前語り

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前語り

 ひどく暑い日だった。    今朝も朝食を採る気分ではなく、それなのにのどは渇いて、起き抜けから水をがぶ飲みしたので少々腹が重い。  ペットボトルのミネラルウォーターを教室に持ち込みたい気分だが、授業中の飲食を学生に禁じている手前、自分だけ堂々と飲むわけにもいかない。    草上は、新任の高校教師だった。  今日も一日、あのやる気のない学生たちを相手にしなくてはならないかと思うと、もうすぐ夏休みだというのに体力も気力も減っていく一方だ。    もっとも、素人の立場で部活顧問を無謀にも任され休日がつぶれたりと、投げやりになっているのはこちらも同じであるが。    自分と数年ほどしか年代は変わらないのに、来るべき未来を何も案じず(というふうに見える)、スマホ片手に騒ぐ彼らが忌々しい。    草上もアプリには、友人や家族からいくつかメッセージが入っていたが、ここ数日は返信するのも億劫なほど疲れていた。    こんなことは初めてだった。慣れない教師生活のせいか、異常な暑さの気候のせいか。 (──それとも、あの気味の悪い出来事のせいか)    思えば、あれからずっと具合が悪い。    先週末のことだ。帰り道のコンビニの外に、ひとりの少年がうずくまっていた。  時間は夜の十時過ぎ、子どもがひとりで出歩くにはちょっと遅すぎる。    見たところ、小学校の高学年くらいのようだ。    捨てられた仔犬のような、さみしげな目をしているのが気になった。  パーカーにハーフパンツというラフな格好だが、切りそろえた髪が印象的なきれいな子だった。    塾帰りにも見えない、家出でもして来たのだろうか。    一度は通り過ぎアパートへ帰った草上だったが、どうしても少年のことが頭から離れず、思いきってもう一度コンビニへ出かけた。    案の定、彼は少々がらの悪そうな子たちに囲まれ、何やら腕をつかまれていた。こうなると教育者として見過ごすわけにはいかない。    幸いなことに悪ガキレベルの中学生だったので、補導するぞと言う草上の脅しに、みな悪態をつきながら帰って行った。    残された少年はというとさほど怯えた様子もなく、ただじっと草上を見上げる。  だがその無言の訴えを、草上は都合よく解釈した。    自分に助けを求めているのだと。    思えば、生意気でしたり顔の教え子たちに嫌気がさしていたせいかもしれない。  純粋で透きとおったまなざしは、草上の虚栄心を煽るのに十分だった。 「家はどこかな、送って行こう」  促しても、少年から返事はない。 (何か、家に帰りたくない事情でもあるのかもしれない。虐待とか……)    すると草上の憂慮を読みとったように、少年はぴたりと草上の腕を取り、よりそって来た。  すべらかな白い腕はひんやりとしている。    頼られるとますます庇護欲をかき立てられた草上は、話を聞くため一旦アパートへ連れて帰ることにした。    灯りの下で見ると、少年はますます美しかった。  緑がかった瞳は長い睫毛にふちどられ、くちびるは少女のように艶やかでほの紅い。  淹れてやったホットミルクを飲むたび、細く白いのどがこくこくと何か別の生き物のように流動するのを見ていると、草上はだんだんと落ちつかなくなってきた。    草上がちらちらと盗み見るのを知ってか知らずか、少年は飲み終わったカップを手の中で弄んでいる。 「で、きみ、名前は? どうしてあんなところにいたの?」  間が持たず尋ねるが、やはり答えはない。    ふと、ふわりと不思議な香りが少年から漂ってきた。  南国の果実か花のような、あまったるく気だるいエキゾチックな香り。    こんな子どもが、香水でもつけているのだろうか。  そんな疑問が浮かんだ途端、強烈な眩暈が襲って来た。    酔ったようにぐらりと視界が回った草上を、気づけば少年が無表情のまま見下ろしている。  床に倒れた草上に、小さな躰が覆いかぶさって来た。 「──!」  困惑する間もなく、口うつしで何かのかけらが口内にすべり込んで来た。    ──ヒョアヒョアヒョア。    遠くで鳥の鳴き声のような声がする。  それが、少年が発した笑い声だと認識したときには、草上の意識は闇へと落ちていった。      翌朝、気づくと少年の姿はどこにもなかった。 (……夢?)    だが、夕べホットミルクを淹れたカップが、テーブルに残されたままだ。    起き上がると、二日酔いの朝のように気分が悪かった。    胃の中身がせり上がってきそうだったが、それより激しい渇きに襲われ、草上は思わずキッチンに走り、がまんできず直接蛇口に口をつけて飲んだ。    あれから一週間、ずっとこんな調子だ。    ふと部屋の時計を見ると、九時と表示がある。  何か用事があったような気がしたが、思い出せず部屋のドアを開けた。  階段からぼんやりと町内を見下ろすと、遠くで陽炎が立ち上る。  サウナのようなこもった空気がむわりと草上を包み、夕べと同じ眩暈に襲われた。    視界のすべてが黄色く歪んで見え、草上の瞳孔は異様な文様にとぐろを巻いた。 (……九時? 学校は? ああ、のどが渇く……いや、早く出勤しなければ──)    身体が熱く、思考がまとまらない。  唯一、渇きという感覚だけがはっきりとのどの奥から込み上げて来る。 (ああ、欲しい欲しい! おれは島の水が飲みたいんだ!)    あの島、とはどこなのか。だが、無意識に足はどこかへ向かおうとしていた。    ジャケットのポケットから着信音が鳴る。 『草上先生ですか? 今日はどうされ──』    高校の学科長からだったが、草上はスマホを放り投げた。  そのままふらふらと覚束なく踏み出す。  足が縺れ、草上は真っ逆さまに階段を落ちた。    踊り場でおかしな方向に曲がっている自分の足首が目に入ったが、気にはならなかった。  脳を操られているかのように、不思議と痛覚はない。 (──島に、行かなければ)    どこからか、あのあまく気だるげな香りがする。  これを追って行けば望む水が飲める。    そう思った草上は、捻れた足を引きずりながら、灼けた道を港へ向かい歩いて行った。
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