第一章

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 どうしようもない始まり方をした二人だった。  五年前、確か夏頃だっただろうか。夕方まで降った雨のせいで湿度の高い夜。汗でシャツが張り付いて気持ちが悪い。ラフな格好の環ですらそうなのだからスーツ姿の哲郎の不快感はそれ以上だろう。だが哲郎は何が楽しいのかずっと笑っている。  一週間前、環は恋人と別れた。十年以上も一緒にいた男と。  これがまた絵に描いたような浮気性で喧嘩しては別れてを繰り返していた。しまいには世間体を理由に環に黙って結婚していたのだ。それでも好きだった。好きで好きで仕方がない、なんて失恋ソングの歌詞に出てきそうなくらい。未練しかなかった。しかし相手は環の情念から逃げるように「子供が出来た」と絶対的な理由を突きつけて去っていった。  環がその相手と別れる度に哲郎が相手をしている。環から呼び出すこともあれば、哲郎が噂を聞きつけて連絡を寄越すことも。今回は自暴自棄になった環の誘いに哲郎が乗った形だ。こんなことが出会った頃、ちょうど環が美容師になったくらいから続いている。 「こんな日はビールが美味え」  連れてかれたイタリアンバルで哲郎はひたすらビールを飲む。あまりの飲みっぷりにナーバスな気持ちも一時的ではあるが薄まった。環もワイングラスに口をつける。白のグラスワインは安価の割にとても口当たりがよく、アヒージョによく合ったので後からデカンタで頼んだ。 「……つーか、何も言わないのな」 「何が?」 「急に呼び出して、店はそっちで決めろなんて……俺だったらキレる」  三十四歳。環は来年新しくできる系列店の店長に抜擢された。一方の哲郎は大手不動産会社でチームの責任者を任されるらしい。環も多忙なのだから哲郎も同じくらい多忙なはず。それなのにメール一つでピュンッと飛んできて店まで押さえてくれるなんて。環は今日、休みだからまだしも哲郎は仕事だ。突然の呼び出しはなかなか堪えるだろう。 「誰でも構わずこんなことしないよ。環だから」 「……それこそ誰にでもそう言ってんじゃないの」 「信用ねえなぁ」  哲郎は優しい。今まで出会ったどんな男よりも。そしてそれが自分への好意からくるものだと知っている。  空になったグラスにワインを並々と注ぐ。いつの間にか哲郎も新しくビールを頼んでいた。哲郎は飲むペースが環よりも早い。それなのに潰れるのはいつも環が先。酒が強くないことを環自身がよく分かっているのに哲朗と飲むとき、いつもペースが乱される。 「美味いだろ? この店。後輩が見つけてくれてさ。変に肩肘張らなくていいし。何よりビールの種類が多い」  哲郎は黙っていればカッコいいと思う。キリッとした眉毛。顎髭を蓄えているのに清潔感がある。きっちりとセットされた髪のお陰かもしれない。おまけにスーツの上から見てもわかるくらい引き締まった身体。数年前、ジムに通い始めたと言っていたがいまだに続いているようだ。 「環も気に入った?」  ニカッと笑った口元についたビールの泡。顔は整っているのにどこか決まらない。 「そこそこ」 「環の〝そこそこ〟はめちゃくちゃ気に入った……だよな?」 「勝手に訳すな」 「本当のことじゃねえか」  おまけに超がつくほどのプラス思考。何かとウジウジ悩んで先進めない環とは大違いだ。  今日だってそう。振られて自暴自棄になった環に八つ当たりをされるのを分かっていて来たのだろう。哲郎いわく「八つ当たりでも一緒に飲めてラッキー」だそうだ。呼び出しておいてこう言うのもなんだが、人が良すぎて他の人間に付け入れられたりしないか心配である。 「……二軒目、行くよな?」 「最初からそのつもりだったよ」  そろそろデカンタのワインがなくなる頃だ。腹も膨れたし少し静かなところへ行きたい。失恋したての環には心の傷口に染みるくらいこのバルは騒がしい。  誰もいないところに行きたい。  でも一人になりたくない。  失恋する度に環に付き合わされる哲郎も可哀想だと思う。だが哲郎以外に頼れる人間がいるわけでもない。元々環の交友は狭く、同じ性嗜好の友人は哲郎以外にいなかった。いつも元カレとの時間を最優先していた。だが元カレの存在がなくなってしまった今、環には何もない。その事実を目の当たりにして泣きそうになった。  誤魔化すためにトイレへ向かう。そこで手を洗って心を宥めてから戻ったら、哲郎が会計を済ませていて余計に居た堪れない気持ちになった。  二軒目に選んだのは哲郎がお気に入りのオーセンティックバー。テーブル席の中央に置かれたオイルランプの炎が揺らめく。向かい側に座った哲郎はレッドアイを、環はブランデージンジャーを頼む。 「こんな洒落たところでもビールかよ」 「ビールじゃねえし。ビアカクテルだし」 「ウイスキーの一つでも頼んだら?」 「青木みてぇにウイスキーに詳しくねえから。カクテルもよく分からねえし」  いきなり元カレの名前を出されて方がピクリと反応した。そこに畳み掛けるように哲郎は続ける。 「で、今回は何があったわけ?」 「……」 「言いたくなければ言わなきゃいい。けど、呼び出しに付き合った俺に訊く権利くらいはあるだろ?」 「子供、出来たんだって」 「あー……子供、か」  哲郎は特別驚くそぶりを見せなかった。ただ険しい顔をしたままオイルランプの炎を見つめている。  環の元カレ──青木祐希は界隈でも有名なプレイボーイだった。そんな祐希にひっかかったのが十年以上前に上京したばかりの環である。ゲイであることがバレて逃げるように都会に越してきた環を優しく包んでくれた。自分の気持ちに目を背けて生きていた環にとって祐希は太陽よりも明るい存在だった。 「別の男が出来ても絶対譲らなかったし、結婚するって言って別れかけた時も諦めなかった。もう今回は無理だろ。子供だよ?」 「環の判断は正しいと思うよ」 「俺だって正しいと思う。でも」  俺の気持ちはどこに行けばいいんだよ。  ブランデージンジャーを一気に煽った。喉元を生姜の風味が炭酸が合わさって焼けるように熱い。泣きたい。でも環の自業自得だ。分かってて付き合い続けたのだからこうなることも頭のどこかで予想していたはずだろう。だがいざこうなってみると衝撃があまりにも強くて転んだまま立ち上がることが出来ずにいる。 「飲むか」 「……うん」 「喋りたければ喋ればいいし、そうでなければ飲めばいいさ。明日の仕事の保証は出来んが」  空になったグラスを下げに来たウェイターに次の一杯を尋ねられた。同じものを頼もうとしたが何となく気分を変えたくなって別のものをオーダーする。 「ブランデーベース。眠れそうにないんで少しキツめなものを」  とにかく酔いたかった。何もかも忘れてしまいたかった。長年付き合った男。どれだけ浮気されても離れなかった。周りがどう言おうと自分が好きという気持ちだけでついていった。その結果がこれ。笑い話にもなってくれない。 「こちらを」  出されたカクテルはショートグラスに注がれた淡い黄色が美しいカクテルだった。ウェイターに聞いたところ『ビトウィーン・ザ・シーツ』という名前らしい。いやらしい名前だな、なんて哲郎が茶化すのを無視して口へグラスを運ぶ。  甘酸っぱさと鼻を抜ける柑橘。確かにアルコールの風味は強いが口当たりがいいので何杯でもおかわり出来そう。  なんとなく目の前の男みたいなカクテルだと思った。  甘酸っぱくて爽やか、その奥に恋心。そしてそれを隠すそぶりもなくふんわりと漂わせている。
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