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黙り込んだ吉川を見て、榊はつらそうな顔をした。
「……電車、遅いな」
榊の声をきっかけに、吉川は過去を見ていた視線を彼に向けた。
「遅いね。どこかで止まったのかな」
「…………あのさ、吉川」
「何?」
「あの、こんなときに言うべきじゃないと思うけど、付き合ってください」
「……え? 今?」
伏せていた目線を上げると、そこには恥ずかしそうに下を向き、だが真摯な声色で小さく話す榊の姿があった。
「異動がきっかけで疎遠になるなんて嫌だ。高校から十年近く一緒だったから、今さら離れるなんて……俺、どうしようもなく変な男だし、頼りないかもしれないけど……でも、俺はずっと、吉川の隣にいたい……だめかな? 正式に付き合ってほしいです」
「榊……」
「全部吉川のペースに合わせるから……仕事が忙しいなら電話とかメールとか返事しなくていいし、ふたりで会う日数を減らしたっていいから……だから……」
「でも私、できないよ」
「いいよ。吉川がいれば」
「本当に? 榊はそれで満足できるの?」
無理やり口の端を引き上げて、吉川は苦く笑う。周りには電車を待つ他人が大勢いるので、あまり露骨な表現はできない。
ただでさえ短髪でスーツ姿の女と、長髪でスカートを履いた男が近しい距離間で話しているのだから。
榊もそれを察したようで、一瞬頬を染めたが、すぐに真顔に戻って触れるか触れないかの距離でそっと指を絡める。吐き気がした。
どうして好きなのに、肉欲を感じると嫌悪感を抱いてしまうのだろう。
調べていくうちにアセクシャルという性自認を知り、吉川が納得したのは、つい最近の話だ。
アセクシャル。無性愛者。他者に恋愛感情や性的欲求を抱かない者。
思えば榊だけではなく、過去に好きだと思っていた男に対する好きは、一般的な好きと大きくかけ離れていた。世間ではなく、吉川がマイノリティーだったのだ。
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