1章 島へ

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1章 島へ

 十朱(とあき)は高く跳んでいた。  リボンを躰の一部のように扱い、放り投げ、空中を一回転してキャッチする。    飛行のような滞空に、歓声が十朱を追いかける。  フロアにはコーチの姿。  着地を決めようとしたとき、足もとにボールが転がった。    危ない──!        ──どてっ! 「()った……」    派手に椅子からずり落ちて目が覚めた。    腰をさすり起き上がると、さざめくような笑いの中、年配のシスターが渋面で十朱を睨んでいる。    ここは教室。そして、今は授業中だ。  顔を赤らめて席に着くとひとりの少女がくすりと笑ってこちらを見ていた。    七月の初めに転校して来た榊海七(しいな)だ。    軽くウェーブのかかった栗色の髪が、夏の陽光を受け艶やかに輝いている。  彼女は、ちょくちょく他校の男子生徒にエスコートされ歩いているという噂がある。  はずかしさから十朱は苦笑いして視線をはずした。  やがて一学期最後のチャイムが鳴り、学生たちはいそいそと帰宅準備を始めた。    教室から出て来た十朱に、待ちぶせしていたように声がかかる。 「待って、小渕さん」  ショートカットの凛とした長身の少女。 「ね、小渕さん。入部、考えてくれた? 明日からもう夏休みよ」 「先輩、そのお話は……」 「お願い、もう怪我は治ったのでしょう?   あなたがジュニアで活躍してたってこと──」 「すみません、わたしもう新体操はやめたんです」 「あ、待って!」    逃げるようにその場を立ち去る。  本館から寮へ続く回廊を歩きながら、十朱はキャンパスを何気なく見下ろした。    スティックを持ったレオタード姿の少女たちが、ふざけて踊りながら体育館へ入って行くのが見える。  つい一年前までは、自分もあんなふうにリボンを楽しげに操作していた。    ──ボールで転倒し、アキレス腱を断裂するまでは。    リハビリも重ねたが、完治する頃には推薦入試も白紙にもどり、十朱が部活に復帰することはなかった。    がんばってもどうにもならないことがあることを、十朱は学んだ。 (先輩は強いからわからないんだ)    説得されても、今さらスティックをふる気にはなれない。  練習は厳しいし、制限のある毎日はもうたくさんだ。    高校は夢のお嬢さま学校で、楽しく優雅に送ると決めたのだ。 (貴重な女子高生活は今しかないんだもの)    校庭からふいと目線をはずし、十朱は寮へ向かった。    補習続きの一週間を経て、ようやく本当の夏休みが始まった。  十朱も駅ビルへ友人たちと買い物に来ていた。    寮の門限があるので実家組のクラスメイトと別れ、タピオカミルクティーを飲みながら、帰りのJRを待つ。    プラットフォームのベンチに、誰かがおいていったままの新聞の見出しが目に入った。 『行方不明者、ますます増加。拉致事件の可能性も』    本土最南端に位置するここK市では、隣国との拉致問題が未だ解決を迎えていない。  十朱も港や空港で消息を断つ者が多いと聞いたことがある。    そんな記事を横目で見ながら、一連の動作でイヤフォンをつけ、バックパックからスマホを取り出す。  JRの時間までソーシャルゲームを進めるのがいつもの習慣だ。    しばらく没頭していたゲームの画面に、ふと陰が射した。  うつむいていた視界に、ビーチサンダルを履いた灼けた足が見える。    おそるおそるイヤフォンをはずし顔を上げると、不機嫌な顔をした背の高い青年が立っていた。  赤く錆びをかけた髪、安っぽい花模様のアロハシャツに擦れたジーンズと、見るからにガラが悪い。  背には弓道の弓袋を背負っており、何に使うのかはなはだ怪しい。      任侠映画だと、敵の幹部を討ち自分も殺されるという、鉄砲玉の役どころだなと十朱は思った。 「さっきから呼んでるんだが……」  すらりと切れ上がった瞳は猛禽類のようで、見下ろされると威嚇されているようだ。 (ナンパかしら、カツアゲかしら。どっちにしろ、こんなタイプごめんですけど)  十朱はスマホを自分のバックパックにもどし、ドキドキと身がまえた。 「な、なんでしょう」 「お前──小渕十朱か?」    青年は十朱の頭から爪先まで、じろじろと視線を往復させた。いきなりフルネームで呼び捨てにされ、驚きと同時にカチンとする。 「な、なんでわたしのこと──」 「話がある。ちょっと来い」    強引に腕をつかまれ、とっさにさっきの新聞の見出しが過ぎった。  飲んでいたタピオカミルクティーのプラカップを投げつけ、叫ぶ。 「このひと、拉致工作員──かヤクザです! 誰かあぁぁ!」 「なっ……お前何言っ」    ミルクティーを頭からかぶり一瞬ひるんだ青年は、何が起きたかわからず唖然としていたが、駅員がやって来るのが見えるとすぐに立ち上がり踵を返した。 「くっ……覚えてろ!」  悪役の常套句を残し、舌打ちまぎれに人ごみにまぎれてゆく。    タピオカの粒を頭にまぶし去ってゆく後ろ姿を見送りながら、十朱は肩で息をついた。 (榊さんは他校の男子生徒にエスコートされるというのに、わたしにはあんなのしか寄って来ない……神さまって不公平!)  八月に入りほとんどの学生は実家に帰省し、寮は閑散としていた。  残っているのは十朱ひとりだ。    お盆期間、寮は閉鎖する。  気が進まなくとも、どのみち近日中には自分も家に帰らねばならない。 (つまんないな)  せっかくの夏休み、南の海やギリシャ風の白いリゾートホテルなどで思い出を作りたい。    部屋にいる気分でもなく、十朱は近所の公園へ出かけた。  自動販売機で紙パックのコーヒーを買い、木陰のベンチにすわる。    いく人かの親子連れが、楽しそうに遊具で遊んでいるのを、十朱はぼんやりと眺めた。    昨年、父が再婚した。    長かったやもめ生活にようやく春が訪れひと安心した十朱だったが、父に今、寮から新居へ移るよう迫られている。    仕事の都合で海外へ行っていた父が、秋に新しい母と帰って来るのだ。  そもそも、もとの実家から学校が遠かったため寮に入ったのだが、新居は余裕で学区内だった。  新しい母親は、気さくであたたかな人柄だ。  父親ばかりか小渕家の大型犬ごと面倒を見てくれ、定期的に十朱にさし入れの荷物を送ってくれたりする。    家族になるのが苦痛なわけではないが、物心つく前に母親を亡くした十朱は彼女にどう接すればいいかわからず戸惑っていた。     加えて父子家庭で育てられたため、不自由なほど過干渉だった子ども時代。  今さら、窮屈な親もとでの生活など考えられない。    そんな環境を経てようやく受かった憧れのお嬢さま学校が、ここヴェリタス女子学園だ。    素敵な男の子を見つけて、イベント盛りだくさんの華やかな女子校ライフを満喫するつもりでいた十朱にとって、うるさい父親も慣れない母親もいない三年間は絶対に譲れない。 「家族で暮らすのが当たり前」とドヤ顔で正論を翳す父親を思い出すと、むかむかと怒りが込み上げる。    紙パックを持つ手に思わずぎゅっと力が入り、コーヒーがTシャツに飛び散った。 「わっ!」 「おやおや、これ、よかったら」    背向のベンチにひとがいたらしい。  スーツ姿の男性が、ハンカチをさし出してきた。 「どうぞ、小渕十朱さん」  ふいに名を呼ばれ、反射的に飛び退る。 「あはっ、くノ一みたい。さすがいい動きしてるねえ」  男はにこにこと、邪気なく笑った。    年は二十代後半。  少し猫背のひょろりとした痩身に度の強い丸眼鏡をかけ、のび放題の長髪を後ろでゆるく束ねている。    安っぽくよれたスーツ姿は、どう見てもうだつの上がらないサラリーマンだ。    学園に放ったところで、思春期まっただ中の少女たちも一縷の思慕も抱かないであろう、冴えない風体である。 「な、何のご用ですか?」  不審に尋ねる十朱に、男は胸ポケットから一枚の色褪せた写真を取り出した。  大きなソテツをバックに、十朱とよく似た若い女性と厳格そうな婦人が写っている。 「あなたの、お母さまとおばあさまです」  確かに若いほうは、昔父親から見せてもらったアルバムの母と同じ人物だ。  十朱は驚いて顔を上げた。 「あなた誰?」    男は腰を屈めて名刺をさし出した。 「怪しい者じゃないです、こういう者です」 「祭祀事務所『オフィス☆ツカサ』、(つかさ)九曜……」    イベント会社か何かだろうか。名刺を裏返すと、業務内容に祭祀のほか、「お祓い・祈願・霊視もお気軽に♪」とある。 (いや、怪しい)  胡乱な目で見返すと、九曜はよれたスーツを正し笑顔で告げた。 「特別代理人として来ました。小渕十朱さん、あなたはおばあさまである、(いのり)久仁さまの第一相続人です」 「──そうぞく?」    十朱は、漢字の変換に少々時間を要していた。女子高生にはあまり縁のないワードなのでしょうがない。    そもそも、祖母の存在は初耳だ。母親は十朱を生んだ後、すぐに亡くなっている。  それゆえ十朱も父も、母方の親戚縁者とはつきあいがなかったのだ。    九曜はとうとうと続ける。 「久仁さまは昨年たったひとりの孫であるあなたに遺産を残し、お亡くなりになりました。  それから半年、我々はようやく十朱さん、あなたを捜しあてたわけですが──」 「ちょ、ちょっと待って。わたし、おばあさんなんて会ったこともないんです。いきなりそんなこと言われても」 「え。あれほどの遺産を放棄なさると?」    九曜は、わざとらしいほど衝撃の表情で引いている。  そんな反応をされると、十朱も確かめざるを得ない。 「ね、念のため訊きますけど? 遺産って……」 「値段のつけられるものではありません。ことによれば重要文化遺産にも相当します。  物質的な財産ですと、百坪の土地に家屋。場所は南西諸島のひとつで、それはそれは美しい島です」    なんだかすごい価値のある遺産のようだ。それに──  海のあるリゾート。    十朱は一瞬胸が高鳴ったが、ぶんぶんと頭をふり我に返った。  相続問題など自分ひとりでは決められないし、何よりこの男がうさんくさい。    しかし九曜も退く様子はない。 「ああ、そうだ。夏休みを利用して、一度島へいらっしゃいませんか? 旅費も宿泊も、こちらですべて手配してご招待しますよ」 「そんなこと言われても相続するかわかりませんし……」  苦笑いする十朱に、九曜は大仰に手を打つ。 「では、おばあさまのお仕事だけでも体験してみてはどうでしょう? バイトとして時給をお支払いしましょう」 「お仕事?」 「はい。おばあさまは生涯、島の巫女を務められていました」    巫女とは、そんなに膨大な遺産を残せるほど儲かるものなのだろうか。    十朱は疑問に思ったが、バイトなら空いた時間に遊ぶこともできるし、女子高生らしい素敵な出会いだってあるかもしれない。 「そのバイト、ほかにも誰か来るんですか?」 「高校生の男女がふたり。十朱さんと同じ年なので、仲よくできると思いますよ」 「ふ、ふーん……」    眼鏡の奥でにやりと九曜が笑った。  それが、海千山千の交渉を知り尽くした狡猾さをふくんだものだとは、当然十朱は気づかない。 「久仁さまは島中から必要とされていました。生前の彼女を知ってもらえれば、きっと相続も考えて頂けると思います」  本土を出発したのは、ターミナルの中でもじっとりと汗が出る蒸し暑い日だった。    あれから十朱は、インターネットで彼について調べてみた。    さすがに何の情報もないまま、初対面の人物を信じてほいほいと島に行くわけにはいかない。  彼の所属する怪しげな事務所についてはサイトもなく不明だったが、『司九曜』は市内の大学講師だということがわかった。    知らない人間について行ってはだめだと、小さな頃から父親に言われ続けてきた。  その父にも、確認のため電話で母の出身について訊いてみると、やはり母は九曜の言う島の生まれに間違いなかった。    しかも両親はかけおち同然で島を出たらしく、故郷と交流がなくそれ以上はわからないという。  父親は、そんな話はどうでもいいというふうに話題を変えた。 「それで、家へもどる準備はできているのか?」 「寮がいいって言ってるでしょ」 「ほう、なら仕送りはストップするが」    したり顔で通話する父の姿がスマホ越しに見える。  学費は払い込まれているものの、お小遣いがないと生活に困る。  それをわかって、父親はこんな手段に打って出るのだ。    このままでは、夢の女子校ライフを満喫できない。 「いーわよ、自分で工面するわよ」 「ははは。やれるならやってみなさい。それで気がすんだらさっさと帰って──うぉっ」    十朱は話の途中でスマホを切った。  九曜のこと、相続のことを相談したかったのに、いつもこうだ。    顔をあわせなくても、父娘関係はうまくいかない。 (パパの横暴め、もう知らない)  そんなわけで、早急に資金が必要となったのだ。 「司さん、巫女のバイトって、神社で破魔矢を売ったりするの?」 「いや、島の神社に社務所はないんです。通常の巫女の業務、それと祀りで神楽を舞ってもらいます」 「神楽なんてわたし、踊れるかしら」 「大丈夫。あなたにしかできませんよ」    にっこりと笑う九曜に、十朱は訝しげに首をかしげた。    船がエンジンの回転を上げ、スピードを増した。    十朱の白いワンピースに波飛沫が跳ね、中が見えそうなほどばたばたとなびく。  が、十朱がそれにかまう余裕はなかった。    規則的な振動を刻む船にゆられながら、青い顔で手すりにしがみつく。 「……い、いったい、どこまで行くんですか?」    飛行機で、最寄りの島へ一時間半かけて飛んで来た。そこからフェリーを乗り継ぎ、さらに三時間。    朝一番の便で出発したのにもう正午だ。とても同じ県内とは思えない。  しかもフェリーといっても、実際は乗客数人が定員の漁船のようなものだ。    吐きそうになるゆれの中、十朱はふと先日の青年のことを思い出した。 「そういえば司さん、知りあいに赤い髪の──うぼろ」 「だっ大丈夫ですか!? 十朱さん」 「うう……し、島って、まだですか?」 「もうすぐです」    九曜が十朱の背中をさすりながら、前方を指し示す。  風が変わった、と感じた。熱い、けれど乾いた空気。 「ほら、見えて来た。あれが上之音(かんのね)島ですよ。  上之音とは神ノ根──この島はもともとカミが棲まう島で、島民たちはその子孫と言われています」    九曜の視線の先に、小さな島影が現れた。  南西諸島のひとつ、太平洋に位置する上之音島は、一時間あれば自転車で一周できるほどの小さな島だ。    環礁が透ける鮮やかな碧い海には白い砂浜が弓状に浮かび、こんもりと茂ったパセリのような原生林からは水蒸気が上がっている。 「きれーい!」    初めて見る南の海に、さっきまでの船酔いはどこへやら、十朱は断然気分が高揚してきた。水着も持って来たし、バイトとはいえ、いいバカンスになりそうだ。    はしゃぎながら船を降りると、見覚えのある赤い色彩が目に入り十朱は驚いた。  まさにさっき尋ねようとした人物が、堤防でだるそうにボードを掲げている。 「司さん、あれっ、あのひと……!」 『かんもーれ、上之音島へ』と太マジックで書かれたメッセージとはうらはらに、アロハシャツの青年はつまらなさそうな顔で出迎えている。    九曜が呆れた声で船着場に降りた。 「きみは僻地の観光ガイドかい。『ようこそ』くらい、口で言ったらどうだい」    青年は返事もせずに、むすっとしたまま回れ右をした。九曜は慣れた様子でついて行く。    乾ききった白い道を延々と歩くと、デイゴやアダンの並ぶ南国的な通りが眼前に広がった。 「ここはグスクロードといって、城下町の通りなんだよ」  九曜の説示を聞いているうちに、ようやく城跡らしい屋敷へ着いた。    庭園には色とりどりのフルーツが馥郁とした香りを漂わせ、十朱たちを迎えてくれる。    入母屋造りのアーチを抜けると、突如モダンな日本家屋が現れた。  磨きあげられた床をすべらないよう気をつけながら、迷路のような廊下をいくつも曲がり離れへ突っ切る。    青年は観音開きのドアの前で止まり、重々しくドアをおし開くと自分は下がった。 「さあ、グスクへ着いたよ」  九曜が入ろうとすると、入れ違いに一人の男が出て来る。 「よう、九曜。島に帰ってたのか」    ややハスキーだがよく響く低い声。三十がらみで、がっしりとした躰に上等な白麻のジャケットの着こなしが、島の権力者であると感じさせる。 「──やあ、(あたり)。地盤作りに余念がないねえ」  九曜もにこやかに対応するが、白く光る眼鏡の奥ではまったく目が笑っていない。    おだやかな物腰にささくれ立ったものを感じ、十朱は思わずたじろいだ。  だが相手は別段気にするふうもなく、日に灼けた顔にオーバーな笑みを浮かせ返してくる。 「相変わらずだな、九曜。おれは町議会議員として、この島の祭祀と歴史を本土(ヤマト)に広めようと奔走しているだけだ。  ひいては上之音島の豊かな未来のためにな」 「自分に都合よく解釈しているようだねえ。  観光業で豊かになるのはきみの懐だろうし、何より島民はそんな未来など望んではいないよ」 「若いのに夢がねえなあ、お前は」 「経済主義にまみれた画策が夢とは笑えるね」    十朱が両者のぎすぎすとしたただならぬ雰囲気を察知し始めた頃、彼らの応酬を響く声が遮った。 「九曜、そこまでにして」 「えっ?」    なんと、中から出て来たのは、クラスメイトの榊海七だった。 「おっと、ぼくとしたことが正殿の前で無粋だった。失礼」  九曜がさっと踵を返す。すれ違いざま、當は十朱に興味深そうに目をやった。 「おや、その子が例の……なかなかかわいいじゃないか。海七クンと並んで撮影すれば、いい観光ポスターになる」 「この子はきみの政の道具になどさせないよ」    これ見よがしに十朱の肩をかばうように抱く九曜に、海七がちらりと目線を投げる。 「そ、それよりなんで榊さんが……!」 「──妃三子さま、九曜がもどりました」    当惑する十朱にかまわず、海七は広さ二十畳ほどもある広間へ入って行った。    部屋には、着物生地のワンピースをすらりと纏った四十代ほどの女性が、猫足の大きなソファにゆったりと腰かけていた。  ここ南国において、雪のように白い肌。腰まで届く艶やかな黒い髪は躰に沿って墨を流したかのようで、常人にはない気品を感じる。  海七が敬称を使うのに驚いたが、それもふさわしいと納得する。  九曜が前へ出て、十朱をそっと促した。 「こちらが主(あるじ)(きずき)妃三子さまだよ。彼女は、この島を昔統治されていた家系なんだ」 「ようこそ、上之音島へ。まあ、ずいぶんかわいらしい『〜神さま』だこと」  雅やかな瓜実顔がすぐに破顔し、ひと懐っこい笑顔に十朱はほっと緊張を解いた。 (ん? でも何か神さま、って言わなかった?) 「どうぞ、月桃茶といってこの島の名産品なのよ」  運ばれてきた薄桃色のお茶を妃三子が勧める。  カップを手に取ると、湯気から生姜のような香りが立ち昇り、すっきりとした風味が口いっぱいに広がった。    ようやく人心地がつきふと視線をずらせば、ひとりの青年が妃三子のとなりに立っている。 「息子の壱也(いちや)ですの。仲よくして下さいね」 「一年遅れてるけれど、同級生になるよ。よろしく、十朱さん」  青年は煌々(きらきら)しい笑顔で微笑んだ。  顔は母親の造形を受け継いでいるが、むしろこちらのほうが美しい。    感嘆のため息をつく十朱だったが、ふと壱也にもう一つの顔が重なった気がした。 (あれ? 今一瞬、誰かと……)  首をひねる十朱の前に、九曜がずいと身を乗り出す。 「ところで妃三子さま。また當が性懲りもなく、ホテルの誘致に来ていたようですが」 「ええ、當さんは島を護りつつ、開発も視野に入れたいとおっしゃって」 「詭弁です。あの悪徳議員、自分の腹黒い腹を肥やすことしか考えていません」 「九曜、今日は妃三子さまに苦言を言いに来たのではないでしょ」    ぴしゃりと諌める海七が、学園でのもの静かな印象とあまりに違い十朱は驚いた。 「そうそう、せっかく九曜が十朱さんを連れて来てくれたんですものね」  妃三子は紗で織られた帷幕を引いた。    高台から見下ろす島と蒼海の絶景が現れ、十朱は思わずため息が出る。 「きれいでしょう。この島は珊瑚でできているの。あなたのおばあさま、久仁さんはね、その優れた霊力(サーダカ)でこの島を長きにわたり護られて来たユタ神でした」 (さーだか? ゆたがみ?)  意味不明な単語を聞き返す間もなく、妃三子は続ける。 「彼女が亡くなった今、島の均衡は崩れ存続が危ぶまれています。病を患う島民も増えてきているの。  わたしは亡くなった主人に代わりグスクの長として、島を護らなくてはなりません。  十朱さん、あなたは久仁さんの血を継ぐ最後の望み。きっとわたしたちの島を救うことができるはず。このままだと島はいずれ変容し、カミを失ってしまうでしょう。  あなたにはユタとしてウタキを見つけ、『ツナギナオシ』をして頂きたいの。上之音島のために」 「お願いします、十朱さん」  輝くばかりの美貌で壱也が見つめ、その場にいた人間すべての目が自分に注がれる。 「え? えーとォ……」  正直、妃三子の言っていることが1ミリも理解できなかったが、とてもノーと言える雰囲気ではなく十朱は清々しい宣誓をした。 「はい! がんばります!」  敷地内に併設されている歴史資料館を見学した後、グスクを出るとすでに夕刻だった。    九曜、海七、十朱の三人は、九曜がトネヤシキと呼ぶ古い木造の平屋に来ていた。    宿泊施設というが、剥げた外壁にはきのこ、所々抜けた瓦、軒下には破損したままの雨樋と、次の台風が来たら倒壊しかねない外観である。    部屋の土壁を我が物顔で這うヤモリを横目で見ながら、十朱は萎え気味につぶやいた。 「……ここに泊まるんですか」 「なんせこの島、ホテルも民宿もなくてねえ。あ、でもいちおう女子部屋と男子部屋は分けるよ? 合宿だからね」    のん気な笑顔でかわす九曜に、十朱はがまんできずにつめよった。 「わたし、巫女のバイトに来ただけですけど? 何ですか『ゆた神』って」 「巫女のこと、この島ではユタって言うんだよ」 「そーいうこと言ってるんじゃありません! 話と違うじゃないですか」 「何も違わないよォ。島を『ツナギナオシ』て安定させる──ここでは、それが巫女の業務なんだよ」  九曜は陽気に肩をすくめる。  さっきと同様、何を言われているのかさっぱりわからなかったが、さらりと何の問題もないように話す九曜にますます腹が立つ。 「ユタとは巫覡(かんなぎ)、いわゆるシャーマンのひとつでね。この島では男性のシャーマンをタユウ、女性をノロ、ユタと呼ぶ。  タユウとノロが祭祀組織に属する会社員だとしたら、ユタはフリーだ。  でもどちらも、カミの力を借りて祭祀から厭魅(マジムン)の祓徐までこなす巫術(ウーシュー)師なんだよ」    聞き慣れない名称と突拍子もない話に言葉も出ない。十朱は憤りを通り越し呆れて言った。 「なーにがバイトですか、こじつけもいいとこです。もうパパに連絡して──」  と、スマホを取り出すが即座に顔をしかめる。  通話ができない。 「あ、この島、圏外だから」 「じゃあ今すぐ帰らせてもらいます」 「次のフェリーは一週間後」    十朱はわなわなとこぶしをにぎりしめた。 「訴えてやる! 教育者のくせにやることが汚いわよ!」    ふたりの様子を見ていた海七が、冷めた目つきで口を開いた。 「この子がいなくったって、わたしたちでなんとかなるわ。帰りたいって言ってんだから、勝手にさせればいいじゃない」 「そもそも榊さん、なんでここにいるの?」 「わたしはノロよ。特定の憑き神とともに仕事をしているプロなの。  あなたと違って」    火花を散らすふたりの間にあわてて九曜が入る。 「ああ、久仁さん──きみのおばあさまは我々の長だったんだよ。本来組織は女性のみだけど、今は後継者不足で男性の(かんなぎ)もいる。  現在チームはぼくらタユウとノロで構成されているんだ」 (海七さんと司さんがシャーマン?)  聞けば聞くほど、自分の日常とかけ離れた世界についていけない。    九曜はそんな十朱に軽く嘆息して笑うと、 「まあ、とりあえず考えてみてよ──さて、ぼくたちはちょっと出かけて来るから、ここで待っていてくれるかな」  と、海七といっしょにトネヤシキを出て行った。  腹を立てても、今のところ帰る手段はない。十朱は少し冷静になり考えてみた。    わざわざここまで来たのだ、バイト代はもらって帰りたい。だが妃三子の話では、とてつもなく重大な仕事を任されそうな感じだった。  実際、そんな役職をおしつけられても困る。    しかも待っていろと言われても、テレビもまんがもなくインターネットもつながらない古民家ではすることがなく、十朱は灼けた畳に寝転がった。    十分ほど経った頃だろうか。いきなりがたんと音がした。    ふり返ると、壁にかけてあった古いふり子時計が大きく傾いている。  かけ直すため、しょうがなく立ち上がりはずしてみると、裏面にお札の痕を見つけた。 (何これ……)  いやな予感と気配を感じ、窓の外をふり返る。    ばん! 「ひゃあっ!」  突然窓を叩かれ、十朱は驚いて飛び退った。  窓ガラスに血痕のような手形。   (い、いたずら?)    しかし十朱が確かめる間もなく再び大きな音が張り、窓はいっせいにいくつもの赤い手のひらに覆われた。 「きゃあああ!」    激しい破砕音がしてガラスが割れる。黄昏に灯りが生まれ、青い炎が次々と侵入して来た。    せまい部屋の中逃げ場はなく、とっさに畳に伏せる。炎が波のように襲って来た瞬間、外から不可思議な呪文が聞こえて来た。 「ギナシュギナシュアンマークワー──」    炎はぴたりと動きを止めた。まるで十朱のまわりに見えない壁があるように心もとなくゆらめき、一定の距離を保っている。 「ジュホージュホー──去ね!」    怒号とともに、青い炎はあっけなくその形を霧散させ消えた。  十朱がそろそろと顔を上げると、九曜があわてて部屋へ入って来た。 「大丈夫かい、十朱さん! 帰って来たら窓ガラスが割れていたから、びっくりしたよ。間にあってよかった」    あの炎を追い祓ったところを見ると、シャーマンという肩書きは本当らしい。  ようやく人心地を取りもどした十朱は、青ざめながら訴えた。 「いきなり火の玉が襲って来て……! あれ、なんなんですか?」 「あれは『遺念火(イニンビー)』。変死があった場所に現れる厭魅(マジムン)よ」    九曜の後からやって来た海七の言葉に、十朱はさっと顔色を変えて立ち上がる。 「なっ……ここお化け屋敷!? やっぱりわたし帰らせてもらいます」 「ああっ、待って待って! 海七、余計なこと言わないの!」    回れ右をする十朱を遮って九曜が立ち塞がり、すがるように言った。 「遺念火(イニンビー)はぼくが祓ったからもう大丈夫だよォ」 「でも変死があったってことはここ、事故物件なんですよね?」 「昔、刑場だったんだ」  外から、別の男性の声がした。 「あっ、矢束(やつか)もそれ言っちゃだめだって!」     割れた窓からのそりと入って来たのは、あの赤髪の青年だった。  その一言に無言でくるりと向きを変える十朱を、九曜がまたもあわてて止める。 「大丈夫大丈夫、みんないつもここ使用してるし、ちゃんと除霊もしたんだよ。お札も貼ってあるし、心配ならほら、追加もあるからさ」    と、怪しげな文字の書かれた札をトランプのように広げて見せてくる。  何ひとつ大丈夫とは思えないうえ、十朱はふり子時計を指して言った。 「そのお札、剥がされてましたけど」 「お札が?」    一同に怪訝な空気が走る中、矢束はポケットに手をつっ込んだまま、厳しい声色で十朱を見下ろした。 「おばぁの孫だろうが、遺念火(イニンビー)ひとつ怖がってるようじゃ役に立つわけないだろう。さっさと本土(ヤマト)に帰せよ」 「矢束、きみがお札を剥がしたのかい?」 「……そいつに、どれだけの霊力(サーダカ)があるか試した」    悪びれもせず、十朱を顎でしゃくる。九曜は困ったように息をつくと、おだやかに、けれど諌める口調で言った。 「遺念火(イニンビー)はさほど害のない厭魅(マジムン)だから、今日のところは寛恕するとしよう。  でも今後またこんなことがあったら、うちへの入団は考えるよ? いいね」    矢束はうなずきもせず、ふいと無言でトネヤシキを出て行く。 (入団? あのひともシャーマンなの?)  「あんな失礼なひとが?」  思わず声に出たモノローグに、九曜が苦笑する。 「彼は矢束。我々の仲間だよ。  あれでも小さい頃は、女の子みたいに泣き虫でかわいかったんだ。許してやってよ」    昔はどうあれ、今はかわいくないどころか印象は最悪だ。  むくれる十朱に、九曜は両手でかかえるほどの竹行李の籠をさし出した。 「祀り用のこれ、取りに行ってたんだ」  開けるよう促され十朱が蓋をとると、中には麻に似た薄茶色の着物が入っている。    どう見てもつぎはぎの薄汚れた着物にしか見えないが、次第に九曜の息が荒くなり、何のスイッチが入ったのか気勢がおかしな方向へ向かい始めた。 「祀りというのは『ヨーカビー』という厄払いの祭祀でね。こ、これ、おばぁが使っていた巫女装束の神衣(カミギン)なんだ。定番の緋袴もいいけど、素朴な芭蕉布も萌えるよね〜きみにも似あうと思うな。ほら、これが神聖な巫女の香りで」    そう言われても、十朱にはカビくさい古い布の匂いしかしない。  だが九曜は、興奮したように布地をすんすんと嗅いでいる。 「ユタに成ったらこれを着て、神楽を踊ってほし……ムハァ」 「…………」    正直、彼の特殊な嗜好にはどん引きだったが、頬を染めながらいきいきと語る九曜には何を言っても無駄だろうと感じ、十朱は嘆息した。 「──わかりました。とりあえず、やってみます。  でもわたしにそんな力はないってわかったら、あきらめて下さいね。バイト代もらって帰りますから」    きっぱりと宣言する。適当にワークショップ感覚でユタを体験し、さっさと退散するつもりだった。  しかし九曜も、さも納得したようににっこりと笑う。 「OK、滞在日数を見て時間割報酬を出そう。双方いい妥司点じゃないかな。  とにかく、きみが神衣(カミギン)を着てくれるの、楽しみにしてるよ? ふふ」    化かしあうように微笑むふたりの後ろで、海七が爪を噛み小さくつぶやいた。 「──認めないわよ、わたし」  
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