おけいこタクシー

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おけいこタクシー

「あんたが『おけいこタクシー』の人?」  美少女は四十代の大人である私を見下して、そう言った。  ああ、やっぱり。  予想はしていたが、それでもため息が漏れる。 「お迎えに参りました、『おけいこタクシー』の宮部と申します。坂口まりあさんですね?お母様よりご依頼がございましたので、本日より一ヶ月、私、宮部が、まりあさんのおけいこの送迎を致します」  まりあという名の少女は、気に入らなそうに唇を尖らせて、私を見上げた。 「イケメン運転手じゃない、男でさえない。おばさんじゃん」  イケメン執事がお嬢様を守るマンガが流行って、ドラマ化もされてから、よく言われるセリフだ。 「私はまりあさんのお母様と契約を交わした、いわば、お母様と対等の関係です。あなたの執事でも家来でもありません。私の労働に対価を支払うのはあなたのお母様です」 「……」 「納得いただけましたら、どうぞ、お乗りください」  私はタクシーの後部座席のドアを開けた。  これが坂口まりあとの出会いだった。 『おけいこタクシー』  私の勤めるタクシー会社が新たに始めた企画である。  子供に習い事をさせたいが、夫も妻も仕事があり、送迎ができない。子供の祖父母は離れて暮らしている、もしくは関係が良くないので頼りたくない。治安や習い事までの距離を考えると、子供だけで通わせることはできない。誰か確実に送迎してくれないだろうか、できれば何年も。  そんなニーズに応えるように『おけいこタクシー』は始まった。  私が担当している坂口まりあは劇団で演技の勉強をしている。子役でデビューを狙っているが、既に小学六年。崖っぷちらしい。  車内のルームミラーに映るまりあは、冷たい美人顔に幼さが混じった、複雑な顔をしている。  近い将来、近寄りがたいタイプの、氷のような美人になるだろう。薄い唇、今どきの子らしい細い顎、スッときれいな鼻筋、そしてなによりも眼が冷たい印象を与える。大きい瞳、くっきりした二重瞼、長すぎる睫毛。その眼が私に問う気がする、あんたは私を裏切らないか、と。気のせいだろうか。  私は基本的にまりあに話しかけない。まりあも話したいようなしぐさを見せない。  だから私は四つの言葉しか話しかけない。 「お迎えに参りました」 「いってらっしゃいませ」 「お疲れ様でした」 「ご利用ありがとうございました」  これだけ。  まりあも小声で返事をするだけだ。  だから赤信号で停車しているとき、ミラー越しに 「ねえ、宮部さん」 と言われたときは、まりあの眼に負けないくらい、私の目は大きく開いた。 「は?」 「『お父さんのせいでお母さんは死んだのよ』って娘が発狂するように責めるようなドラマ、宮部さん、観たい?」  演技の話をしているのだとすぐにわかったが、それにしても唐突だ。前置きはないのか。 「演技のことは私にはわかりませんが……テレビドラマは大好きなので、一視聴者の感想ですが……充分泣けるのでは?」 「……引くわ」 「え?」 「訊く相手間違った。人選ミス」  まりあは明らかにブスッとして、機嫌を悪くした。 「すみません……」  まりあはそれきり、また何日も話さなかった。  まりあの担当は二ヶ月、三ヶ月、四ヶ月と延長された。梅雨時に初めて会ったまりあの背は少し伸びて、服装は大人っぽい落ち着きのある、秋用のワンピースになった。  相変わらず、私達は会話を交わすことはなく、私は今までどおり、劇団の前でまりあを降ろした。 「いってらっしゃいませ」  私も車を降り、劇団の入り口近くで、頭を下げた。  いつもなら、はい、か、うん、と小さく返事をするまりあの声が、今日は聞こえない。  頭を上げると、まりあは劇団に入っていく母子を眺めていた。 「みんな、ママが応援してくれるんだ……」  独り言なのは明らかだった。まりあは私を含め、他人に隙を見せるような子ではない。それはこの四ヶ月でよくわかっていた。ただ、やはり子供。一瞬溢れた気持ちが漏れ出てしまう。 「まりあさんもお母様に観てもらいたいですか?」  私がそう言うと、まりあはハッとして、慌てて私に背中を向けた。少しだけ見えている耳が真っ赤だ。 「別に。うちのママ、芸能活動大反対だから、絶対観に来ないもん」 「そうなんですか?」 「私がやりたいやりたいって食い下がったから、小学生時代の思い出にって、劇団に入れてくれただけ。中学にあがったら劇団はやめて、勉強と部活を一生懸命やりなさいって」 「では、オーディションに受かったら、どうするのですか?」 「受かるわけないでしょ。一つの役を百人以上で取り合うのよ?」 「そうですか……でもドラマ好きの私はまりあさんみたいな顔の女優さんが主役のドラマなら、必ず観ますけど」  私は素直な一視聴者のつもりで言ったのだが、まりあは軽蔑の視線を私に投げて、ため息をついた。 「それ、セクハラ」 「は?」  まりあはスタスタと劇団の建物に入っていった。  セクハラ?なにが?顔?顔を褒めたから?顔で女優になれるみたいな発言が悪かったのか。  しかし私は時々妄想する。大人になった美しいまりあが、テレビドラマで主役を演じている姿を。私がそのドラマにハマっている様子を。  冬になった。  まりあを乗せている時間帯は道路が凍っていることはないが、早朝、一般のお客様を乗せている時は、スリップしないよう、充分すぎるほど気をつけなくてはならない。おかげで肩はガチガチになり、目はショボショボする。  そんなショボショボの目で見てもわかるほど、ルームミラーに映るまりあは、最近元気がなかった。  ぼんやり外の景色を見ている眼に力はなく、氷の中の深紅の薔薇が枯れたようだ。 「劇団でなにかありましたか?」  私は思いきって声をかけた。 「え?」 「劇団でなにかありましたか?」  私が二度同じ言葉を発する必要があるくらい、まりあはぼーっとしていた。 「ああ、もうすぐ夢がついえるなあって思って。ちょっと寂しくて」 「オーディション、もうすぐですね」 「宮部さん、私の送迎がなくなったら、ラクになるでしょ?」 「仕事はラクになったら赤字です」 「あ、そっか」  まりあが小さく笑った。その笑顔をルームミラー越しに見た。それはそれはかわいい笑顔だった。氷の世界が一瞬にして淡いピンクのわたあめの世界になったような気がした。 「オーディション、今度の日曜でしたね」 「あれ?私、宮部さんに話した?」 「いえ、お母様から送迎のご依頼がありました。いつもの曜日以外の送迎なので……え?まりあさん?」  ルームミラーに映ったまりあは口に両手をあて、驚きをあらわにしていた。指が小刻みに震えているように見えた。  私はコンビニの駐車場の一番端にタクシーを駐車した。  改めて後部座席のまりあを見ると、まりあは膝の上に固く握りしめた手を置き、俯いたまま動かなかった。 「ママ、オーディション、観に来てくれないんだ?日曜なのに」  大好きなお芝居を、一度も母親に観てもらえない。反対しているのは知っている。それでも娘に愛情があるのなら、最後の日くらい観てくれるはずだ。  まりあは母親の自分に対する愛情を、そういう形ではかっていたのだろう。  私が今すぐ後部座席に移り、まりあの華奢な肩を抱きしめてあげることは容易かった。しかし私はそうしなかった。『おけいこタクシー』のお客様と必要以上に親しくすることや、体の一部に触れることなどは、固く禁じられているからだ。 「まりあさん?大丈夫ですか?」  私は運転席から降りずに、体をひねって後部座席のまりあに声をかけた。 「ぐあいが悪いのでしたら、」 「大丈夫です」  私の言葉を遮って、顔をあげたまりあの眼は、氷の世界に閉ざされていた。誰にも心を開かない、誰も近寄らせない、氷の女の眼だった。  日曜日。 「お迎えに参りました」  私は数えきれないほど使ったセリフとともに、後部座席のドアを開けた。  まりあは相変わらず、氷のような美人顔。担当したばかりの頃の幼さは、今はもうない。  会話がほとんどない、しんとした車内も、いつもと変わらない。ただ、今日が最後、というだけ。  私の運転もいつもと変わらない。ブレーキはスムーズに。車間距離は長めに。  オーディション会場である市民ホールに到着。まりあの母親から指定された時間の五分前。  私は先に降車し、辺りを見回す。怪しい人物は見あたらない。それから後部座席のドアを開ける。これが『おけいこタクシー』の決まりだ。  まりあがタクシーから降りる。 「いってらっしゃいませ」  私は頭を下げる。  すべて今までと同じ。 「ありがとう」  え?  私が驚いて頭を上げると、まりあと目が合った。その眼はやはり氷の世界を映していた。  お迎えは四時間後。駐車場で待機する必要はない。  でも……。でも……。  運転席に座ったまま、エンジンをかけようとしてはやめ、またかけようとしてはやめる。ただそれを繰り返していた。  私がまりあの母親の代わりになれるわけではない。私が客席でまりあの演技を観たってなんにもならない。まりあは喜ばない。むしろ余計なことだろう。でも情?いや、少し違う。私はまりあの女優である姿を観たい。  会場に入ると、客席の中央より少し前に、審査員らしき大人が五人並んで座っていた。保護者は一階席の後ろのほうや二階席にばらばらに座っていた。  私は保護者でない、よそ者である居心地の悪さを感じ、席に座る勇気がなく、一階席の一番後ろで立ち見をすることにした。  舞台を観ていると、聞いたことのあるセリフが耳に入ってきた。 『お父さんのせいでお母さんは死んだのよ』  以前、まりあが私に言ったことがあるセリフだ。  女の子が母親の亡骸の前で、父親を責めるシーンのようだ。  娘のセリフによると、父親は仕事のストレスからギャンブル依存症になり、生活費を使い果たし、定期の解約など次々やらかし、挙げ句の果てには娘の学資保険に手をつけた。母親は必死で昼も夜も働き、過労死してしまった。そして亡骸が病院から家に戻ってきたが、葬儀屋を頼む金もない、というシーンらしい。なかなか悲惨な設定だ。娘が泣き叫びながら父親を責めるのはもっともだ。  女の子が数分間演技をすると、審査員の一人が 「はい、ストップ」 と一声かける。その低い声はかなり威圧感があり、そのせいで会場の空気が緊張する。  厳しい。  怖いくらい厳しい世界だ。  数人観たあとだった。 「五十二番、坂口まりあさん」  審査員席の端に座っている女性がまりあの名を呼ぶと、舞台そでからまりあが出てきた。 「お父さんのせいでお母さんは死んだのよ」  まりあは明らかにほかの子とは違う演技を選択していた。静かな口調で、父親に言い聞かせるように、セリフを紡ぐ。 「依存症だから仕方ないなんて、甘えたこと、言わないで」  母親の亡骸から父親のほうへ体の向きを変える瞬間だった。ほんの一瞬、客席に視線を向けたそのとき、まりあは遠くで立っている私を見つけた。まりあの動きが二秒ほど止まったように、私には見えた。  まりあが私を見つめる。まりあの表情が、そしてあの大きな眼が、いきいきと輝き始めた。まりあは女優の顔になっていく。ルームミラーに映るただきれいなだけの少女は、もう舞台にはいない。 「お父さん、お母さんのそばに行って。手を握って。謝ってよ。幸せにしなくてごめんって謝って」  強い口調で責めることを前提に作られたであろうセリフを、まりあは切なく響く口調で続けていた。そして、その口調が徐々に震えだした。 「お母さんがかわいそうだよ」  それは涙声だった。  まりあの目から涙が一筋、頬をつたった。  照明の角度をうまく利用して、まりあは審査員ではなく、私に、かわいそうな少女の涙の演技を観せようとしていた。たぶん、私がドラマが好きだと言ったことがあるから。ただ、それだけの理由で。  美しい絵を鑑賞しているようだ。まりあだけが眩しいくらい輝いている。整った顔が歪むことはなく、大きな瞳から光るような涙がスーッとこぼれ落ちる。こんなに美しい涙顔を、私は初めて見た。  十年。  あれから十年も経ったのか、と私はテレビドラマを観ながら感慨にふける。  地上波、ゴールデンドラマ枠。視聴率が取れないと言われる昨今で、話題にならない日はない恋愛ドラマの主役は、坂口まりあ。  感動して、泣いて、寝て。  私は明日も仕事をする。 「『おけいこタクシー』の宮部です。お迎えに参りました」
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