつもりは無いらしい。 タナカは特に反応も示さず、下を向いて「ぐるる……」と唸った。 当てが外れて窮地に陥った課長は、目をくるくると回転させ必死に何か考えているようだった。 このままでは部下の統率一つできないアホな上司の烙印(らくいん)を押されてしまう。 ここは一つ何かで挽回しないと…… ……そんな事を考えていそうな顔だ。 「……そ、そうだ!これから皆でこれをタナカ君に渡しに行くというのはどうだろう。皆の(なま)の声を聞けばタナカ君も元気になるんじゃないか。ついでに彼を病院まで運んであげようじゃないか。なあに、風邪ごとき恐ろしい新型ウィルスに比べたら屁でも無い。どうかね」 いや、あんたの考えの方が恐ろしいわ! 課長の想像を絶する強引な提案に、皆が一瞬言葉を失った。 外出自粛中なんだぞ! パンデミックなんだぞ! 分かってんのか!? 「なぁに、風邪ならマスクさえしとけば大丈夫だ」 そう言って自信満々の表情を浮かべる課長。 いや、あんたの太鼓判貰っても仕方ない。 医者でも無いのになんで風邪だと断言できる。 なんでそんなリスク負ってまで渡しに行かなきゃならない。 俺は絶対やだからな。 俺も…… 私も…… ……と、よってたかって反対したいところだが、結局誰もが口に出すのをためらった。 「同調」はいいが「率先」は嫌だ。 それでは逃げ道が無くなる。 サラリーマンの哀しい(さが)だった。 だいたい当のタナカはどうなんだ? 体調の悪い時になぞ来て欲しく無いにちが…… タナカに向けた全員の視線が固まる。 今まで無表情だったタナカの顔に、嘘のような笑顔が浮かんでいた。 俺が何かと面倒見てやるたびに、コイツは「せんぱい、あざーす」と言ってよく(なつ)いてくれた。 屈託の無いその笑顔が俺は嫌いじゃ無かった。 今の顔はどう見てもいつものタナカだ。 全員の表情も見る見る(ゆる)んでいくのが分かった。 俺の思い過ごしか…… やはり、課長の言うように只の風邪だったのか…… 後輩の満面の笑みが俺の心に余裕を持たせた。 そうだな…… どっちにしても接触さえしなければ大丈夫か…… 「分かりました。そうしましょう」 気付けば、俺は同意の声を上げていた。 タナカの事も心配だし、ここは課長に花を持たせるとするか。 ふと画面を見ると、全員が俺に調笑っていた。 「そうか、そうか……では今からお邪魔するよ、タナカ君。待っていたまえ」 ミーティングを途中で切り上げ、パソコンの電源が落とされた。 俺はマスクと手袋、念のため携帯用消毒液をカバンに放り込むと、迎えが来るのを待った。 真っ暗になった画面を見ながら、タナカの顔はまだ笑っていた。 皆が話す会話の意味など全く分かっていなかった。 勿論、今自分が置かれている状況も分かっていない。 いや、だろう。 分かっているのはということ。 そしてということだ。 その悦びが自然に笑みとなって顔に張り付く。 それは理屈では無く、たんに動物的本能だった。 そう…… もうお分かりだろう…… これがこの新型ウイルスがもたらすだった。 中枢神経を冒したウィルスは人間的感情の全てを奪ってしまう。 自制心というブレーキの外れた感染者は欲望のままに動く。 人が持つ最も基本的な欲望── 腹が減れば人でも動物でも片っ端から食らっていく。 そこに道徳心や自制心などは微塵も存在しない。 腹が(ふく)れさえすればいいのだ。 きっと今から数えきれない程の者が、同じ運命をたどる事だろう。 食うために人を襲い、襲われた者はまた人を食う。 この世の終りってのは、こんな風にやって来るのかもしれない…… ピ〜ン♪〜ポ〜ン♪ しばらくして玄関のチャイムが鳴った。 パソコン画面に映っていた六人の顔を思い浮かべ、タナカの口からよだれが流れ落ちた。 「タナカ君。迎えに来たぞ〜」
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