第二章

2/4
前へ
/16ページ
次へ
 首都圏でも人気エリアのアパートに住んでいると言うと皆、口を揃えて「羨ましい」というけれどその実は築年数の古いアパート。祐希と付き合っていた頃はほぼ帰って居らず、物置代わりにしていた。  今はちゃんと帰ってはいるが生活用品は少ないし洋服も定期的に入れ替える。ミニマリストを目指しているわけではないけれど自分の生活に金をかけようという気にはなれなくて気付いたら必要最低限のモノの中で生きていた。  殺風景な部屋にポツンと居ると自分が空っぽの人間みたいで嫌気がさす。だからこそ、哲郎の家に足繁く通ってしまうのかもしれない。  無言で家を出る。誰もいってらっしゃいなんて言ってくれないから、行ってきますなんて言う必要もない。こういう時、一人ぼっちの自分を強く痛感する。 「俺には一人がお似合いだ」  自転車の鍵を外しながらポツリと呟いた。本当は寂しくて仕方ない。でも自分なんかを受け入れてくれる人間なんて現れないだろう。哲郎も環に夢を見ているだけだ。実際に付き合うことになったら哲郎も環の何もない部分に飽きてすぐに関係も終わってしまう。恋の終わりなんてもう二度と経験したくない。  うじうじした気持ちを蹴り飛ばすように、アスファルトを蹴って自転車を漕ぐ。風を切りながら哲郎のことを思い出す。ここ最近、仕事と同じくらいの分量で哲郎のことを考える機会が増えた。 「おはようございます!」 「おはよう……って、ここまだ汚いな。今日の床掃除誰?」 「俺です! すいません!」 「お客様の目に届く部分なんだぞ。ちゃんと頼むよ」  環が出勤すると同時に店内の空気が強張る。先程まで朗らかに談笑していたスタッフ達が忙しなく動き始めた。予約表を確認しながら一人一人を目で追う。どのスタッフも緊張感が隠しきれていない。きっと環に注意を受けるのを恐れているのだろう。 (前の店舗の方が明らかにみんないい顔してたよな)  環は良くも悪くも人一倍、相手の機微に敏感だった。気が利くと言うよりも嫌われることを恐れているのだ。地元で同性愛者ということがバレてからずっと虐められてきた。ヒソヒソと噂話をされたり、ひどい時は病気扱いをされたり。男子生徒に話しかけただけで罵られたこともある。自分が男を好きなせいで、周りを不快にさせてしまう。  逃げるように東京に来て、美容師になってからも人を不快にさせないように必死だった。ただ接客業においてはそれが〝気遣いが出来る〟という評価を得た。オーナーや同僚からも。そして生まれて初めて結ばれた相手、祐希からも。 「俺じゃなくて、別の人間の方がいいのに」  白を基調としたナチュラルなインテリア。海外の古い雑誌を飾ったり、観葉植物をオーナーや副店長である山本の意見を環が予算内でまとめて作り上げたサロン。ターゲットは若年層よりもキャリアのあるビジネスウーマン。立地もビジネス街の近く。テナント料もそれなりの価格だ。  この新店舗に環は「Reborn」と名前を名付けた。来店した人々を施術で生まれ変わらせる、そんな願いを込めて提案したのだがオーナーから「環もこの店舗で生まれ変われたらいいな」なんて言われてしまった。それが一体何を意図するのか環は未だに分からずにいる。 「今日はお客様の情報共有が出来てなかった。常連さんであればいつもお出しする飲み物くらいは把握しておくこと。そこはスタイリストから伝えるのもそうだけどアシスタントの君達から聞きにいかなきゃ意味がない。それから──」  ついつい終礼が長引いてしまう。技術の習得に時間がかかるがホスピタリティに関しては心掛けて一つで劇的に変えられることも多い。だからこうして気付いたことを口にするのだが、いかんせん環は人よりも敏感で気付くことが多い。若いスタッフの中には口うるさいと感じる者も少なくないだろう。現に早く帰りたいと態度から滲み出ている者もいた。 「他の店よりも頂いている金額が多いと言うことは、技術はもちろんそれ以外も秀でていないといけないと言うことだからね。それだけは忘れないように。ではお疲れ様でした」  せっかく任された店なのだから売り上げを系列店中でトップまで持っていきたい。しかし環だけの頑張りでは無理だ。他人への協力の仰ぎ方が環には分からない。こういうのはどちらかというと山本の方が向いている。彼女の明るい空気は人を自然と巻き込む力を秘めている。 (確実に役不足だ)  プレッシャーから寝れない日が増えた。そしてそれを誰にも打ち明けられずにいる。終礼を終えて残って問題点をノートに書き出し、持ち帰って改善点を考える。役不足なりに環も努力しているが、それもスタッフ達には届いていない。  ふと外の方から蛇口を捻った時のような音がして目線を上げる──雨だ。確か今日の天気予報で夜から一時的に雨が降ると言っていたような気がする。ボーッとして傘も持たず自転車で来てしまった。ちょうど客用の渡す用の傘や誰かの忘れ物の傘が店にあるが使うのは気が引ける。さて、どうしたものか。 「ん……?」  雨の中から一人の男が近づいてくる。咄嗟に環は身構えた。心霊現象の類を信じるタイプではないが、いきなり人影が現れるとやはり気味悪く感じる。しかもこちらに近付いてくるではないか。不審者? にしてはどこか見覚えのある……。 「おーい! 環! 開けてくれ!」  人影が喋った。聞き慣れた声。その男はスーツを着て片手に大きな買い物袋を、もう片方で傘を持っていた。 「お前、なんでいんの?」 「ちょっとそこまで用事があってな。傘持ってるか?」  全て見透かしたかのようなタイミング。来客は環が傘を持ってないと知るなり嬉しそうに笑った。それからグッと環の腕を引いて一言。 「傘、一本しかねえんだ」
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

824人が本棚に入れています
本棚に追加