第三章

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 翌日の出勤はいつもよりも気が楽だった。手首は無事ではなかったが哲郎自体は元気だったこと。そして浴室で哲郎にかけてもらった言葉が環の心のもやを晴らしてくれた。  何より環自身に考えるきっかけをくれたのだ。  今まで新人スタッフに対して環の考えを押し付けていただけではないか。環だってダメ出しばかりではやる気を削がれてしまうだろう。「何故こうして欲しいのか」を明確にしていなかったことにも気付く。理由が分からなければ工夫も出来ないし、疑問点も浮かばない。 「おはよう」  店に着くとアシスタント達はシャンプーやカットの練習をしていた。予定よりも早い環の登場に疎らな挨拶で出迎え。歓迎されていないのがヒシヒシと伝わってくる。だがもう怖くなんてない。  ──保証する。俺はいつだって環の味方だ。  自分の店なのにアウェイ。最悪な状況だ。でも環には一番の味方がいる。アウェイをホームに変えてやろうじゃないか。昨日までのウジウジしていた自分が嘘みたいだ。 「大沢さん、おはようございます」 「おはよ」  指導にあたっていた山本が環を見るなりパタパタと駆け寄ってきた。環の顔を見るなりニンマリとした表情を浮かべる。 「その様子だったら彼氏さん、大丈夫だったみたいですね」 「彼氏じゃないって。でも無事だったよ。ありがとう」 「大沢さんにお礼言われるとちょっと怖い」 「俺をなんだと思ってるんだ」 「嘘ですよ! それに何かすっきりした顔してるから……いいことでもありました?」  恋愛方面の話題を期待しているのか相変わらずの調子で環のことをからかってくる。 「いいことって訳じゃないけど……気付いたんだ。色々なこと」  環の真意が掴めないのか瞬きを繰り返す。間抜けな表情に思わず笑いが漏れた。店で久々に笑ったような、そんな気がする。大丈夫、出来る。自分ならまだやり直せる。 「さぁ、朝練終わったら準備始めようか」  店内を隅々まで綺麗にした後、朝礼を始める。身構えるアシスタント達。ゲンナリとした表情のスタイリストもいる。空気は最悪だ。環は二、三回深呼吸をした後に切り出した。 「まず、みんなに謝らなければならないことがある」  環のいきなりの謝罪発言に場の空気が一気に変わる。一方で環は全身から汗が噴き出すのを感じていた。今まで自分の気持ちを伝えることから逃げてきた環にとってこのように本音を伝えることはとても怖い。 「俺はみんなに直してほしいところばかり伝えていたと思う。理由も話さずに。みんなの疑問とか困ったこととかも聞かずに。それじゃあフェアじゃないよね。  俺は柏木さんみたいに器用じゃないし、山本みたいに明るくもない。でも俺は出来ない分、みんなと一緒の目線でやっていきたいと思う。これからは俺からも声をかけるから、分からないことがあったらそのままにせずどんどん疑問をぶつけて欲しい。納得いくまで一緒に考えよう。  俺は店長として、一人のスタッフとして……お客様に喜んで欲しいんだ」  息継ぎもなしに一気に喋ってしまった。語尾が少し震えてしまった気もする。だが伝えることは全て伝えた。後はみんながどう捉えるかだ。 「あ、あのっ!」  声を上げたのは一番若手のアシスタントだった。 「俺、本当に物覚え悪くて……もし大丈夫だったらカルテとかにお客様の好きな雑誌やいつも飲んでいる飲み物とか書いても平気ですか?」 「私も……掃除の優先順位とか知りたいです。練習が押しちゃうとどうしても時間がなくなっちゃって」  パラパラと疑問や質問の声があがる。それに丁寧に一つ一つ答えていく。ちゃんとみんな店のことを考えて疑問や質問を心の中でちゃんともっていてくれたのだ。お互いに抱いていたわだかまりが解消されてやっと一つの目標を向くことが出来た。 「このままだと朝礼で営業時間終わっちゃうし、質問会も兼ねて飲み会しません?」 「山本がただ飲みたいだけだろ?」 「バレました?」  場の空気が一気に和む。心の中で〝環の一番の味方〟に語りかけた。  俺は出来たよ。お前のお陰で。俺にも本音が言えたんだ。これも全部、一番の味方がいたから。  営業を終えて、近場の居酒屋に入る。明日も営業であるのに遅くまで飲んでしまった。ベロベロに寄った山本が環を執拗に二次会に誘ってきたが丁重にお断りする。もっとスタッフ達と親交を深めたかったが、誰よりも早く会いたい人がいた。 「お疲れ」  どうやら哲郎も近場で飲んでいたらしく駅で合流して同じ電車に乗る。終電間際になると人も疎らだ。隅の方に二人並んで座る。 「上手くいったみたいだな」 「それなりに」 「素直じゃねえなー。もっと喜んでもいいのに」 「油断せずに気を引き締めていかないと。スタッフとの関係ももっと固めてかなきゃいけないし、顧客情報の共有も効率が良い方法を考えなきゃ。それから……」 「なんかすげえ楽しそう」 「まぁ、胸につかえていたモンが取れた感じ、まぁ……その、えーっと」  言い淀む環を哲郎が不思議そうな顔で見つめる。 「……ありがと」  あまりお礼を言うのは得意ではない。哲郎相手になるとなおさら。ありがとう、なんて初めて面と向かって言った気がする。みるみると緩む哲郎の顔。 「なぁ、ご褒美くれよ」 「ビールでいい?」 「ちげーよ! ご褒美のキス」 「はぁ?」 「環からキスされたい」 「……家帰ってからなら」 「やった」  キス一つで子供みたいにはしゃぐ哲郎。ああ、やっぱり愛されているんだと分かる。ずっと二人でいれたらいい、とここ最近よく思う。そんな自分に環は戸惑っていた。今更自分から言うなんて出来ないからせめて哲郎が自分に飽きませんように、そう願うしかない。 「なんか嬉しいな。途中で降りて飲みにいくか。二人で二次会しようぜ」 「それでもいいけど、俺は家の方がいいな」 「早くキスしてえの?」  調子に乗ったことをいう哲郎の脛に蹴りを入れる。当たりどころが悪かったらしく呻き声が上がった。 「今日は俺がカクテルを作ってあげる。その手じゃきっと出来ないだろうから」  きっと哲郎よりも美味しくビトウィーン・ザ・シーツを作ることが出来る。ほろ酔い気分になったら久々に抱き合って眠りたい。
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