吠えない犬

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そして、中谷さんがずっと気にしていた男の住所は東京都の文京区。もしそこから出発したとすれば、ここまでは単純に考えても四時間は要する。朝九時に来る理由は、ますます謎を帯びた。 男が帰って、昼から出勤してきたくるみさんや高崎さんにそのことを話したら、やっぱり変わった人だという話になった。 「そんなに嫌なら代わろうか」と高崎さんは言ってくれたけれど、中谷さんが「今後の仕事のためにもいい機会になるから」と言ってやっぱり私が担当することになった。そう言われれば、もう本音のままに代わってとは言えなかった。 午後の私は明日のことを考えて、あからさまに不機嫌だった。それを中谷さんなりに気を遣ってくれたのか、単に怖がらせてしまったのか、少し早上がりにしてくれた。 (三) 次の日、朝九時ほんの少し前。店まで行くと、男は予想通りすでに店の前まで来ていた。 今日も黒いコートに、黒地のズボン。一言で言うと、ダサかった。これからその横を歩かなければならない、と思うとまたひとつ嫌な理由が増えた。
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