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発生
太田透は、深夜の邸内見回りをようやく終えたところだった。
資産家、美空家に執事として泊まり込みで仕えて早十年。その十年の間、毎日欠かさず行ってきたのがこの就寝前の邸内見回りだった。一家を狙い邸内に忍び込んだ怪しい輩は、何人たりとも逃がさない。その堅い忠義のおかげで、これまで数人のコソ泥を捕まえたこともある。
太田が仕える美空家の主・俊太郎は、元は一実業家に過ぎなかった。しかし俊太郎には秀でた商才があったらしく、みるみる他会社をごぼう抜き、業績を業界トップクラスにまで伸ばし上げたのだ。
その際よくある話だが、数多のライバル会社を潰してのし上がってきた。それで怨みを買うことも多いのは事実だ。不届き者の大半は私的な怨恨で一家を狙っていた。それを懲らしめるのが太田の役割である。柔道黒帯の有段者の太田に敵う者は今のところ、いない。
忠義の徒とは言ったものの、俊太郎の経営手段に疑問を抱くこともしばしあった。しかしそれを深くは追及しなかった。自分はたかが一介の執事に過ぎない。主人に噛みつくのは愚かな犬のすることだ。執事の最大の務めは、いかなる指示であろうと主人に黙って従う、それだけだ。
「さて、そろそろ私も寝るとするか……」
白手袋を深くはめ直し、太田が自室へと踵を返した、その時だった。廊下の向こうにぼんやりと灯りに照らされた人影が見えた。
「誰だ!」
太田は威嚇の声を張り上げ、手にした懐中電灯をそちらに向けた。眩い光源に照らし出されたのは、よく見知った顔だった。
「ちょっとぉ……オルさん、眩しいんだけど!」
「葵お嬢様……これは失礼いたしました」
照らし出された人物――葵は美空家第二令嬢である。太田は態度を恭しく改めた。
「それにしても、何故こんな夜中に廊下で、何をなされているのです?」
素朴な疑問を問えば、葵は素っ気なく「喉渇いたから水飲みに来ただけ」と彼女を仄かに照らしていたスマートフォンをいじりながら答えた。今時の若者らしく、友人とSNSでメッセージのやり取りをしているのだろう。交友関係は広いと聞く。
「左様ですか。お邪魔して申し訳ございませんでした。しかし、水ならば私を呼んでくださればお運びいたしましたのに」
「やだ。鬱陶しいもん」
申し出をばっさり切り捨てられるが、そこで心が挫けては執事としてこの先仕事をしていけない。葵は中学三年、思春期真っ盛りだ。今はそっとしておくべきだろう。
「それは失礼いたしました。では、ゆっくりお休みなさいませ」
「うんー」
太田が今度こそ自室に帰ろうとした、その時。
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