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小さな指先が、淡黄色の花びらに触れる。
「お姉ちゃん、この花って〝弟切草〟っていうんだよ!知ってる?」
その愛らしい微笑を見ると、虫唾が走る。
その笑顔には裏があるんじゃないの?
お父さんとお母さんにいい顔ばっか見せて、本当のあんたを私は知っているんだから。
私はあんたが嫌い。憎い。
あんたなんか生まれなきゃ良かった。
誰からも愛される。
あんたが生まれる前は、両親の愛を独り占め出来ていたのに……あんたが私から2人の愛を奪ったんだ。
妹は弟切草を一輪むしり取って、高らかに不気味な笑い声を上げる。その顔は〝あやめ〟に似ている。
そう、あの子。私の小学校の頃の友達だ。
遠い遠い夏の記憶。
私はあやめと夏の植物の観察の為、日誌と筆記用具をぶら下げて学校の裏山に来ていた。草木を踏みながら、蝉の声を背に受け、熱い日差しが体を焦がした。額から流れ落ちる汗を拭う。
一歩前を歩くあやめは夏生まれなのか、全然汗をかかない。暑い日差しを心地よく浴びて、涼しげな顔色を覗かせる。不思議な子だ。
その美しい出立ちに見惚れている内に、私は足を滑らせて転んでしまった。運が悪く、尖った木の枝で足を切ってしまった。
「いった!」
「大丈夫?由紀ちゃん」
彼女の細い指先が、私の傷口を抑える。その指から溢れ出す液体。彼女の指がだんだんと、茜色に染まっていく。なぜか、すごく怖くなった。
「だ、大丈夫だよ!あやめちゃん!」
「ちょっと、待っててね!」
彼女は立ち上がり、当たりを見渡しながら木々の中へ入り込んで行った。
何だろう?
私は傷跡を手のひらで抑えながら、彼女が来るのを待っていた。
しばらくして彼女は、淡黄色の小花を片手に持って帰ってきた。それでも汗を一滴も流さず、涼しげな顔をしている。私の前に差し出した可愛らしい黄色のお花。
「弟切草って言うんだよ。この花は昔、治療薬として使われてたの。だから、きっと、切り傷に効くはずだよ!」
彼女はそう言うと、その花を口に含んで噛み砕いた。黄色い液体が、口元からダラダラ溢れ出す。それを自らの手のひらに移すと、その塊を私の足傷に押し当てた。
あやめの唇から流れ落ちる黄色い水滴。それは私の足元に黄色の斑点を付けていく。その美しい光景に目を奪われていると、自然と痛みは消え去っていた。
「あ、ありがとう。あやめちゃん」
「良かった。由紀ちゃん」
彼女は手の甲でその汁を拭う。その後、彼女が話してくれた伝説は、今でも脳裏にこびり付いている恐ろしい記憶だ。
〝弟切草の伝説〟
「この弟切草は、昔、秘密の薬草だったんだって。ある鷹匠が鷹の治療にも使っていて、何の草で治療薬を作っていたのか秘密にしていたの。でも、この鷹匠の弟が恋に落ちた女性に、弟切草で作った事を話しちゃったんだって。その秘密を漏らした弟を、兄が斬り殺したから〝弟切草〟っていう名前になったらしいよ。そんな伝説があるんだって」
兄が弟を斬り殺したから〝弟切草〟。
強い印象が残る暑い夏の日。
私たちは観察を終え、近くの駄菓子屋さんでお菓子を買って別れた。
それから半年後。
あやめは突然、亡くなった。
理由は分からない。
そして、それと同時にお母さんのお腹に宿った新しい生命。
それが、目の前にいる〝あやか〟だ。
妹が出来た事はすごく、すごく、嬉しかった。でも、生まれた途端にその可愛らしい容姿からか、両親はあやかを溺愛した。そして、彼女はそれを独り占めしたんだ。
私よりも先に泣いて両親の気を引く。
わざと泣いて私のせいにする。すぐに。
そして、私だけ怒られて泣かなきゃいけない。
裏では薄気味悪く笑ってるくせに。
そういう腹黒いところが大嫌い。
「私が憎い?由紀ちゃん」
「え?」
目の前で弟切草を握り潰す妹から、なぜか、あやめの声が響いてくる。小さい体からは何やら、凄まじい、悍ましい何かを感じる。
小さな手のひらから流れ出る黄色い液体。
その美しさが、あの日のあやめの妖艶さと重なり合う。
「あ、あやめ?」
「そうよ。由紀ちゃん、私よ。あやめ」
「ど、どういう事?」
手のひらから漏れ出す水滴を、あやめは口元に持っていき、舌を出して舐める。喉がゴクリ、と音を立てると、またあやめは口を開く。
「あんたが憎かったのよ。幸せそうな家族で」
「あ、あやめだって、素敵なお兄ちゃんがいるっていつも自慢してたじゃない?」
「確かに素敵なお兄ちゃんだったわ。あの日までは」
「あの日?」
「あの日よ、あんたに弟切草の治療をしたあの日!あの後、駄菓子屋に行った事、覚えてる?」
確か、あの日はあの後、2人で駄菓子屋に行って……何を買ったんだっけ?
「何を買ったか覚えてないのね?」
「だって、あれから何年も経ってるから覚えてないよ!」
「私はチロルチョコが欲しかったのに、最後の一個をあんたが買ったのよ。別にいいじゃん!って笑いながら」
「え?チロルチョコ?それがどうして?」
あやめは唇を噛みしめ、その淡黄色の花びらをむしり取って、また憎しみの眼差しを向けながら、ニヤリとする。
「チロルチョコを買って来いって、お兄ちゃんに言われていたのよ。でも、買って来れなかった事で、私はお兄ちゃんにいじめられる様になったの。あの日から、毎日、毎日……」
いじめられた?
チロルチョコ一個の事で?
「あんたは普通に友達のフリをしていたけど、私は傷だらけの体で毎日、あなたを憎んだ」
「憎んで、憎んで、憎んで……」
あやめは花びらを、次から次へむしり取っては、その場へ放り投げていく。
黄色い雪の花が、たくさん舞い踊る。
「ご、ごめんなさい。そんな事になるって知らなくて……」
「由紀ちゃん。もう今更、謝罪なんていらないわ。私はその後、お兄ちゃんにナイフで刺されて殺されたわ。両親はお兄ちゃんが未成年だった事もあるし、私よりも可愛かったからかな。事故だって処理をしたわ」
お兄ちゃんに、殺されたの?
だから、死んだ理由は分からなかったんだ。
そんな、そんな悲しい出来事があったなんて。
〝弟切草の伝説〟が頭をよぎる。
「私はあんたを憎んだまま死んだ。それで、あなたのお母さんのお腹に宿ったの。生まれ変わりってやつね」
「だ、だから、私に復讐を?」
「そうよ?苦しかった?両親の愛を独り占めして悔しかった?」
「悔しかったわよ……両親なんて私に見向きなんてしなくなったんだもん……」
私の目から、涙がじわり、と滲み出る。
「いい気味だわ。さぁ、最後の仕上げよ」
あやめは、弟切草の花びらを足で踏み潰すと、ポケットからカッターナイフを出す。
ジリジリと刃先を滑り出すと、その矢先は私に勢いよく向けられる。
目を閉じると、瞼の裏に描かれるのは赤い一直線のライン。
体に感じる衝撃と衝動。
襲撃と脈動。
あぁ、思い出した。
あやめが私の足に落とした斑点と、あの日の言葉。
「ねぇ、見て。弟切草の葉に黒い斑点があるでしょう?これは、兄が弟を斬り殺した時についた返り血なんだって」
きっと、近くに咲き乱れている弟切草にも、私の血の斑点が付着しているだろう。
斬り刻まれる音が脳裏に響き渡る。
これは、
妹が姉を斬り殺した
新たな〝弟切草の伝説〟の物語。
完
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