第三章

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「なぁ、環の食べたいもんとかねえの?」 「ない」 「こってりよりあっさりの方がいいとかさ、なんかもっとがっつりとか……」 「がっつりはお前が食べたいんだろ」 「バレたか」 「まじな話、作ってもらってるだけ助かるから。何でもいい」  いつものように向かい合って食事を摂る。すると環の箸が進んでないことに気付いた哲郎が環の表情を伺うように問う。  哲郎の料理が問題ではない。環の体調の問題だ。せっかく作ってもらったのだからと残さず胃に詰め込んでいたら、段々と環の夕飯の量が少なくなっていった。きっと環の変化を察して減らしたのかもしれない。 「弁当も食べれないほど忙しいのか?」 「食べるタイミング逃しちゃってさ」 「食べないと仕事どころじゃねえだろ。あれか? おにぎりをもう少し小さくした方がいいのかもなぁ」  忙しいから食べれない訳じゃない。店の売り上げがどんどんと落ちているから暇と言ってもいいくらいだ。どうにかしようとスタッフに発破をかけるほど溝が深まっていく。  一体何がいけないだろう。  思い返せばこの時期、あまり身体を重ねてはいなかった。自分から誘う元気もなければ、哲郎も環の様子がおかしいことを気にして早めに寝るように促していた。布団に潜るとすぐに聞こえてくる哲郎のいびきを聞きながら、自問自答を繰り返しているうちに朝を迎える。こんな日々を繰り返している間に環の心身はどんどん削られていった。  翌日。朝の柔らかな光が睡眠不足の身体に降り注ぐ。今日はとある来客があるのでいつもより早く家を出た。通勤ラッシュと重なって電車の中でもみくちゃにされて、疲弊した精神が更にすり減る。空の青さすら恨めしい。だが環にとって大事な来客。遅刻するわけにはいかない。 「おい、環。大丈夫か?」  店の鍵を開けてすぐくらいに来客は現れ、環を見るなり心配そうな表情を浮かべる。 「大丈夫です」 「大丈夫じゃないですよぉ! 彼氏の作ったおにぎりも食べてないんですよ? 柏木さんから見てもやばいですよね?」  オーナーの柏木は環の二つ上の先輩だ。  初めて勤めた店で知り合い、柏木が独立するというので環も店を辞めて着いていった。いつも自信がない環を支えてくれた恩人の一人。どうやら山本が環の様子を話したらしい。様子を見に店までやって来てくれたのだ。 「確かに顔色悪いな……。お前のことだから売り上げが落ちたこと、気にしてんだろ?」  痛いところを突かれて何も言えなくなる。ここのところスタッフ間の空気の悪さもさることながら、売り上げが徐々に落ちてきているのだ。最初は新店舗として注目を浴び、クーポンなどを利用した客が多く訪れる。それをリピートさせられるかどうかはスタッフ次第。 「あの、柏木さん」 「どうした」 「本当に、俺でよかったんでしょうか。店長って大役、俺よりももっと適任がいるって。今だってあまりスタッフ間の空気も悪い。俺がいい方向に持ってこうとしてもどんどん悪くなっていく。お客さんにもそれが伝わっている気がして──」 「環、落ち着け」  堰を切ったようにマイナス感情が噴き出す。それを柏木の一言が押さえ込んでくれた。いつもは茶化す山本も環を心配そうに見つめている。 「何かあると抱え込んじまうの、変わらないな」 「……すいません」 「謝ることじゃない。環が潰れても意味がないだろ? 店の問題はスタッフ全員で解決しなきゃいけない」  柏木が言う意味も理解出来る。それでも環はどうも自分を責めてしまう。こればかりは性格からくるものであり、尊敬する人に言われてもすぐに直せるものじゃない。 「分かりました」  わざわざオーナーに時間を取らせてしまったこと。あの元気印の山本に暗い顔をさせてしまったこと。何もかもが環の心に重くのしかかってくる。それでも朝礼の時間は来る。どうにかしなければと注意事項を懸命に話すも、新人達はいつもの態度。これではもうダメになる一方だ。 「……美容師は髪を切るだけが仕事じゃないからな。それが分からないやつは辞めてもらっても構わない」  苛立ちを含んだ言葉に場が一気に凍りつく。最悪の状態でその日の業務は幕を開けたのだった。  営業を終えて、環は一人夜道を歩く。もう終電も近い。歩くのも億劫だ。この際アスファルトでもいいから今すぐ横になりたい──そんな衝動を抑えて重い足を引き摺るようにして帰路を行く。  今日は散々だった。カラーの指示ミスから始まり予約の取り違え。クレーム対応や報告書などを作っていたらあっという間にこんな時間になってしまった。携帯を見ると哲郎から何件か着信があった。それから写真付きのメッセージ。  ──今日はトマトリゾットだぞ!  トロトロに煮込まれた真っ赤なリゾット。彩りを添える鮮やかな緑のパセリ。食欲のない環のために考えられたメニューだろう。自然と涙が溢れる。何の役にも立っていない自分に優しくしてくれる哲郎、そして柏木や山本。どうして結果が出せないのにここまでしてくれるのか。分からない。でも今は会いたくて会いたくて仕方ない。  気付いたら走っていた。先ほどの足取りが嘘みたいなスピードで。点滅する青信号。だいぶ距離はあるが止まるなんて選択肢はない。一気に駆ける。  会いたい。会いたい。哲郎に、会いたい。  信号を渡って右を曲がれば哲郎と住むマンションがある。前しか見ていなかった。迫り来る車にも気付かず。  弾けるような強烈なクラクションが響く。  ヘッドライトが眩しくて立ちすくむ。早く後ろに引かなければ、轢かれてしまう。だが足裏が横断歩道にくっついてしまったかのように動けない。 「環っ‼︎」  哲郎の声が聞こえた。死の間際に走馬灯を見るというが本当だったのか。それにしても祐希のことなんてカケラも思い出せないのに哲郎の声だけこんなにも鮮明に聞こえてくるなんて…… 「環! あぶねぇっ!」  二度目の声と共にグッと腕を掴まれてそのまま歩道に倒れ込んだ。硬いアスファルトの上に倒れ込んだのだから痛くて仕方ない──なんてことはなく、哲郎が下敷きになってくれたおかげで擦り傷だけで済んだ。 「あ、て、哲郎……ごめ、」 「よかったぁ……」  呆然としたままの環を力一杯抱きしめる。散乱したビール缶から見るに近くのコンビニまでビールを買いに行っていたのだろう。 「足、擦りむいちまってるな」  早く帰って消毒しよう、なんて環を急かす哲郎の左手首は真っ赤に腫れていた。
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