第一章

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「なんか機嫌良さそう」 「いつも俺が不機嫌みたいじゃないか」 「自覚あるんです?」  翌朝、ただでさえひどい二日酔いなのに山本の高い声が頭に響く。  結局哲郎の家で一眠りした後、そのまま職場までやってきた。昨日と同じ服であることを部下達にそれとなく茶化されたが何事もないような顔で乗り切った。だが山本は諦め悪く、終業時間になっても環の周りをうろちょろと嗅ぎ回る。 「ん?」 「どうしたんですか?」 「……この鍵」  とっとと家に帰ってシャワーでも浴びよう。そうぼんやりと考えながら何気なくポケットに手を突っ込んだ。すると指先に何か硬いものが当たる。鍵だった。見覚えのない鍵がズボンのポケットの中に入っていたのだ。 「これ、お前の?」 「え、なんでウチの鍵が大沢さんのポケットから出てくるんですか」 「だよなぁ」 「え、もしかして新しい彼氏?」 「お前はね、そういうことを大声で言うんじゃないよ」  今の職場で唯一、環の恋愛事情を知っているのはオーナーと山本だけだ。祐希のことも知っていたので新しい恋だ何だと大はしゃぎで詰め寄ってくる。逃げるように店を出て駅まで走った。その中で考えるのはこの鍵が誰のものか、という問題である。 「アイツん家……?」  思い当たるのはたった一人しかいない。昨日散々付き合わせたアイツ。酔っ払ってこの鍵を持って帰ったとしたらいくらなんでもやり過ぎだ。それこそ本当に怒らせて縁が切れてしまうかもしれない。  まるで門限を過ぎた子供のような気持ちで哲郎の家に向かう。この時ほど酔いすぎた自分を反省したことはなかった。  もうしばらく来ないと思っていたところに再びやってくるのはどうも変な気分になる。緊張しながら押したインターホン。どんな顔をして出てくるかと構えていたが出てきた本人はとてもにこやかで思わず拍子抜けしてしまった。 「お、良いタイミングで来たな」  玄関先で鍵のことを尋ねて哲郎のものだったら返して終わらそうとしていたのに、招かれるままに部屋に上がってしまった。  キッチンからいい匂いがする。テーブルを見るとハンバーグ、それからサラダにスープが二人前並んでいるではないか。 「悪い、もしかして誰か来る予定だった?」 「うん」 「じゃあ早く帰るよ。さっきもメールで話したけどこの鍵」  ポケットから鍵を取り出して差し出す。 「お前ん家の、だよな」 「そうだよ」 「返しに来た。それだけだから……」  強引に鍵を押し付けて帰ろうとしたのを腕を引かれて止められる。これから来客があるというのにこの男は一体何を考えているんだろう。 「環が鍵を返しに来るの、分かってた」 「はぁ?」 「……また会いたかったから、俺がポケットに入れといたんだよ。そうしたら環がこうやって返しに来てくれるだろ?」  開いた口が塞がらないとはこのことだ。つまり来客というのは環のことで、環がこうしてやってくるのを哲郎は全てわかっていたということだ。 「騙したな?」 「騙さなきゃ会ってくれねえだろ?」 「……必要なら、会う」 「もういいじゃん。来ちゃったんだから。ほら、ハンバーグ好きだろ? 食べようぜ。ビールもあるし」 「ビールはあまり好きじゃないんだって」 「そう言うと思って赤ワインも用意しておきました」  キッチンの下から出てきたのはそれなりの値段がしそうな赤のボトルワインだった。完全に環の思考が読まれている。観念してテーブルに座る。この勝負、環の負けである。 「こんなに一人で飲めないよ」 「そうしたらまた明日にでも飲めばいいよ。飽きたらサングリアにしようぜ。作り方調べとく」  哲郎が甘い酒が好きじゃないのを知っている。つまり、これからも環にワインを飲みに来いと遠回しのサイン。 「その鍵、環のだから。いつでも使って」  望んでもいないのに合鍵の所有権を手にしてしまった。ハンバーグを一口食べてしまった以上、断ることも出来ない。  環は自分だけがずるい男だと思っていた。だがこの男──遊馬哲郎も環の一歩先を行くくらいにずるい男だったのだ。
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