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プロローグ カモミールの遠音
(この『花畑』だけは昔と変わらない……)
十二年ぶりに訪れた『花畑』。傍目から見れば、地方の住宅地の裏手に並ぶ畑、その一角に雑草が繁茂しているだけの土地。
しかし、慈乃にとっては、幼少期に親しんだ草花が咲き誇る花畑そのものである。なにより、そこは彼女にとっての幸せだった日常の象徴であり、今は亡き父母との数少ない思い出を想起させる特別な場所である。
閑静な住宅街に子どもの声が響き渡る。
声につられてそちらを振り向けば、古いアパートの一室が目に留まった。その部屋から、子どもの無邪気な笑い声、その母親らしき若い女性の優しげな声、そして父親らしき若い男性の楽しげな声が微かに聞こえてきた。
今は知らない一家が過ごしているそこは、かつて慈乃たち一家が住んでいた場所であった。
(幸せそう……)
ぼんやりと、そんなことを思った。
春先の午後終わりの柔らかな風が、懐かしい思い出を運んでくる。
ちょうど今日のような日に、まだ小学生にもなっていない慈乃は、父と母と一緒にこの場所でよくピクニックをした。
ある日の昼下がりには、花畑の片隅に花の種を蒔いた。母は花が大好きな人であり、その花は特に気に入っていたのが印象に残っている。花の名前を尋ねたら、カモミールというのだと優しく笑って教えてくれた。
その後、母はカモミールに何かを語りかけているようだった。
何を言っているのかはよくわからなかったが、母は普段から花に話しかけるような不思議なところがあったし、外国人らしかったから母国語で生長を願っていたのだと思う。
(そういえば、あの辺りに、蒔いたのだっけ)
思い出に誘発されて、かつてカモミールの種を蒔いた辺りに視線を滑らせる。
そこには、慈乃たちが蒔いた種が成長し、こぼれ種から殖え続けたのであろう、この季節にしてはまだ早く、僅かに花を咲かせたカモミールが群生していた。
純白の可憐な花びらを、春風が優しく揺らす。
(花だけは、いつ見ても、きれいね……)
慈乃の腰上まである長い髪は、もともと猫柳色をしているのだが、夕陽に照らされるとそれは、ともすれば、美しいブロンドにも見える。
今もまた、慈乃の髪はブロンドに染め上げられていた。
夕暮れが迫る。
その情景と、カモミールとが相まって、さらに記憶を思い起こさせる。
名残惜しくも日が沈み始めたのでピクニックはお開きになり、アパートに戻ることになった。
ピクニックの余韻をそのままに、幼い慈乃は左手を握る父に「きょうのおはなはいつさくの?」とわくわくしながら訊いた。すると、父も慈乃に笑い返しながら、「春にはきっときれいな花を咲かせるよ」と答えてくれた。その言葉を受けて、今度は右手を握る母に笑いかける。
「たのしみだね」
しかし、母は悲しく微笑むだけだった。
そのときは、何故母がそんな顔をするのかわからなかった。
だが、やがて、そのわけを嫌でも直感してしまう。
母はもともと虚弱体質だったのだが、日を経るにつれ、目に見えて弱ってきたのだ。
母はすでに自らの命が長くはないことを悟っていたのだろう。ようやく暖かくなった頃には、母が外に出られる日はほとんどなくなっていた。
苦労している父母を見て、慈乃にどうして花を見に行きたいなどと言えただろうか。幼子の足では花畑までは遠く、とうとうカモミールの花までを見ることは叶わなかった。
気づけば暑い夏が終わろうとしていた。
父は方々に手を尽くしたらしい。
しかし、どの医師に見せても原因はわからないといわれたという。もしかしたらという僅かな望みにかけることもあったというが、結局は無情にも徒労に終わってしまった。
そうして不安な秋が過ぎていった。
為す術もなく、当人たっての希望で、母は自宅のアパートで最期を迎えることになった。
その日は雪が降りそうなくらい冷え込んでいた。
部屋の中は温かかったのに、いや、温かかったからこそ、母の冷え切った手の温度が強烈に印象に残っている。
十二年経った今、母との思い出はもう数えられる程度しか思い出せないが、この時の母の姿は、言葉は、この先もずっと忘れられないだろう。
「ごめんね、ごめんね、慈乃」
声を出すのも辛いはずなのに、母は何かに対して慈乃に謝り続けた。
謝られるようなことはされていないのに、苦しげに謝る母に、慈乃は純粋に疑問に思って訊いたことがある。
「おかあさん、なんで慈乃にごめんなさいするの?」
「慈乃にはお母さんが背負うはずだったものを背負わせてしまうことになるかもしれないから。それなのにそのときには側にいてあげられないから。だから、ごめんね」
母は涙を堪えるように一度深呼吸してから、慈乃の手を強く握りなおした。そして、横たわったまま、まっすぐに母と同じ猫柳色をたたえる慈乃の瞳を見つめた。
「慈乃、これからお母さんがいうことは絶対に忘れないでね」
「うん、わかった」
慈乃の返事を聞いて、微かに表情を緩めると、母は続けた。
「もし、この世界に居場所を見出せなくなって、苦しくなったときは、カモミールにお願いしてね。私の代わりにきっと助けてくれるから」
「?」
母の言葉は、当時の慈乃には難しかった。首を傾げる慈乃を見て、母は言った。
「いずれ、この言葉の意味が分かってしまう時が来るかもしれない。そのときに、思い出してくれればいいわ」
続けられたその言葉は、まるでそんな日が来なければいいと言っているようにも聞こえた。
「それから、もうひとつ」
今度はふわりと花のほころぶように笑って。
ひとつひとつの言葉に想いをのせるように。
「あなたをずっと愛しているわ、慈乃」
母の声を聞いたのは、その日が最後となった。
母の死後、変わったことは三つある。
ひとつは、以前のアパートよりも安いアパートに移り住んだことだ。
子どもの足では遠かった花畑はさらに遠くなり、以来花畑に行くことはなくなり、終ぞ開花したカモミールを見ることはなかった。
もうひとつは、父が以前にも増して、仕事に勤しむようになったことだ。
母の治療費を返済しながら、男手ひとつで慈乃を育ててくれた。
父は実家とは縁を切り、縁者のいない母と結婚したために、他に頼る人もおらず、苦労も多かっただろう。
しかしながら、慈乃には変わらず優しく、慈しみをもって接してくれた。
さらにもうひとつは、よくわからない何かの声を聞くようになったことだ。
おそらく、母恋しさ故の見えないお友達というものだろう。
最初は母の小さな仏壇に彼女の好きだったカモミールを供えていた時。
そのことを父に話したら、
「カミユ、お母さんも不思議な人だった。よく花に話しかけていたし、もしかしたら本当におしゃべりができていたのかもしれないね」
と穏やかに語った。
ふと、カモミールの種を蒔いた日のことが思い起こされる。そういえばそんな素振りがあったような気がする。
「慈乃はますますお母さんにそっくりになっていくね」
そう優しく言って、色素の薄い母譲りの猫柳色の髪をそっと撫でた。
小学校では花壇の前でよく声を聞いた。
花壇の前で突然立ち止まり、何か話す慈乃を周りは気味悪がったり、からかったりした。
そのストレスからか、あるいはこれも母譲りなのからか、保健室で過ごすことも珍しくなかった。
そんな経緯もあって、慈乃は完全に孤立してしまった。
成長するにしたがって、声は聞こえなくなり、身体も丈夫になったものの、母を亡くして以来大人しくなった性格は輪をかけて消極的なものになり、人とのかかわりを恐く感じるようになった。
中学校に上がってからも、それは変わらなかった。
それでも慈乃が壊れずにいられたのは、父だけは決して慈乃を否定することがなかったからだと思う。
「お父さんもお母さんも、慈乃のことが大事だし、大好きだよ」
まるで歌うように、父はよく慈乃に言い聞かせた。
しかし、四年前の父の過労死をきっかけに、慈乃のなかの何かが音を立てて崩れた。
(私を生まなければお母さんが死ぬことはなかったかもしれない!)
(そうすればお父さんだって元気だったかもしれない!)
(それなのに私なんかがのうのうと生きているなんて、耐えられない……!)
(私に生きる価値なんてないのに……‼)
父が亡くなったと聞かされた日、父の遺骸に縋って、独り激しくむせび泣いた。
自分自身に対する呪いたくなるような憤りも情けなさも罪深さも、両親に対するどうしようもない恋しさも悲しさも、全てを吐き出すような涙は、一夜にして慈乃を変えてしまった。
その出来事を境に、慈乃が泣くことはなくなった。そして、笑うことも。
もとより表情の変化に乏しいところはあったが、いっそう無表情でいることがほとんどになった。
父の死後は、仕方なしにと叔父一家が面倒をみてくれることになった。
父と縁を切ってから久しい叔父は慈乃のこともまた快く思っていなかった。その妻にしても慈乃を歓迎していないことは明白だったし、慈乃より二つ年上の息子も慈乃の存在を面白く思っていないようだった。
手をあげられることはなかったが、慈乃を取り巻く一家の空気はいつも居心地の悪いものだった。
高校には通わせてもらえたが、より肩身が狭くなったように感じた。
慈乃は将来のことを考え、図書室で勉強したり、バイトをしたり、家で過ごす時間を最小限にするように努めた。
(仕方ないわ。こんな厄介者、家を提供してくれるだけ、感謝しなければ……)
そんな生活もつい先日、終わりを迎えた。
慈乃の大学進学を期に、叔父一家のもとを離れることにしたからだ。
皮肉にも、時間つぶしに勉強をしていたことで成績の良かった慈乃は、奨学生として大学に通えることになった。図らずも、その大学は慈乃が幼少期を過ごした土地に程近いところにあった。
(たとえ勉強だけできたとして、それがなんだっていうの……。やりたいことも生きる目標もなくて、その上『自分』だって何もないのに……)
鬱々とした気持ちと、少ない荷物を抱えて新居となるアパートへやってきたのが昨日のこと。
今日の午後に片付けが一段落したために、この花畑へとやってきたのだ。
春の薫りをのせた、やや冷たい風が吹き抜ける。
ふと意識が現実に引き戻された。
空は橙色を遠く押しやり、群青色を連れてくる。
暮れなずむ空を仰ぎ見ながら、まるで今の自分のようだと心の中で自嘲する。
思い出に浸ったところで、いまさら何の意味もない。
(やっぱり、カモミールは苦手……)
幸せな思い出以上に辛い記憶を連れてくるから。
弱くて空虚な自分を見せつけられるから。
もしも。
もしも、父や母が今でも生きていたら、何かが違っただろうか。
もしも、私がもっと違う生き方をできていれば、何かが変わっただろうか。
過ぎた時間は変えられず、考えても詮無いことだとわかっていても、そんな自問を止められない。感傷の渦から抜け出せない。
どこかへ置いてきてしまったと思っていた感情がこんなにも激しく揺さぶられるのは。
……願って、しまうのは。
目に映るカモミールが、特別なカモミールだからだろうか。
カモミールにそっと右手を伸ばし、触れる。
すると、自分でも不思議なくらい自然に思いが溢れてきた。
戻りたい。優しい時間に。
会いたい。愛しい父と母に。
見出したかった。自分の居場所を、存在意義を。
(どこに行っても私は、私の居場所を作れない。いてもいなくても変わらない。それならいっそ、二人のもとに行きたいよ……!)
胸の痛みを堪えるように俯き、うずくまる。カモミールに触れた右手は力なく地面に落ちた。左手は胸元で、右手は地面で、固く拳を握りしめる。
それなのに、涙の一滴も流れないことが、慈乃をより惨めな気持ちにさせた。
『……シノ。シノ、きこえる?』
木々の葉擦れのような、小川のせせらぎのような、心地よくも微かな音が慈乃の耳に届いた。
(お、と……? 違う。この、声、は……)
「だ、れ……?」
この声を私は遠い昔に知っている。
そう。見えないお友達。
でも、正体は知らない。
『よかった!』『もうきこえないかとおもった』『カミユかとおもった』『そっくりだ!』
さわさわといくつもの声が聴こえる。
『ぼくたちジャーマン・カモミール』『わたしたちカミツレ』
正体は知らない、否、怖くて知ろうとしなかった。
知ってしまったら、もう戻れない気がして。人では、いられなくなるような気がして。
(でも、今なら、怖くない)
戻れないからなんだというのだろう。人でいられなくなるからなんだというのだろう。
これ以上に何を失い、恐れることがあるのだろう。
『あのね、ぼくたちカミユにおねがいされたの』
「お願い……? お母さんが……?」
カモミールがしゃべっているという不可思議な現象に驚くよりも、母の名前を出されたことに興味を惹かれた。
カモミールの言葉から、母の最期が思い出される。
『もし、この世界に居場所を見出せなくなって、苦しくなったときは、カモミールにお願いしてね。私の代わりにきっと助けてくれるから』
『いずれ、この言葉の意味が分かってしまう時が来るかもしれない。そのときに、思い出してくれればいいわ』
母はこうなることを知っていたのだろうか。
今になってはもう、確かめることすら叶わないけれど……。
『シノ、なけないくらいにきずついてるの』『ほんとうはわたしたちがかかわらないほうがシノのためだとおもったけど』『シノがきずついていくのをこれいじょうはみていられないよ』
『シノがうまれてからみてたよ』『こえがとどかなくなっても』『ずっとずっと』『だからしんぱい』『だからしあわせになってほしい』
『いまならシノをたすけてあげられる』
声が波のさざめきのように遠くなる。
『ぼくたちがそばにいるから』『シノのいばしょはきっとあるから』
視界がかすみ、夢の世界へ誘われる。
『だから』『おいで。こちらのせかいへ—……』
その音色は、まるで優しい子守唄。
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