第一章

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第一章

「家族にならねえか?」  いつも以上に激しいセックスを終え、余韻に浸っていた環に哲郎はとんでもない言葉を投げかけてきた。セックス後の頭は思うように動かない。哲郎が言う意味を理解したのは十数秒後。しかしそこから何秒かかっても答えは出て来なかった。 「環……?」  哲郎が今にも泣きそうな目でこちらを見てくる。いつも笑ってばかりの哲郎が眉尻を下げるのを見るとどうも居心地の悪い気分になった。きっとこの言葉は彼にとっての「ケジメ」だ。こういう時、何と言えば正解なのだろう。  ──そうだな、家族になろう。  ──俺もそうなったらいいなって思ってた。  ──指輪は給料三ヶ月分以上で。  思いついた言葉はどれも嘘めいたものばかり。哲郎のことは嫌いじゃない。だからと言って愛しているのか問われたら頷くことが出来ない。  環と哲郎は恋人じゃないから。  知り合って二十年近く。長らく続いた友人関係が肉体関係を伴うようになったのは五年前。ズルズルと引きずった付き合い。側から見たら〝セックスフレンド〟という括りになるのだろう。だが〝フレンド〟というには深過ぎる仲で〝恋人〟というほどのめり込めない。哲郎は環の関係はあまりにも中途半端で少しのきっかけで崩れてしまいそうな不安定なものだった。  お互いに三十九歳。四十路も目の前。人生についてキチンと考えなければならない歳。分かっている、でもそんな家族だなんて。 「家族ってつまりは、養子縁組的な?」 「戸籍上ちゃんと出来たらいいなって思うけど、なんて言うか、事実婚的な」 「いや、でも俺達……」  セフレだろ。  言葉の続きを言いそうになってグッと飲み込む。それを言ったら二人が今まで積み上げてきたものが全部ダメになってしまう。環は酷く混乱していたがそれくらいは判断がついた。確かに二人はこれ以上なく親密な関係だと思う。でもあくまでも身体の関係があってこそで、色んなものを飛び越して家族だなんて。  沈黙を拒否と受け取ったのか、哲郎は苦笑いを浮かべ背中を向けてしまった。いつもなら環が拒否をしても腕枕をしようとしてくるのに。  やがて寝息が聞こえてくる。言うことだけ言ってさっさと寝るなんてどんな神経をしているんだろう。神経質な環がこんな状態で寝れないのを知っていてさっさと寝たのだとしたら引っ叩いてでも起こしてやる。だが哲郎はそんな深い部分まで考えられる男ではない。環が一番よく分かってる。 「深く考えなくていいって言ったの、お前だろーが」  ──深く考えなくていいよ。遊びでもいいし、次にできる彼氏までの繋ぎでいいから今は俺にした方がいい。  あの日の誘い文句を延々と脳内で繰り返す。初めて哲郎に抱かれた夜。窓辺から見える夜空はどんよりと曇っていた。僅かな夜明かりが緊張して引きつった顔を照らしていたのを今でもはっきりと思い出せる。変な顔過ぎて笑えねーよ、と目の前の背中をペチンと叩いてみるけれど哲郎は深い眠りに落ちたまま。  大沢環は人生で初めてプロポーズをされた。  月明かりが照らすベッドの上で。答えを出せないまま、ぼんやりと窓の外を眺めていたらスズメが愛らしく鳴き始める時間になっていた。強く叩きすぎたせいか哲郎の背中には環の手形が真っ赤に残っている。 「え、断っちゃったんです?」 「断ってないよ」 「でも沈黙とかやばくないですか? 絶対彼氏さん傷付きますよー」 「だから彼氏じゃないって」 「セックスして家行き来して……それを五年続けてるって完全に彼氏でしょ」 「ああもう! うるさいなっ! 早く手を動かせ! 手を!」  美容師にとって開店前は時間との勝負。新人のアシスタントのシャンプー練習終わり。洗いざらしの髪をセットしたら、予約の確認。それからレジ準備やら店の掃除やおしぼりのセッティング……やることを挙げたらキリがない。流石に新人の頃に比べれば要領よくこなせるようになったが店長まで上り詰めた今でも余裕がある訳ではない。 「遊馬さん良い人なのに」 「アレが?」 「アレとか酷くないですか? 大沢さん、遊馬さんには超塩対応ですよね。遊馬さん、私なんかにもやさしくしてくれるのに」  鏡に向かって髪型の最終確認。四十も手前になると染めても染めても白髪が出てくる。幸い環は抜け毛とは縁がない体質だったがその分白髪が多い。顎先まで伸ばしたダークブラウンの髪にヘアオイルをつけながら生え際のあたりをチェックする。歳ですね、なんて横槍を入れてきた山本を足で脛のあたりを小突いて黙らせた。  山本と環の付き合いは長い。十数年前、環が駆け出しのスタイリストの頃に山本が入社してきた。初対面の印象は〝絶対に相容れない人種〟とでも言えばいいのだろうか。世の中を舐め腐ったギャル。絶対近寄らないと決めた矢先に研修担当になったのは今では笑い話だ。そんな彼女も今では環の右腕、副店長としてメキメキと頭角を表している。 「ってか塩対応とか遊馬さん可哀想。もうちょっと優しくした方がいいですよ。じゃなきゃ本当に別れるとか、そんな風になりそう」 「別れるとか言う前に付き合ってないんだって」 「あのぉ、ちょーお節介かもしれないですけど。ちゃんとした方がいいですよ。人としてっていうか」 「……ほっとけ」  環自身も自分の恋愛観が非常に歪んでしまってる自覚はあった。人間というのは失敗を繰り返すとソレ自体を諦める人種と失敗の度に立ち上がり気分新たに次に進むに人種がいる。環は前者であり、哲郎は後者。 「どうにかしたくても、どうにもならないこともあるんだよ」  山本が口を開きかけたところで新人のアシスタントが山盛りのタオルを抱えてやってきた。これ以上追求されずにホッとしたのも束の間、懸命にタオルと格闘する新人が哲郎との関係が始まった頃──仕事もプライベートも不器用で上手くこなせない自分と重なりどうしようもない気持ちになる。  もう随分と遠いところまで来たものだ。そろそろ決着をつけなければならない。環だって分かっている。哲郎の優しさに甘え過ぎている現状を。この先、哲郎が笑って環のワガママを許してくれる保証なんてどこにもない。
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