泥濘を征く

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 準備は全てできた。昨日こっそり役場に申し出も出した。年もあの時の一悟に、追いついてしまった。朔は膝を追って祠を正面に見た。  死者は年を取らないという。ずっと遠いあの背中に手は届かないと思っていたのに、こんな形で叶いたくはなかった。それともきっと覚悟を持っていたであろう一悟には、やはり一生、追いつけないのだろうか。  どうかな。  言葉に出さずに問いかけても何も起こらない。当たり前だ、と朔は苦笑して立ち上がった。  灰色と緑、わずかな茶色でできたこの薄暗い中に一悟がいるとは朔も思っていない。生きている人間が思いたいだけなのだ。けれどいつでもここで話をしてしまう。他では言えないことも、全部。  じゃあ。  朔は挨拶をした。また、といつものようには言えなかった。空気が少し熱を帯びる。早く戻らないと家族に気づかれるだろう。朔は踵を返して、元来た道を早足でたどった。  準備はできた。足踏みしているのは、朔の心だけだ。  久しぶりに見かけた髪色に、朔は視線を止めた。役場前、木でできた腰かけで手帳を開き、出てくる人をじっと見つめていた少年がこちらを向いた。  形のいい一重が大きく開いて、立ち上がる。  ああ、似てきた。朔は声をかけようと口を開いたが、言葉は出てこなかった。背の低い、まだ幼い顔は、それでも朔の記憶と同じ髪と目を持って朔を見る。
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