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ダイニングナーシー
そこは思っていたよりずっと煌びやかな都会の街中だった。店の名前はダイニングナーシン。
トリネコの立木が入り口を囲む、お洒落なビルの地下にある広い店だ。
ハイソサエティな雰囲気はあるが、結構ラフなのか沢山の酔客で賑わっていた。
派手な乾杯の音頭も聞こえるし、注文を取る声も大きい。バイトを欲しがっているのは知り合いの知り合いだから一人で行けと悟に言われて来たのだが、どこに声を掛けていいかわからずに思わず入り口で立ち尽くした。
不慣れ丸出し、飲み屋では場違いな服装、どれだけ浮いているのか見当も付かず、このまま引き返して帰ろうとした時だ。目敏い店員に見咎められ「お一人ですか?」と席に案内されそうになった。
「いえ……あの……」
「はい?待ち合わせですか?」
「違くて…あの、あの、俺はバイトで、いや、まだバイトじゃ無いけど、あの、た、健さんって人はいますか?」
普通の人なら何でもないことだろう。
しかし、知り合いのツテを辿って自分で声を掛けるなんて崖下に奈落が広がるバンジーを飛ぶ程の勇気がいった。(飛んだことないけど)
しかし、自分一人の力でやっていくと決意したのだ。美味しいバイトを逃すわけにはいかない。
「人手を探していると聞いて来ました、申し訳ないけど苗字は聞いてなくてタケルさんって名前しか……」
もうなんて言っていいのかわからずに、言い訳みたいに、ゴニョゴニョと煮崩れた語尾に冷や汗をかいていると、背の高い男がヒョイと現れた。
対応してくれた店員さんに「もういいよ」と声を掛けてからニッコリと笑って向き直った。
「もしかしてケンコーくんかな?悟から話は聞いてるよ」
「はあ…」
「俺は健、制服はエプロンだけだから明日は白Tシャツを着て来てくれる?今日は俺のを貸す…いや、返さなくていいから持って帰ってね」
まだ客からも見える店の中なのに、カウンターから取り出したTシャツをポイっと投げてくる。
慌てて引っ掴んで背中に隠した。
「あの、今日から働いても?」
「違うの?」
そう言って真っ直ぐに目を見てくる健は快活な雰囲気で満ちている。ちょっとチャラいけどぱっと見は華やかなイケメンでだけど、モテても同性から敬遠されるタイプでは無いように思う。
普段なら絶対に友達にはなれない遠い人種だ。
「今日が駄目なら明日からでもいい」と笑ってくれる。
「いえ、今日から働きます。不慣れで迷惑をお掛けしますがよろしくお願いします」
「そんなに堅苦しい店じゃ無い、失敗したら「申し訳ございません」って元気に言おうな」
「はい」
「言ってみて」
「…………はい?」
「だから言ってみよう、はい!申し訳ございません!」
「え?え?」
続けと言うのか?
目の前を少しだけ歩けば奥がある、どっちにしろ恥ずかしいが、やるならせめてバックヤードにしてれたらいいのに何故客のいるフロアなのだ。
健の大きな「申し訳ございません」に人の目が集まっている。
しかし、これが仕事の研修だと言われればやるしか無いのだ。
本当にこれでいいのか、混乱と緊張と焦りの中、思いっきり肺の中に息を吸い込んでいざ!って時にポンっと口を塞がれた。
強くも無く、強引でも無い。
優しく丁寧な手付きだった。
「やめようね、あいつは馬鹿だから真に受けたら駄目だよ」
「ね?」と綺麗なウインクを見せたのは、健と同じくらい背が高いスーツの男だった。
多分店の関係者なのだろうが従業員には見えない。
「あの、俺は…」
「ケンコーくんだろ?悟くんは同級生?話は聞いてるから頑張ってね、そこにいる馬鹿は馬鹿だけど、わからない事はあいつに聞いたらいい」
但し、自分の中の常識を覆したりしなくていいからって。
うん。
気を付けよう。
最初の出会いは酷いものだったが、先輩としての健は頼りになった。
失敗した時の「申し訳ございません」はあんまりアタフタすると客が気を使うからだと教えてくれた。そして、声が小さいから最初にやり切ってしまえば吹っ切れるって思ったらしい。
それはわかる。
わかるが、鵜呑みにするのは控える。
ダイニングバーでやる事はファミレスと同じだった。しかし、ファミレスとの大きな違いは客が酔っ払っているって事だ。
何言ってんだがわからないし、メニューに無い料理を平気で注文するし、伝票は手書きでファミレスの数倍目端を利かせなくてはならない。
だって、注文はテーブルに付いてからの一回では無い、飲み物の追加、食べ物の追加、お手拭きの追加、水よこせ、お茶を寄越せ、雑談を持ちかけられる事も稀じゃ無い。
目の回るような忙しさの中、悟に教えてもらった片道の仕事をするなって知らないままだったらとんだお荷物だったと感謝した。
手が開いても塞がっていても客の目線を探し、呼ばれている事を感知するのは至難の技で、誰よりもいち早く店員を呼ぶ目線を感知する健に指示を貰いながら、何とか1日目を終えた。
夜の12時に食べるまかないのカツ丼は今まで生きて来た中でも格別の美味しさだった事は特記したい。アパートまでの夜道を古い自転車で30分はつらいけど、充実していた。
「……でも…疲れた……」
飲み物は全て入れ物のギリギリまで入っているのだ。厨房から上がってくる料理やグラスを運ぶには膝を柔らかく使わないと溢れてしまう。
しかし、ソロソロと慎重に運んでいては間に合わない、つまりはずっと中腰で動いているようなもので太腿から脹脛はもうパンパン、腰は痛いし、疲れて眠い。
アパートが見えてくる頃には朦朧としている状態だった。
あと少し、あと少しで布団が待っていると、もう真っ直ぐに走っているのかもわからない状態だったけど、パッと目が覚めたのは知ってる声が聞こえたからだ。
一瞬耳を疑ったけど、間違いなかった、これは天井裏から聞こえる隣人の声だ。
まだ女であるかもって疑いは晴れてないし、どんな奴なのか、どんな顔をしているのかが気になって思わず自転車を降りて電信柱の影に隠れた。
どこだって思ったら探すまでも無い、アパートの真前で誰かと言い争っている。
見えるのは、スーツの男が2人だ。
「スーツ?」
天井裏になど住む奴がスーツを着てるなんて奇妙だろう。先程耳にして以来声も聞こえては来ない。やはり空耳だったのだろうかと肩を落とすと疲れがぶり返して来た。
何やら揉めているらしい2人には悪いが、邪魔をさせて貰おう。もう避ける余裕もなくボソボソ話す2人の側を通り掛かると、何故なのだ。
喧嘩しているように見えたのに突然のキスだ。
男同士。
声。
場所。
片方の男は以前に部屋から覗き見た隣人宅への客人だ。
つまり、もう片方が隣人に間違いなし。
あんまりあからさまに見たりは出来ないさけど、どんなやつなのか探りを入れてギョッとした。
薄暗いからなのか、チュウをしている横顔だからなのか、見てもなお、スーツを着ていてもなお、体格だって男だと思うのに男か女かわからない。
つまりはそれくらい「美人」だったって事なのだが、あまりにイメージと違った為、新鮮な驚きしか出てこなかった。
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