6. 月夜の約束

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6. 月夜の約束

「どうした?」  急に静かになったルナを怪訝に思い、青年は静かに問う。  ルナはぽつりと言った。 「あなたにはいないの?」 「何?」 「待ってる人……」  琥珀色の瞳が、不安そうに青年の言葉を待つ。  彼は降参とでも言うように、軽く息を吐き出した。 「そなたは読心術に長けた魔物よりも、よっぽど心が見えるらしい」  そう言ってくすくすと笑うけれど、少しも楽しさを孕んでいない。 「そうだな。私は長いこと一人でいる。……何故そなたがそんな顔をする?」  ルナは今にも泣きそうな顔をしている。 「だって……一人は淋しいわ」 「私はもう何百年も一人でいる。……だから、一人には慣れている」  青年は安心させるように言ったが、ルナは更に顔を歪めて声を震わせた。 「何……百年……?」  それはルナの想像出来る範疇を超えていたが、途方もない時間であることだけは分かった。  ルナは俯き、暫く何かを考えるようにしてから、またぱっと顔を上げる。 「じゃあ、私が一緒にいるわ!」  青年は気圧されたように目を瞬いた。 「一緒に? そなたが?」 「私が一緒にいれば、もう一人じゃないでしょ?」 「……だが、そなたには待っている者がいるのだろう?」  ルナは顔を曇らせる。自分が帰らないことで、優しい両親と少し生意気だけど愛しい弟の悲しむ顔が浮かんだのだ。  しゅんと項垂れるルナを見て、青年は想いを断ち切るように背中を向けた。その場を去ろうと踏み出された足が、下草をかき分ける。 (待って……!)  ルナは必死に思考を巡らし、そして叫んだ。 「じゃあ、あなたにトツげばいいんだわ!」  青年は思わずルナを振り返った。虚を突かれたように見る。 「そなたは……意味が分かって言っているのか?」 「お母さんに言われたの。いつか私もお父さんみたいに素敵な人にトツいで、一緒に暮らすようになるって。そうしたら、お父さんもお母さんも淋しいけど嬉しいって。だから、トツげば淋しくても誰も悲しまないわ」  ルナはにっこりと微笑んだ。  零れるような笑みと共に、誰も一人にはしたくないという純粋な気持ちが伝わったのだろう。青年はやんわりと目を細めた。いつからかずっと願うことをやめていたのに、今になって、彼は思ってしまったのだ。  永遠(とわ)に続く夜……それを共に過ごしてくれる相手がいれば――と。  好んで夜の住人として生まれたわけではない彼は、自分以外の誰をもこんな呪われた身へ堕としたくはないと思っていた。だから、仲間を増やすことを最大の禁忌としてずっと生きてきた。 「どうしたの……?」  心配そうに尋ねるルナを、青年は静かに見つめた。  触れれば折れてしまいそうな細い首が、青年の瞳には無防備に映る。ルナを夜の世界へとひきずり込むことは、実に容易いことだった。その温かい肌に唇を押し当て、血を喰らい、その上で吸血鬼の呪われた血を与えればいい――  しかし、涼やかな顔に少しも苦渋の色を浮かべることなく、青年は湧きあがった欲望を抑え込んだ。そして首筋に口付ける代わりに、ルナの前にすっと手を差し出した。  まるでダンスを申し込むかのように優雅に差し出された手の上には、月明かりを受けて神秘的な光を放つ銀色の指輪が乗っている。  ルナは躊躇いがちに手を伸ばし、青年の顔色を窺いながらもそれをそっと拾い上げた。 「それは、約束の証だ」 「約束?」 「私の花嫁になるという約束だ。私の花嫁になるということは、終わりなき夜の世界を共に生きることを意味する」 「ずっと一緒ってことね!」  青年は微かに笑い、 「だが、そなたはまだ幼い。そなたが……そう、十六になった時、迎えに来よう。私との約束を覚えていれば、だが――」  こんな約束などきっと忘れてしまう。そう彼は思っていた。子供の頃の記憶は大人になるにつれ薄れていき、最後には朝露のように消えてしまうのだ。  ルナは暫くの間、自分の小さな手の中にある銀色の指輪に視線を落としていたが、やがてその愛らしい顔を持ち上げ、真っすぐに青年を見上げて微笑んだ。 「うん、待ってる」  青年は何も言わずに、ただ薄く笑みを浮かべた。  踵を返して淋しげに去っていく背中を、ルナは見えなくなってからも、記憶の中でいつまでも見つめていた――
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