隣のひとはなにする人ぞ。

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隣のひとはなにする人ぞ。

「……っ……」 それは、声にならない感嘆符のような声だった。 感嘆符に音があるのかと聞かれても説明は出来ないが音の無い音なのだ。少しうんざりしながら粗末な木の天井を見上げた。 何故天井を見たかを言えば、コソコソと蠢く人の気配がそこから聞こえたからだ。 何かが見えると期待したのでは無いけど、ずっと持ち続けている腑に落ちない感情と折り合いが付かずに、常日頃から被害者意識に苛まれている。 そのまま古く粗末な天井を睨んでいると、板と板の継ぎ目からジワリと広がった茶色いシミが少しずつ、少しずつ膨れてツルーッと落ちて来た。 部屋の中に漂って来るのは香料の混ざった鰹節の匂いだった。 「………どん兵衛を溢すな」 そう言ったのは勿論天井に向かってだ。 すると謝るよりも先に「赤いキツネです」と反論された。 ここは築55年、6畳一間の賃貸アパートだ。 元は病院だったらしいが、重い瓦屋根が垂れて畝っている古い木造の建物には6つの部屋がある。 台所とトイレは共同、風呂は無し。 今にも崩れそうな雰囲気はそれなりに怖いし、壁と屋根の継ぎ目から青空が見えたりするが外観も、快適さも、何もかもがどうでも良かった。 大学への進学を機に、自立する為に家を出るのだから問題は家賃の値段だけだった。 不動産屋さんに出した条件は、大学から徒歩30分圏内で1番安い部屋。それだけだ。 見つかった最安値の部屋には少し不思議な条件がついたが、内見も何もしないでここに決めた。 だって、選択肢なんか無い、雨風が凌げて眠る事が出来れば何でも良かったのだ。 ……住んでみるまでは。 勿論だけど後悔はして無い。 1人でやってみせると、馬鹿にしたように笑う親父に大見えを切った決心は今でも変わり無い。 ……無いが、水道や光熱費はどれだけ使おうと一律5000円、家賃は29000円、共益費は無く、合計34000円に付いた「条件」にはちょっと問題があると思う。 最初聞いたのは「ロフトに別の住人がいる」 しかし、入口は別だから顔を合わす事は無いし、プライベートを侵されることも無いって話だった。 第二候補は共同トイレ、共同台所、風呂も無いのに4万だと言うのだ。考えるまでも無いだろう。 ロフトの定義も考えずに越してきたらこれだ。 「何がロフトだ、どこがロフトだ屋根裏じゃん、天井の向こうに誰かが住んでるとか無いだろう」 建物の外観からしても屋根裏には人が立って歩ける程のスペースがあるとは思えないのに、確かに「誰か」がいるのだ。 薄い板一枚で隔てただけのスペースに住む隣人は、この状況を考えると大層静かだとは思う。 しかし、音を立てなくても、何もしてなくても、人が生きて呼吸するだけでも気配を隠せないくらいすぐそこにいるのだ。 しかも、こうやって干渉される。 間髪的に落ちて来る赤いキツネの汁は畳に当たって跳ねるものだから被害の範囲は結構広い。郵便ポストに入っていたビラチラシを置いてみたがコート紙ではまるで吸わない。 「すいません、何か……拭くものありますか?引っ越してきたばっかりだから掃除用具は無いんです」 姿の見えない隣人に話しかけると、少しだけ間を置いてからボソボソと陰気な返事をした。  「拭くもの…拭ければ何でもいいですか?」 「布団が敷ければ何でもいいです」 「じゃあ」と言うからどうするつもりなのかと思ったら、天井の角がカタンと音を立て、50センチ四方くらいの穴が開いた。 「嘘…天井板……外れるんだ。」 「そうだね、梁に板が置いてあるだけだからね」 「そこ、人が通れるじゃん、俺の部屋に入れるじゃん」 大層せまいがやろうと思えば天井から降りて来れる。勿論体型にもよるが少なくとも自分なら通れる広さだ。 「何もして無いでしょうね」 「ご心配なく、金目の物が欲しいならもっとマシな部屋を狙いますから」 「そりゃそうでしょうけどね……」 なけなしとは言え少しばかりは現金はあるのだと言いたかったが、それこそ余計な情報だろう。 それよりも、彼の住む天井裏がどうなっているのか気になって部屋の隅に開いた穴を見に行った。すると、ニュッと出て来たのは白い布を掴んだ人の手だ。 「うわ……本当にいる」 妙に生々しくて思わず体を引くと、バサッと落ちて来たのはシャツだった。 続いて封の開いてないカップヌードルが一つ、コロンと落ちて来た。 「え?くれるんですか?」 「いや?悪いけどお湯を入れて返してくれないかと思いまして」 「………台所は廊下にありますよね」 「あるけど降りるのが面倒なんです、察してください」 降りるとは…。 まあ、降りるのだろう。 「しかもシャツで掃除をしろと?まだ新しく見えますけど?」 落ちて来たシャツを拾い上げて広げてみると、開封したてのように折り目がキッチリと付き、襟や袖がパリッとしている。 まだ新しいと言うよりほぼ新品に見えた。 カップ麺の汁を拭くには甚だ不適切に思えて、もっと…ボロ布とか雑巾は無いのかと聞けば「そんな物を使ってどこを掃除しろと?」と。 それはそうだろう、彼の住むロフトがどんな環境なのかは聞かなくてもわかる。 「じゃあ悪いけど使わせてもらいます、後で文句を言わないでくださいね」 新しいだけじゃ無くて縫製を見てもボタンを見ても安物では無いとわかるが遠慮している場合では無いのだ。新品シャツを雑巾にしろと言うならそうさせてもらう、まだ水滴が落ちてくる赤いきつねの汁溜りにシャツを放り投げ、リサイクルショップで買った電気ケトルにスイッチを入れた。 そこである事に気が付いた。 「ってか……あの、聞いてます?」 話さなければ極力静かな「彼」に、まだそこにいるのかを確かめると「はい」と静かな返事が落ちて来た。 「これ、お湯を入れたら受け渡しは部屋の外でしょう、ならやっぱり台所でお湯を沸かした方が早いですよ、降りて来て自分でやってください」 「そう言わず」 「いいますよぉ」 効率が悪いって話でもあるが、まだ見ぬ隣人と初対面となりそうなのがとても嫌だった。 ここまで普通に喋っておいて今更なんだと言われそうだが、状況があまりに特殊だったから否応無しに話をしているだけで本来は極度の人見知りなのだ。一度でも顔を見合わせたら自分の部屋なのに緊張するという嫌な環境になってしまう。 どうしたものかと思っていると、天井裏からコロンと焼きそばUFOが落ちて来た。 「だから…そこから物を落とすのはやめてください、これ2つとも台所に置いておきますから自分でお湯を沸かしてください」 「あげるよ」 「…………え?」 驚いて天井を見上げると、今度はヒラヒラとお札が舞ってきた。 「1000円?」 「お駄賃、バイトだと思えば?」 「バイト……」 こんな事に1000円払えるなら、なぜ屋根裏になど住むのか不思議だが貰える物はもらう。 「どう?いや?」 「嫌だったんじゃ無くて……もういいです。やります。やりますよ。受け渡しは?その穴に投げたらいいですか?」 空のペットボトルに詰めた水道水を電気ポッドに足してから何か使える物はないかと部屋を見回した。 結果。 198円で買ったなけなしの掃除道具、短い箒にコンビニの袋を吊り下げて天井裏に運ぶという技を編み出した。
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