泥濘を征く

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 少しずつ薄くなっていた空の霞がカーテンを引いたように晴れる。どことなく白かった春の空が青くなり、空気を温めていた光の粒は肌を焼く熱線に変わる。  ――ああ、夏だ。  早朝、日課の水やりで外に出た(さく)は、見上げた先に季節を感じ取ってため息をついた。  川遊びに昆虫採集、花火に西瓜。この時にしかできない遊びや食べ物があって、子どもの頃は好きだった。いや、正確を期すならば、朔は今でも夏が嫌いではない。カブトムシは追わなくなったがまだ川には入る。西瓜にもかぶりつくし花火も見上げる。  けれどあの夕立のせいで、とはどこか違ってしまった。あれほど明るい空が昼間でも暗くなる。そしてその暗さは人を奪う。  息を吐いて如雨露を取ると、朔は川から水を引いてある水路に向かった。  今年もそんな時期が来てしまった、と思って、けれど今年はにしないつもりの朔の心臓は重く鼓動を打った。  やろうという意気込みと本当にという迷いが、水底から湧き上がる泡のように交互に生まれては消えていく。でも今年しかない。次の春には朔は学び舎を出て、父親の跡を継いで役場に勤める。逡巡を抱えたまま責任を持って、後からやっぱりと投げ出すようなろくでなしにはなりたくなかった。  自分で決めたんだから、と朔は繰り返して、ささやかな畑に水をまき始めた。
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