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第三章
哲郎のプロポーズを受けてから一週間近く経つが何も進展がないまま、日々が過ぎていく。たまにあれは夢だったんじゃないか、とまで思う時があるくらいだ。
どうしてあの日、哲郎の言葉に何も返せなかったのか。
セックスをしてからすぐに環は哲郎の家に転がり込んだ。自転車通勤ができなくなったこと以外は特に不便なことはない。哲郎と帰宅時間が合うと帰りに外食をしたりいい惣菜やビールを買って帰った。
「今日は贅沢してもいいんだよ」
環が咎める度に哲郎は子供じみた言い訳をする。呆れる反面、環の存在が哲郎の何気ない日常を彩る〝幸運〟だと思うと込み上げてくる何か。
環が哲郎の幸運であるのなら、哲郎は環の何なのだろう。
ご飯は美味いけど、掃除は本当に出来ない。インドアな環を無理やり仲間内のバーベキューに誘ったりしてくる。お陰で見知った顔が増えて孤独を感じる機会は減ったが、結局哲郎がいないシチュエーションで会うことはなかったので特に関係が発展することもなかった。どんなに魅力的な男でも哲郎といる気楽さには敵わない。
「待てよ」
思わず立ち止まる。思わず自分自身へのツッコミを口に出して。後ろを歩いていたOLが追い越しざまに環を怪訝な眼差しを向けた。
「何一つダメなことなんてないじゃないか」
繋ぎでいい、って言うから始まった。友人にしては深過ぎる身体を使った慰め。それがいつからか慰めの域を越えて別の意味を孕む行為になった。いつしか身体だけの関係じゃなくて一つ屋根の下、二人で過ごす日々の中で沢山のものが生まれた。
「どうした、そんなとこで立ち止まって」
「うわっ!」
「そんな驚かなくてもいいだろ」
「……聞いてた?」
「何を?」
「独り言」
「道端で独り言とか……やばいな。仕事でまたなんかあった?」
違うよ、お前のことだよ。
なんて言えたらどんなにいいだろうか。正直になれるはずもなく適当に濁して歩き始める。
「久々じゃねえか? 一緒に帰るの」
哲郎は鈍感だ。普段は歯の浮くような台詞を平気で言うくせに肝心な時、環の気持ちに全く気付かない。それでたまに喧嘩になったりもする。
(祐希の時は喧嘩しなかったのに)
こう言う時にすぐ祐希を引き合いに出してしまうのは悪い癖だ。だが、祐希との日々を思い出して気付く。祐希とは喧嘩しなかったのではない。出来なかったのだと。
祐希がそうしたいと言えばその通りにしていた。明らかに祐希に非があっても環の方から謝っていた。捨てられたくなかったからだ。
「お前が、いなくなったら……困る」
「ん?」
「お前がいなくなったら困るのに」
「どうした。急に」
環の突拍子のない言葉に狼狽える哲郎。環自身も脈絡のないことを口にしていると自覚している。それでもポロポロと落ちる言葉をコントロール出来ない。
「俺、なんで……お前のことこんな振り回してんだ?」
「何かよく分からないけど俺は環に振り回されるの好きだよ」
「そんなのいつか絶対嫌になるだろ」
「嫌になったら話し合えばいい。今までもそうしてきたじゃん」
話し合う? 自分の意見を出したら嫌われる。祐希の時は自分を出さなかったから上手くいったんだ。いや、違う。今向かい合ってるのは哲郎だ。
「俺、どうすればいい?」
「……環のしたいことを教えてよ」
「そうじゃなくて、俺はお前が俺に何をして欲しいかを──」
「俺はもう伝えた。だから環の意見を聞かせてくれ。俺のこととかは良いから、環の本音を教えてほしい」
「俺の、本音?」
今まで隠していたものを曝け出せと言われてもいきなり出来る訳がない。と言うよりも分からないのだ。隠し続けた結果、埋もれすぎて自分でも見つけられなくなってしまった。
自分の気持ちって何だろう。
哲郎と二人並んで歩く。会話はない。気不味くて俯く。アスファルトに並ぶ二人の影の距離は近いのに、心が上手く結びつかない。一瞬、哲郎の影の手元の辺りが環の方に伸びてすぐに引っ込んだ。
そう言えばここ数年で一度だけ感情を爆発させたことがあった。あの時も哲郎に救われたな、なんて環の隣でソワソワとする影帽子を眺めながらあの時の涙を思い出す。
Rebornがオープンして半年ほどが経ったくらいから状況は徐々に悪くなっていった。
スタッフ、特にアシスタントスタッフの態度があからさまに悪くなり始めたのだ。そしてその態度にイラつくスタイリスト達。山本や他のベテランスタッフが緩衝材として入るも、スタッフ間の溝は埋まらない。
「うーん……年頃の子は難しいですね」
「学生気分がまだ抜けてないっつーか」
「山本さんの言うことは聞くよね」
「大沢さんはどうも説教じみてるっていうか、目線がちょっと上過ぎる」
「プロフェッショナル、って感じで憧れてたけどなぁ。人をまとめるとなると山本さんの方が上なのかも」
休憩に入ろうとバックヤードに入ろうとしたところでスタイリスト二人が話している。薄々勘づいていたことを言葉にされて息が出来なくなった。
山本の方が人をまとめるのには圧倒的に向いているのだ。
ホスピタリティに関しては人一倍努力しているつもりだ。髪型やカラーの流行り廃り、芸能関係の話題、顧客の好みなどしっかりと頭に叩き込んである。それが〝対同僚〟となると上手く機能しない。相手に完璧を求めてしまう。過去に前の店で別のスタッフと衝突したことも二度三度ではない。その度に山本やオーナーにフォローしてもらっていた。前まではそれで良かったかもしれないが、今は違う。環は店の長だ。環がスタッフの問題を解消しなければならない立場。
環の存在に気付いたのか話していた二人はバックヤードから逃げるように去っていく。なんとも言えない気持ちで携帯を見ると哲郎からメッセージが来ていた。
『今日、美味い肉買ったから家でステーキでもしようぜ』
家に帰れば哲郎が料理を作って待っている。前は日常のささやかな楽しみだったのに最近は食欲も湧かず、哲郎の待つ家に帰ることすら億劫になりはじめていた。
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