第三章

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「ギプスなんて久々だなー」  左手首をガッチリと保定するギブス。表面を真っ白な包帯が包む。痛々しい姿であるが、当の本人が見せつけてくるから環は何も言えなくなってしまった。  あの晩、環を庇った時に左手を地面に突いた際に痛めたらしい。帰ってからも引かない腫れと段々と痛みで真っ青になっていく哲郎の顔が仕事中も頭から離れなかった。  落胆を上手く隠すことが出来ず、山本を始めとしたスタッフに気遣われる始末。事情を知った山本がさり気なく後片付けを代わりにやるから早く帰るよう促してくれた。昨日の険悪な空気を引きずったままの今の状態では、環があまり遅くまでいてもスタッフも居心地が悪くなるだけだろう。  帰宅に着く人混みを縫うようにして歩く。一刻も早く哲郎の顔が見たくて早足になる。だが昨日のようなことを二度と起こさないように周囲に気を配りながら。 「骨折れてたわ」  帰宅して早々に出迎えた哲郎がそういうものだから思わず血の気が引いて倒れそうになった。ただ本人は深刻な様子もなく自慢げにギプスを見せつけてくる。 「なんかギプスってガントレットみたいでかっこよくね?」 「かっこよくねーよ。痛々しい」 「うそぉ。なんかドラクエとかの装備品みたいじゃん」 「どうしてお前はそんなに楽観的なんだ」 「もう折れちゃったんだし、くよくよしてても仕方なくね? あ、でも料理とか出来るかな。あと風呂とかもめんどくさそう」 「料理は俺がするし、風呂も手伝うよ」  元はと言えば環のせいで負った怪我。哲郎の生活で不便な部分があれば全て介助するつもりだ。料理に関しては自炊派ではないし、哲郎ほどの料理は作れないかもしれないがそこは惣菜屋の力も借りてどうにかしよう。 「頭とかも洗ってくれる?」 「もちろん。その手じゃ難しいもんな」 「プロに洗って貰えるなんてラッキーだ。風呂での楽しみが出来た」  もし環が哲郎と同じ状況だったら、怪我を負わせた相手を責めたかもしれない。どんな状況下においても哲郎はプラスな言葉を口にする。それがどれだけ環の救いになるか、彼は気付いているのだろうか。  少しぬるめの温度のお湯で念入りに髪の毛をすすいだ。あまり知られていないが洗髪において重要なのはすすぎの工程だったりする。ジェルで固められた髪をリンスでほぐした後、洗い流してシャンプー。指の腹で頭皮を柔く掻く。すると哲郎の口から「あー」と脱力の声が漏れた。 「お痒いところはございませんか」 「ははっ、プロって感じだな」 「……シャンプーするとつい出ちゃうな。職業病かも」 「でも本当にすげえな。店長になるだけあるよ。色々な人にシャンプーしてもらったけど環が一番上手い」 「そりゃどうも」  哲郎の弾むような声からお世辞ではないことが分かる。何だか嬉しくなってより一層シャンプーをする手に熱がこもった。 「これでもさ、同期の中で一番テスト通るの遅かったんだよ。でもめちゃくちゃ努力した。せめてシャンプーだけでもお客さんに来てよかったって思ってもらいたくて」  そう、お客様に喜んで欲しかった。今もその気持ちは変わらない。なのにどうして上手くいかないのか。最近は元々の顧客にまで元気がないと心配される始末。やはり環では店を纏めるのに向いていないと痛感する。 「こんな神業持った店長の元で働けるなんて幸せだな、環の店の子達は」 「……それがさ、ダメなんだ」  店の話題になり思わず弱音が溢れる。せっかく褒めてもらえたのにここで言うことではない。分かっているが、弱って極限を迎えた心は環の口を閉じさせない。 「せめてホスピタリティだけでも、って思って毎日反省点を上げては伝えてる。でも若いスタッフに伝わらないんだ。どうしてだろうな……どれだけ頑張ってもめんどくさいって顔される」  シャワーの温度を手のひらで確認してから泡まみれの髪をすすいだ。 「もうダメなのかな」  泡が落ちて排水溝に流れていく。それをボンヤリと眺めながら頭を過ぎる「退職」の文字。きっと自分は店を任されるよりも一スタッフとして働いた方がいいだろう。 「ダメじゃねーよ」  蛇口を閉めたと同時に哲郎が言った。水音に紛れていたから環の声なんて聞こえていないと思っていた。戸惑う環に哲郎は続ける。 「ダメじゃないよ、環は。だってすっげえ真剣に取り組んでるじゃん。じゃなきゃこんなやつれるまで悩まないだろ。毎日、見てられなかった……でも、俺が口出すことじゃねえから」 「……気付いてたんだ」 「当たり前だろ」 「でも本当に上手くいかないんだ。俺なんかじゃ」 「俺なんかって言うな」  いつも飄々としている哲郎がこんなにも強い口調で何かを言うのは珍しい。突然の態度に戸惑っていると鏡越しに目があった。 「環は頑張らなきゃとか優れていなきゃとか言うけど良いんだよ。ありのままで。リーダーになれないなら、なれないなりのやり方もある。一個じゃないんだ。やり方は」  常に柏木のようなリーダーシップを持って引っ張らなきゃいけないと思っていた。山本のように明るく振る舞わなきゃ場の空気を壊すと思っていた。どちらにも環には出来なかった。 「大丈夫だよ。どんなに辛くてもちゃんと見てるよ。環の気持ちが伝われば少しでも何かが変わるさ」 「どうしてそんな風に言い切れるの」  どうしても可愛くない言葉が出てきてしまう。ポロポロと涙が頬を伝い落ちてシャワーの湯と混じり排水溝へ吸い込まれていく。こんな歳で泣くなんてダサいにもほどがある。そう思っても涙を止めることが出来ない。 「俺はずっと環を見てきたから」  自分が泣いたら他人の機嫌を損ねてしまう。そう思っていたのに哲郎は咎めることもなく鏡越しに慈愛の眼差しを向けてくる。 「保証する。俺はいつだって環の味方だ」  身体だけの関係だったはずだ。それなのに哲郎の言葉一つでこんなにも救われる。なんだか憑き物が取れたような気がした。でも涙が止まってくれないから誤魔化すようにボディータオルでソープを泡立てて背中を洗い始める。全て洗い終えたら、嬉しそうな顔で「ありがとう」と言ってくれた。  初めてアシスタントとしてシャンプーをした時を思い出す。お客様にお礼を言われた時、環は「自分はこの道で頑張りたい」と心から願ったのだ。
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