第一章

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「すっきりした?」 「死にそう」 「あのカクテル、そんなに度数高かったのかよ。いやらしい名前で度数も高いとか……完全にお持ち帰り用カクテルじゃん」 「静かにしてくれ……」  いつもなら受け流せる冗談もアルコールでぐしゃぐしゃにかき回された思考では受け止めきれない。  あの後、同じカクテルを立て続けに飲んで気付いたら潰れていた。店では粗相しなかったが帰りのタクシーは最悪だった。吐きそうになる度にバックミラー越しに怪訝な顔をする運転手と目が合う。祐希と揉める度に酒に逃げていたが、今日ほど粗相をしたことはない。  環の部屋に比べると哲郎の部屋は綺麗とは言えないが汚部屋と呼ぶほどで汚くもなかった。標準的な男の一人暮らしの部屋。積まれた雑誌、キッチンを占領するビールの空き缶。忙しさを理由に溜め込んでいるのだろう。 「家、帰んなくて平気?」 「帰りたくない」 「それって俺と一緒にいたいってこと?」 「……一人で居たくない」 「じゃあ誰でもいいの?」 「誰でもよくない」 「期待、してもいい?」 「してもいいことねーよ」  タクシーの運転手に自宅へ向かわせようとしたのを止めたのは環だ。膨れ上がった寂しさに酔いがトドメを刺す。ただ勢いに任せて哲郎の家まで押しかけてしまった。そして来て早々トイレに立て篭もる。何とも迷惑な来客だ。ようやく出てきたと思っても可愛げのない言葉。それでも哲郎は嫌な顔一つせずにコップ一杯の水と肝臓エキスが入った酒飲み御用達のサプリメントを差し出してくれる。 「これ飲んで早く寝ろ。明日に響くから」  時計を見ると午前二時を過ぎたくらいだった。美容師の朝は早い。明日は担当する新人の技術練習の約束もある。なるべく万全な状態で挑みたい。断りもなくフラフラした足取りで寝室へ向かうとそのままベッドの上に倒れ込んだ。 「一応、ビニール袋置いとくからベッドには吐くなよ」 「枕……男臭い」 「嗅ぐな嗅ぐな」  久々に自分以外の男の香りを感じて余計に寂しさが増す。祐希と付き合っていた時、最後の方は家庭を優先してほとんど環のところに帰ってこなかった。そのせいで寂しさを紛らわせる為によく祐希の私物の匂いを嗅いで気持ちを落ち着かせていた。その名残か人の匂いを追う癖が未だに拭えない。 「お前はどこで寝るの」 「ソファー」 「一緒に寝ればいいじゃん」 「……本気で言ってる?」  祐希と別れている間、別の男と寝たことは何回もある。アプリやバーで知り合ってお互いのことをろくに知らずに行為だけを楽しんだ。後から虚しさが襲ってくることを分かっていても、寂しさを埋めることを優先してしまう。もちろん哲郎相手にこんな誘いをすることはいけないと分かっている。それが霞んでしまうほどに環の心に空いた穴は大きかった。 「あのな、俺。お前が好きなの」 「知ってる」 「お前も俺も男が好き。一緒に寝るってことはつまり……分かるよな?」 「セックスしかないじゃん」 「俺で良いわけ?」 「……」 「俺に青木の代わりは無理だよ」  祐希の名前を出されて何も言えなくなる。投げやりになっている環を見透かした上で哲郎は環を家にあげたのだ。 「言っとくけど別の誰かでも青木の代わりにはならない」  あのまま帰っていればまたアプリで適当な相手を探して事に及んでいただろう。そもそも哲郎が飲みに付き合ってくれなかったら一人で飲みにいった先で相手を見つけていたかもしれない。そこでまた一人で馬鹿みたいに虚しくなる。容易に想像出来てしまうのが悔しい。 「ちょっと風呂入るから、頭冷やせ」  哲郎は環に布団を被せるとそのまま部屋から出ていってしまった。哲郎が風呂に入る支度をする音を聞きながら一人、猛烈な後悔の念に苛まれた。  誰も祐希の代わりにはならない。  分かっている。でも誰かがいてくれないと気がおかしくなってしまいそうだ。祐希を本気で愛していたからこそ、祐希の存在がなくなって心に大きな穴が空いた。それを埋める方法なんてもがいても分からない。  シャワーの音が遠くの方で聞こえる。夜中に砂嵐が映るテレビ画面を眺めているような気分だ。気付いたら涙が頬を伝っていた。止めようとしても夏の雨のように激しさを増していった。  哲郎が戻ってくる前に泣き止んでさっさと寝てしまおうと思ったがいつまで経っても涙は止まらない。そうこうしているうちに哲郎が寝巻き姿で顔を出す。髪をセットしていない彼を初めて目にしたがいつもより少しだけ幼く見えた。 「泣いたらスッキリした?」 「……そんなんでスッキリできるほど単純じゃない」 「難しいな」 「そうだよ。すっごい難しいんだ。お前なんかに分からねえよ」  環の意地悪に哲郎は頬を掻きながら困惑の笑みを浮かべる。こんな八つ当たりしたってどうにもならないと分かっているのに素直になれない。 「分からねえけど、どうにかしたい」  こういう時怒ってもらった方が楽だ。なのに哲郎は絶対に怒らない。仕事終わりに急に呼び出そうが、選んだ店でしけた顔をしようが、飲んで潰れようが何一つ文句言わずに環の側にいる。それがとてもありがたくて、苦しい。 「好きなヤツがやけになってるのをどうにも出来ないの、結構キツイぜ」 「そう言われたら泣くことも出来ないじゃんか」  少し考え込むような顔を見せたと思ったら哲郎が布団の中に入り込んできた。いきなりの出来事に身を捩って抵抗する。しかしアルコールで満たされた身体は思うように動いてくれない。 「おい、なんだよ……何もしないんじゃないのかよ!」 「何もしないよ」 「じゃあ何で中に入って……」 「抱っこしてやれば落ち着くかなって」 「だっ……⁉︎」  この歳になって〝抱っこ〟なんて提案されると思わなかった。もう三十をとうに越している。そんな恥ずかしいこと出来るわけがない。 「やめろ、まじ」 「人の温もりって心を落ち着かせるんだって。ハグ療法、みたいな?」 「そんなの聞いたことねえよ」 「とにかく試してみろって」  抵抗を試みてもジム通いで仕上がった身体には勝てなかった。ぎゅうぎゅうと抱きしめられる。男二人、一体何をしてるんだろう。馬鹿馬鹿しすぎで気付いたら涙も止まっていた。 「ほら、効果があっただろ?」  じゃれつくかのように顔を擦り付けてくる。祐希はセックスが終わればすぐに寝てしまうし日頃からスキンシップを取ることは少なかった。今日みたいにされたのはほぼ初めてでどう受け取って良いか戸惑う。 「環……嫌だった?」 「嫌じゃないけど、どうして良いか分からない」 「どうもしなくていいんだよ」 「返さなきゃ、駄目になっちゃうだろ?」  自分が祐希が望んでいたものを返せなかったから捨てられた。子供が産めなかったから別れを選ばざるを得なかった。貰ってばかりだったから、いつも。 「貰いっぱなしでいいじゃん」 「でも」 「いいんだよ」  おまけと言わんばかりに顎髭でジョリジョリと頬をくすぐられる。痛くてくすぐったい。擦られた場所がヒリヒリする。でも不思議と嫌じゃない。 「やっと笑った」  言われてから気付く。確かに口元が緩んでいた。でもそれ以上に哲郎の方が嬉しそうに笑っている。自分の表情一つでこんなにも心を動かしてくれる人間がいるなんて今まで想像もしなかった。  一通りじゃれ合い、落ちるように眠りに就く。遠のく意識の中、慈しむように環の髪を梳く哲郎の手の感触をいつまでも追いかけていた。
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