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僕の不運はこの学園に入学したときから始まっていた。
有名な財閥の御曹司が数多く通い、著名人にもこの学園の卒業生が多くいる私立のマンモス校。だがその実態は、美醜によるヒエラルキーが成り立ち差別が多く見受けられる最低の閉鎖空間だ。
そのことに僕は気づかず、浮かれきって入学したのが一年前。一歩足を踏み込めば、そこには可愛いから綺麗だから格好いいからと持て囃されちやほやされて生きてきた野郎共しかいなかった。
『男子校だから同性間でも恋愛に発展することが多くある』というネットの情報をガセネタと思っていたが、僕の目に入る周囲の様子からそれが強ち嘘ではないことがすぐにわかった。というよりも、目の前で堂々といちゃつくカップルが居ればむしろ「察しろ」という圧を感じる。
「見ない顔だよね、高等部からの人?」
「あ、ああ……うん、そう。これからよろしく」
唖然とする僕に唯一話しかけてくれた隣席のクラスメイトは僕の顔をじっと見つめたあと、すっと目を逸らした。目の前に僕がいるのに、初めから何も見ていないかのように。
「いやいいや。それより君の顔だとあんまりほいほい人に話し掛けないほうがいいよ。制裁とかあるから。これ親切心のアドバイスね」
「えっ……?」
彼はもう話の続きをする気がないらしく、反対の先に座るクラスメイトと話し始めてしまった。
余談だが、彼の言ったことは本当で僕はこの直後彼の親衛隊を名乗る男から水をぶっかけられることになる。思い出すだけでも胸糞が悪い。
だが、この一件で僕は学んだ。
この学園には馬鹿しかいない。そのくせ、立場も年齢も同じ学生でしかないくせに人を評価する目だけは一丁前にあるつもりでいる。
親の七光りと横の繋がりの両方を持たない俺は早々に爪弾きにされた。初等部からの繰り上がりで変わらない面々としか関わりを持とうとしない彼らが僕に向ける瞳は他所から来た人間を品定めする田舎者……もとい、その地域に根付いた人たちのようで、狭い教室はまさに村社会そのものだった。
できることなら入学する高校を選ぶところからやり直したい。あれが人生のターニングポイントだ。もう一年以上前の話だというのに、今でも夢に出てくる。
「……夢か」
最悪の夢を見た。まあ、いつもの夢だけど。今でも目の裏に鮮明に焼き付く、あのとき見た煌びやかな学園のパンフレットが僕の人生を変えてしまったのだ。
朝から苛立つ気持ちを抑え、なるべく無感情に電子音を響せるアラームを止めた。軽くストレッチをして身体を起こす。
高校生の朝は早い。まずは日課である早朝のジョギング。時には日の出前から走り出すこともあるが、そもそも走れる範囲が寮からその周辺の学園敷地内だ。たとえ深夜に徘徊したところで不審者に出逢うことは無いだろう。それでも敷地自体が無駄に広いから、距離はそこそこあるけれど。
部屋に戻ったら柔軟を欠かさない。シャワーを浴び、軽く化粧を施して顔面を整える。整えると言っても黒目の大きさが変わるほど特別な何かを施すわけではなくて、眉の形を揃えて少しだけついているそばかすを隠すくらいのものだ。そんなに時間もかからない簡単なもの。だが、これのお陰で『あんまりほいほい人に話し掛けないほうがいい』顔面から『固定ファンはつかないが制裁は受けない』程度の顔面に変わる。
美醜による差別を助長する気はないが、郷に入っては郷に従え。どうせあと2年はこの学園の外には出られない。つまらないことで爪弾きにされるのは面白くなかった。
朝食はタンパク質を意識してしっかり摂る。一見ヨーグルトや果物なんかは健康そうだが、身体を冷やすから控えめに。ただ腹を満たしたいだけなら食堂があるが、炭水化物と揚げ物が多いから滅多に足を運ばないことにしている。それに、栄養や食べ合わせを考えて多くの種類を少しずつ食べるから用意するのも食べるのも時間が掛かる。集団生活をしていると、人や時間に合わせて動けない人間って結構浮くものだ。人の出入りの激しい食堂でいつまでもちまちま物を食べているとそれだけで嫌な顔をされがちだった。
そんなことを思い出しながら食事を終える。ここまで決まったルーティンだ。
「よっと、そろそろ行くか」
返事のない中で独り言を呟く。寮生活は本来なら相部屋が基本だが、とある制度を使って一人部屋の特権を勝ち取っている。しかし権利には義務が付きもので、今からその義務を果たしに行かなければならない。
部屋出る直前、扉に掛けた鏡に向かって微笑んだ。目の前にあるのはいつもと遜色ない作り物の笑顔だ。うん、今日も上手く作れている
顔面の最終確認をして、部屋の扉を開けた。
──
「おはようございます!」
明るく元気な声の挨拶が聞こえる。一人が挨拶をすれば、存在に気づいた子たちが口々に朝の挨拶を口にした。
それに先ほど鏡で確認した微笑みを向けて、自分のものとは思えないほど甘い声で返す。
「おはよ〜、今日も会長に褒められるようにいっぱい頑張ろうねぇ」
僕は猫を被っている。見破られたことは無い。多分、今のところは。
あの日、水をぶっ掛けて来た彼は僕に有益な情報を与えてくれた。親衛隊というものに所属すれば、そういった制裁対象から除外されるらしいのだ。
水を掛けるだけ掛けて早々に去ろうとする背中を羽交い締めにして情報を吐かせたところ、この学園には侍る側と侍られる側の立場が明確に分かれているらしい。そして侍る側同士は争うことを好まない。不可侵の取り決めが暗黙の了解として存在するのだと言う。
バケツ並々一杯の水を掛けておきながらやり逃げなんて許すかよと思いびしょ濡れのまま羽交い締めにしたが、僕が何も知らない高等部からの生徒だとわかると少しは申し訳なさそうな顔をしてくれた。そこに付け入って助けを求めれば嫌な顔をしつつ説明してくれたので、今にして思えば悪い人ではなかったのだろう。
以来、僕はその人の真似をしている。間延びした馬鹿そうな喋り方は「僕は敵ではありません」の意思表示だ。あの人は「可愛いからやってるんだよ!」と否定していたが、僕にはそうとしか思えない。
「会長は今日も遅刻かなぁ?」
「多分そうでしょうね。昨日も何人か部屋に呼んでいたそうなので」
「みんな折角お出迎えするために朝から集まってくれてるのにね? 授業免除があるのは生徒会役員と風紀委員と親衛隊幹部だけだから、困っちゃうよねえ」
「一部の成績優秀な幹部だけ、ですよ」
有益な情報によれば、比較的生徒会長の親衛隊は挙動が落ち着いていて過ごしやすいと聞いた。会長は親衛隊に興味を示さないし、数も多いし個人が認識されることもないだろうから隠れ蓑には使えると。僕が会長の親衛隊を選んだのは、そう聞いていたからだ。
「隊長、俺、そろそろ授業出ないとまずいんで行きます」
「ああ、うん……僕もそろそろ行っちゃおっかなー」
「隊長は成績優秀者で授業免除対象ですよね?」
「………………うん」
どこで道を間違えたのか、気づけば僕は隊長なんて呼ばれるようになっていた。
成績優秀者は一人部屋ということを知り、張り切って上位5位以内に食い込んで浮かれきっていたのだ。
まさか親衛隊内の順位付けが成績によるものなんて思わないだろう。隊内ではぶっちぎりの一位だった。
成績は期末ごとに変動があるが、それでも部屋の割り振りと親衛隊幹部の選出は年に一回だ。年にたった一度きりの機会で次席と50点以上の差をつけてしまったものだから、新顔のくせに誰も文句をつけられず隊長に就任してしまった。
組織の頭になるのだから成績がある程度指標になるのはわかるが、肝心なのは親衛隊だということだろうに。もっと会長への好感度とかを指標にしてもらいたい。僕、本当は会長の顔もうろ覚えで名前も知らないのに。
「って、待って待って、副隊長も5位圏内でしょ?」
「いえ、俺は真面目に授業出ないとギリギリなので。隊長と57点差ですし」
「よ、よく覚えてるね……」
「次回の為にちゃんと点差を覚えておこうかと」
彼お得意のアルカイックスマイルを前に何も言えない。そのまま僕を置いて校舎へと入って行ってしまった。続いて一人、二人と校舎へと消えて行き、残りは僕しかいない。
ぽつんと下足箱の前で立っていると、まるで自分がいじめられているかのような惨めな感覚に襲われる。他の親衛隊がいてもおかしくないのに、免除があるからと授業をサボる生徒は会長しかいないからだ。他の役員もたまになら休むこともあるらしいが、ちゃんと前もって親衛隊に連絡を寄越すのだと聞いた。生徒会と並んで親衛隊の数が多い風紀なんかは出迎えや出待ち自体を禁止している。
「……学生生活、つまんな」
体裁を整えて優秀な成績を修め組織の下から慕われる人間になっても、結局僕は一人ぼっちだ。友達の一人もできない。
親衛隊というのは大きな組織ではあるが、一度トップに立ってしまえばあとは下との繋がりしかない。横に並び立つ人なんていないのだ。ならば他の親衛隊と友好的な関係を築ければいいと思うが、親衛隊同士は不可侵が基本。こちらがそのつもりでも向こうに仲良くする気があるとは限らない。
こんな仕事、誰からも感謝をされないし、正直損な役回りでしかない。投げ出してしまいたいのに、引き継ぎもせずに放り出すほど無責任にもなれなくて今に至る。
「せめて副隊長がもう少し意欲的だったらな……」
そろそろ授業出ないとまずいんで行きます、と言った彼は結構僕に近いか、僕よりも怖い性格をしているように思う。しかも僕よりもっと上手く猫を被って立ち回るのだ。お陰で僕が作成した引き継ぎマニュアルは何回途中データを破棄されたのかわからない。
どれだけ待っていても会長が来ない日はザラだ。多分今日もそうだろう。だが、どうせ来ないからと高を括って何度か出迎えをサボっていたら狙ったように登校してくるわ呼び出されて嫌味を言われるわで散々な目に遭った。
結局、この日も無意味に一日中突っ立って終わった。
──
この世に運命とか神とかそういうのが存在するとしたら、マジで余計なことしかしない。
「ぎゃあああああッッ!!??」
「おい待て! 違う誤解だ! 止まれッ!」
背後から男の怒鳴り声が聞こえるが、止まるわけがなかった。思わずちらりと振り返ったが、鬼の形相で追いかけて来る全裸の男が見える。
全裸なのである。いや、かろうじてシーツを手に持って何故か靴は履いているから全裸では無いものの、変態みは増している。誤解なんてする余地もなかった。
完全な不審者だ、変質者だ、露出狂の変態だ!
「たっ、たす、助けてー!!」
しかも何で追いかけて来るんだよ。露出が目的なら僕の視界を汚して叫ばれた時点で逃げろよ。露出の心理ってそういうのじゃないのかよ。知らないけど!
背後から「叫ぶなやめろ人を呼ぶな!」と声が聞こえたが、当然やめるわけがなかった。だが走りながら叫ぶのも苦しくて、自然と黙ってしまう。
俺はいつも通り早起きしてジョギングに出掛けただけだ。だというのに、そこで露出狂の変態に出くわしてしまった。何でだよ。この学園のセキュリティどうなってんだ。
もしかしたら内部犯……というか十中八九同じ生徒や教師の誰かだが、あの格好で追いかけて来る奴を同じ学校の人間と見做したくない。生徒でもやばいが教師でもやばいだろ。
「ちくしょ、どこか隠れ……っ、あ、あそこなら……!」
毎日のジョギングの成果か持久力なら自信があるから何とか逃げられている。だが、距離は確実に縮まっていた。追いつかれるのは時間の問題だ。
何度目かわからない小回りを利かせて相手の視界から消えるのを繰り返し、一度は完全に巻いたのを確認して逃げた先の扉を開けた。
「はっ……はぁ……っ、はあー……」
急いで身を滑り込ませ、扉を閉めて呼吸を整える。日光は遮られおらず風のあまり通らないこの空間は少々暑いが、そんなことを気にする暇がなかった。じわりと流れてくる汗を拭う。
この屋内庭園は生徒会に代々受け継がれているもので、誰もが入れる場所ではない。通称、秘密の園。夢のある通称のわりに実態はヤり場である。
人工とはいえ自然豊かな……明け透けに言えば青姦気分で楽しみたいという変態が戯れに作ったものだと聞いた。もちろんそんな特殊性癖を持つ人間が何人もいるはずがなく、その次の代からお役御免となったらしいが。
受け継がれて持ち主となった会長が興味を示さないので、親衛隊が管理することが通例となっている。カードキーで管理されているここを開けられるのは、生徒会長とその親衛隊隊長である僕の電子生徒手帳だけだ。
「ああ、くそッ、何でここ内側から鍵掛からないんだよ!」
外側から鍵は掛けられるくせに内側に鍵が付いてなかった。万一追いつかれても立て籠れば問題ないと思っていたが甘かったかもしれない。外からの開錠は他ならぬ僕がやってしまったから、あとは把手を握るだけで開いてしまう。
一度は完全に撒いたし、もしかしたら普段締め切られている屋内庭園までは追いかけて来ないのでは?
そんな一縷の望みを抱いている間に外に人影が見えた。
「来るのが早い……! ど、どうしよう……っ」
慌てて周囲を見渡し、視界に入ったロッカーに身を滑り込ませる。ロッカーの扉を閉めるのと出入り口の扉が開いたのはほとんど同時のことだった。
「……ふーっ、ふー……ッ」
なるべく息を殺しながら呼吸を整える。少し広いがやはり手狭なロッカーの中ではその呼吸音だけが嫌に響いて感じた。
畜生、どうしてこんな目に。
ロッカーの中には鋤やら鍬やら、武器にするには少しばかり物騒なものが乱雑に詰め込まれている。
一応、念のため。これなら脅しに使えるし万一当てても鋤や鍬ほど血は出ないはず。そう思い、護身用に片手で持てるスコップの柄を握り締めた。
「おい」
「ッ!」
呼吸を止める。外からの声は止まらない。
「そこにいるのはわかってんだよ、さっさと出てこい」
どうしよう、どうすんの? どうすればいい?
そっと光の差し込む穴から外の様子を覗いて見たら、男は俺の居るロッカーを見据えていた。別のロッカーと勘違いか思い込みをしている希望は完全に途絶えてしまったのだ。
決心がつかずロッカーに立て篭りを続行する僕に痺れを切らしたのか、鋭い舌打ちが聞こえた。こちらに歩み寄って来るのが見える。……どうでもいいけど前くらい隠せよ、その手に持ってるシーツでよ。何で全裸の分際でそんな堂々としてんだよ。ダビデ像でも気取ってんのか。
混乱で現実逃避しつつある思考を慌てて巡らせながら、どうすればこの男の歩みが止まるか言葉を考える。
「来るな! ぼ、僕が誰かわかってる…!?」
全裸の男。人気なし。それが追いかけて来る。
嫌な話だが、この男の目的が何か想像がついてしまうのだ。おそらく性的な加害が目的。追いかけて来たのは出会いが偶発的なものではなく僕を狙ったということだろう。
そして、この学園における大半の『どうしてこんな目に遭うのか』という疑問は制裁の一言で片がつく。どこの誰が背後で手を引いているのか想像がつかないが、少なくともこの男は僕が親衛隊に所属していると知らないのではないだろうか。
誰かの親衛隊だとわかっていて手を出してはならない。そんな暗黙の了解、不可侵の取り決め。具体的な罰則は設けられておらず、規律を破ったところで親衛隊同士の諍いは起きない。だが、その実この学園で最もやってはいけないタブーの扱いなのだ。
隊員とわかった上で加害に及ぶのは、すなわちその親衛隊の崇拝対象に喧嘩を売ることと言い換えられるのだから。
「ぼ、僕は会長の親衛隊だ。だから早くどこかに行っ」
「はあ?」
「ひえっ」
僕の慌てた声に被せて随分と大きな声で凄んできた。男が一歩ずつじりじりとロッカーに近づく。何も言えないままでいる間に扉を強く蹴り上げられた。
「ひっ……」
「てめえこそ俺が誰だかわかってんのかよ」
どうやら会話の選択肢を間違えたらしい。この男が誰なのか知らないし興味もないしどうでもいい。だが、どこか男の怒りに触れる部分があったようだった。外から激しく蹴られている。
「や、やめ……ぎゃああッ!」
もはや扉を開けようにも蹴るのをやめてくれないと開けられない。バランスを崩して背中と後頭部を強く打った拍子に、立て掛けてあった園芸用具がばらばらと僕を襲って来た。幸い鍬や鋤といった殺傷力の高いものからは難を逃れたが、金属製のじょうろが僕の額を強かに打ち付けた。
悲鳴と中で起きた大きな音を聞いて驚いたのか、やっとロッカーの振動が止まった。その隙に思い切り扉を押して外に転がり出る。
「い、いってえ……」
しまった思わず素が出た。それくらい痛かった。慌ててぶつけた額を抑えたら血が付いている。多分皮膚を切っただけだから、大丈夫そうではあるけど。
だが、それを見て僕の中で何かがブチッと音を立てた。多分、堪忍袋的なものだと思う。
「お、おいお前……」
「ふっっっざ、け、ん、な、よこのクソ野郎!!」
「うおッ!?」
手に持っていたスコップを振り翳したが避けられた。ザク!と音を立てて地面に突き刺さる。
「僕が何したって言うんだよ!」
限界集落のルールを教わらないまま話しかけただけで制裁とかいうクソ制度で新品の制服ごとずぶ濡れにされて、努力して這い上がって安定した基盤を作り上げたつもりでいたのにそれも体のいい面倒ごとを押し付けられただけの役。挙句、結局こういう目に遭う。いざというとき会長の親衛隊という立場は何の効力も発揮しないし、これなら何の為に親衛隊なんてものに入ったのかわからない。畜生、もう知るか。隊長職なんて辞めてやる。
思わず悔し涙が流れる。キッときつく睨み付けると、僕の気迫に圧されたのか男がたじろいだ。その頬や耳が俄かに赤い気がしたが、そんなことに気づく余裕なんてなかった。
「な、泣くことないだろう……」
「泣くわ! 何で朝から全裸不審者に追いかけ回されなきゃならないんだ!」
「ちが……ッ、全裸じゃないし、俺は不審者では……」
「ああそうだな露出趣味の変態だろ! 叫び声上げられた時点で何で逃げねえんだよ追いかけてくんなバカ!」
スコップが地面に突き刺さって抜けないから代わりに手近にあった物を投げつける。空の植木鉢が派手な音を立てて割れた。
「うわッ、おい! その鉢いくらすると思ってんだ!」
「知らない! お前に関係ない! どうせここには僕以外来ない!」
ここは普段鍵が掛かっている屋内庭園で、持ち主に捨てられた秘密の場所で──僕の城だ。
プランターに植えられた鮮やかな花も、雑草ひとつない花壇も、剪定された植木も全部、全部僕が作り上げたものだ。先代の生徒会長もその親衛隊も、誰も人が寄り付かずに荒れ果てていた場所。ここをどんなものにしたいか想像して、世話をして今の形にした。僕だけの安寧の土地。この場所に嫌な感情を持ち込みたくなかった。嫌な思い出を作ってしまいたくなかった。
ここに逃げ込まなければよかった。そうすれば、ここはまだ僕だけの場所でいられたのに。
座り込んでえぐえぐと泣き出す僕をどう思ったのか、男はしおらしい態度で僕の隣に腰を下ろした。
「泣かないでくれ。その顔見てると、なんか妙な気を起こしそうになる」
「ぐすっ……近寄んな」
「悪い、怖がらせたいわけじゃなかったんだ」
「そんなの信じられるか……ッ」
「普通、こんな格好で外に居たら何か事情があったと思わないか」
「あっても僕に関係ない」
「…………偶然見かけて、服を取って来てもらいたくて声を掛けた」
「……はあ?」
即答で拒否する僕を懐柔するのは難しいと判断したのか、男は勝手に喋り出す。
「朝方までセ……何度か寝泊りしたことのある知り合いの部屋で寝ていたんだが、そいつの男が急に遊びに来るからと慌てて部屋を追い出されてな」
「……ああ、そういうこと。全裸で仲良くするタイプの知り合いにね。彼氏持ちのセフレと寝て修羅場って追い出されたのか?」
「誤魔化したことを明け透けに言い換えてくるな……向こうも納得しての関係だ、男のほうはどうだか知らないがな。……もう玄関まで来ていたから一悶着起きる前に窓から追い出されて、カードキーもスマホも部屋に置き去りだから本当に困っていたんだ」
「最低。そんな事情僕が知るかよ」
僕を追ったときの鬼の形相は、切羽詰まった男の顔であったらしい。事情がわかれば間抜けな話だ。驚きすぎて涙も引っ込んだ。額を抑えていた手で目尻を拭うと、頬にざりざりとした感触がした。多分乾いた血だろう。表面を切っただけの傷は浅く、ちゃんと抑えていたから止まったようだ。
ぼろぼろと擦れば剥がれるカサブタのような薄い血の塊を茫然と眺めていると、男がおもむろに口を開いた。どこか緊張した声色で、硬い。
「……傷物にした責任が必要だと思わないか」
「なに、慰謝料か治療費くれるってこと? いいよそういうの。この閉鎖空間じゃ後腐れありそうだし」
「そういうことではなくて」
そっと手を握られる。
「え、なにキモいんだけど」
僕の言葉に一瞬石化したように身体の動きを止めたが、めげずに握り込んだ手が温かな手のひらに包まれた。そのまま力が込められる。
「お前は知ってるはずだ、俺が誰だかわからないのか?」
「知らない」
「お前、さっき自分で会長の親衛隊だと言ったよな」
それとこれに何の関係がある。僕が顔と名前まで知ってるのなんてせいぜい副隊長くらいだし、それくらい普段人との関わりが希薄なのだ。それを指摘された気分になり、羞恥心が首を擡げた。怒りからか打ってもいないこめかみが痛む。
怒りは良くない感情だ。理性が感情に引っ張られて、正解がわからなくなる。悪手を打つ。先ほども不味かった。もっと理性的に、無感情にならないと。
そうじゃないと、また僕はずっと一人ぼっちのまま。
「どこまでも自分には関係ないって顔をするんだな」
「関係ないし、どうでもいい。本当の僕を知ってるやつなんてどこにもいない」
「じゃあ、俺がお前を見つけてやるよ」
戯言だ。そう思うのに、言われた瞬間、先ほどのように即答で拒否できなかった。
猫を被って媚を売る僕ではなく本当の僕を知る人がいたら、その人と仲良くなれたら、多分それはきっと楽しい生活になるだろう。そんな望みを僕はまだ捨てきれないでいるから。
やや間を置いて、本心とは真逆の憎まれ口を叩いた。
「無茶言う。この典型的マンモス校で生徒一人一人顔確認して回る気?」
「相手がお前で、俺だからできる方法で探すんだよ。そうすりゃお前も俺が誰だかわかるしな」
自身ありげな表情が腹立たしい。せめてもの抵抗で「どうでもいいけど、僕まだあんたのこと助けるって決めたわけじゃないから」と宣言すると、自分の格好を思い出したらしい男の表情が固まった。
そうやって僕が服を持って来てやるまではちゃんと下手に出てろよ。
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