第四章

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第四章

 ──環のしたいことを教えてよ。  ──環の本音を教えてほしい。  哲郎の言葉が環の頭の中を巡る。ドタバタと音を立てながら意識の隅から隅までを駆け回り、ベッドに潜り込んでも環を寝かせてくれない。仕方がないから哲郎の顔を眺めながら自分の散らかった思考回路を一つ一つ拾い上げて並べていく。  哲郎のことを愛しているか? その問いに対しての答えはイエス以外にない。ただ常に付き纏う劣等感。自分なんかが、と言う気持ちが拭えない。  本音なんて打ち明けてはいけないと思っていた。蓋をして麻痺しかけていた「好き」という気持ちを哲郎が「プロポーズ」という奥の手でこじ開けてきたのだ。丸裸で投げ出された気持ちは着地点が分からずにグラグラと揺れている。 「お前はこんな時にも気持ちよさそうに寝るんだな」  口の端から涎を垂らして穏やかな寝息を立てている。自分ばかり悩んでいる気がして癪だったので顎髭をひっぱってみた。すると途端にしかめ面。眉間の皮膚が皺が刻まれる。とてもハンサムとは言えない寝顔だけど、気付いたらこの男が誰よりも愛おしい存在になっていた。  そっと寄り添うようにして環も目を閉じる。ごたごた理屈を並べたって前には進めない。今まで哲郎が環のわがままを聞いてくれたように、次は環が哲郎の願いを叶える番だ。哲郎の胸の辺りに額を寄せて呼吸を感じているうちにゆるやかな睡魔が襲ってきた。  明日、目が覚めたら本音を打ち明けよう。  自分の胸の内を明かすのは未だに難しいことだけれど、哲郎が望むなら乗り越えられる気がした。 「……なんで起こさないんだよアイツは」  翌朝。目を覚ますと哲郎はもう既に家を出た後だった。ご丁寧に環の分の朝食も用意してくれたらしい。ラップに包まれて机の上でポツンと食べられるのを待っている。 「朝早いとか聞いてないのに」  ここにいない人間に文句を言ったところでどうにもならない。いつもなら見送ってくれと休みの日でも容赦なく起こしてくるのに、今日に限って何も言わずに出て行くな……なんて自分勝手なのは重々承知であるが、それだけ環の決意は固かったのだ。  哲郎が用意してくれた目玉焼きの黄身の固さも、ベーコンの焼き具合もとにかく好みだ。この五年の間、それなりに喧嘩もしたが歩み寄りながらここまでやってこれた。いつも食べている朝食が全く違う味に感じる。たった気持ち一つで世界は何色にも変わる。 「……ビールでも買っといてやるか」  今日は休みだ。普段なら部屋の隅々まで掃除をしているうちに昼を迎えるのだけど家でジッと過ごしている気分にはなれない。手早く身支度を整えてポケットに財布と鍵を突っ込んだまま玄関へ。外をぶらついて時間を潰した後、哲郎を迎えに駅まで行こう。そしていつもみたいに帰宅してすぐに思いを打ち明けるのだ。  久々に街を出かけるのは楽しかった。  二駅隣のターミナル駅まで出て、駅ビルを巡り、本屋でお気に入りの作家の新作を購入し、そのままビルの中の小洒落たレストランカフェでに入った。そこで昼食を済ませた後は手持ちのタブレットを使い定期購読しているファッション雑誌を一通りチェック。全て読み終えた頃には客もほとんど入れ替わっていた。慌てて環も会計を済ませて外に出る。  街の散策の目的は息抜きもあるが、哲郎に気持ちを打ち明けるのと同時に渡すプレゼントを探しに来たのだ。  夜、改まって向かい合うのがなんとなく恥ずかしい。少し良いビールでも買って軽く酔わせた後に自分の胸の内を──あの日伝えられなかったプロポーズの答えをちゃんと伝える。シラフの時に言わないのは少しずるいかもしれないが、本心を見せるのが不慣れな環なりに頑張っているのでこれくらいは許されたい。 「って言ってもビール以外もあった方がいいよな」  駅ビルの地下にある酒屋で哲郎の好きなビールとつまみを購入したが、これではいつもよりちょっと良いくらいだ。もう少し特別感がほしい。しかし何をしたらいいかも分からないのでもう一度エスカレーターに乗ってファッションのフロアに向かった。  しかしどうしても「これだ!」となるものが見つからない。気を使わせない程度のもので特別なものとなると選択肢に挙げられるもの自体、ないに等しい。 「指輪とかは流石になー……」  プロポーズの時のお約束の品、指輪。よくドラマなんかでは指輪を差し出して「結婚してください!」なんてシーンがあるが恥ずかし過ぎて絶対無理だ。第一、哲郎の指輪のサイズも知らない。哲郎からプロポーズを受けた時は事後であった。何もない中でポン、と勇気がいることを口に出来る哲郎に環は尊敬の念すら覚えた。  そんな中、環の目に止まったのは──花屋だった。 「まぁこれなら後にも残らないし、受け取る側も楽でいいか」  小ぶりなブーケなら部屋に飾って楽しむことも出来る。アレンジメントなら花瓶を用意しなくてもいい。 「すいません、アレンジメントを頼みたいんですけど」 「はい、どれぐらいのご予算でしょうか?」 「予算……よく分からないので小ぶりなサイズで適当に見繕ってもらえますか?」 「かしこまりました。ただ、今日薔薇が残り一本しかなくて……赤以外の薔薇ならあるんですけど」 「お任せします」  哲郎は青や緑と言った寒色系が好きだったのでそれを伝えた。こんなところでも環と好みが違うのが面白い。環は赤やピンク、橙などの暖色系が好きだ。 「薔薇って人気があるんですね」 「今日は大量に予約が入って……いつもなら余裕があるんですけど」  銀のバケツの中で最後の一本が可哀想に思えてきた。まだ開いていない赤の蕾。それ故にはねられてしまったのだろう。 「あの、せっかくなんであの薔薇も一緒に買わせてもらっても良いですか? 一本だけ別に包んでもらえれば」 「かしこまりました」  もし気持ちを打ち明ける時に余裕があれば薔薇を差し出してみよう。自分が思っている以上にロマンチックな演出が好きなのかもしれない。 「ありがとうございました」  アレンジメントと薔薇を一本、紙袋に入れてもらい店を出る。あとは適当に時間を潰して哲郎の帰りを待つだけ……と思ったところにメールが一通。 『悪い、少し遅くなりそう。我慢できなかったら先に夕飯食べてて』  思わずため息が出てしまう。せっかく決意をしたのになかなかタイミングが合ってくれない。一人歩く帰り道は寂しかった。隣に哲郎がいるのを当たり前に思っていたせいだろうか。
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