第二話 学び家へようこそ

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第二話 学び家へようこそ

「そういうわけだから、これからよろしくお願いするよ」 「よ、よろしく、お願いします」  学び家の玄関、その隣に位置する応接室では、定例の職員朝会が行われていた。  あまり広くはない部屋に全五名の職員と慈乃(しの)が揃うと、院長のミトドリが慈乃の紹介をしたのだった。  昨日直接話を聞いたウタセはにこにこしながら拍手をし、大体察しがついていたのであろうニアも「一緒に頑張っていこう」と歓迎の意を示している。  名前だけは話に上がっていたものの、今日初めて会ったスギナとツクシの姿もそこにはあった。  髪色は根元が濃く、毛先が淡い黄土色の美しいグラデーションで、瞳は鮮やかな若草色。その容貌は、彼らがスギナとツクシの花守であることを如実に表しているかのように思えた。 さすがに双子というだけあって、顔立ちは鏡合わせのようにそっくりで、なおかつ服も左右対称なものだから見わけもつかない。しかし、よくよく観察してみると、違いが分かってくる。  弟のスギナは、左の横髪が長く、右の横髪を編み込み、前髪は左に流し気味である。彼の纏う空気はキリッとしていて、いかにもクールそうだ。  対して、兄のツクシは、右の横髪が長く、左の横髪を編み込み、前髪は右に流し気味である。雰囲気はほわっとしていて、どことなくマイペースそうな感じだ。  ツクシはともかく、スギナからは歓迎されないのではと内心怯えていた慈乃だったが、それは杞憂に終わった。  意外にも、スギナもツクシも頭を下げて「よろしく」と言ってきた。慈乃も慌てて、頭を下げ返す。 (律儀というか、礼儀正しいというか……しっかりしてるわ)  慈乃がひとり感心していると、パンと手を叩く音がした。振り返ると、ミトドリだった。 「とまあ、ひとまず紹介はしたけれど、シノに働いてもらうのは明日からだ。今日は」 「あたしと買い物に行きましょ!」  ミトドリの話を遮って、ニアは飛び出し、慈乃の両手を握った。  慈乃は驚き、一瞬硬直してしまう。  そんな慈乃の様子にはお構いなしに、ニアはキラキラとした瞳を慈乃に向けて、続ける。 「ずっと年の近い妹みたいな子が欲しいと思ってたの!」 「ここにだって、弟妹はたくさんいるじゃねぇか……」  スギナのさりげない呟きにも、ニアは動じない。 「うーん、あの子達は弟妹っていうより息子、娘って感じ?」 「オレらもその括りに入ってそうな予感がする……」 「ボク達、ついこの間までここで世話される側だったしね~」 「まー、否定はしないわ」 「…………」 「目指せ格上げ、だね~」  ツクシがスギナの肩を叩いた。  話の区切りがついたところで、ミトドリが仕切り直す。 「では、今日も頑張ろうか」  こうして、賑やかな朝から一日が始まった。  初めて自らの足で外に出た慈乃は、思わず玄関先で立ち止まってしまった。 「ん? どうしたの」  不思議そうな顔をしたニアが、慈乃を振り返る。 「きれい……」  無意識に、言葉がこぼれる。  密集した建売り住宅や人の営みを感じる市街、アスファルトで舗装された道、ひっきりなしに走りゆく自動車。  今まで慈乃が当たり前に見ていた景色は、ここにはなかった。  代わりに眼前に広がるのは、一面の花園。慈乃が『花畑』と称していたあの耕作地など比にもならない。  ひと際目を引く黄色をたたえるセイヨウタンポポ、生命力にあふれるツクシ、目にも眩しい若草色のスギナ。春風に可憐な白色の小花を揺らすナズナ、目の覚めるような青色をしたオオイヌノフグリ、つやのある黄緑色の対生葉に今にも花開きそうなカラスノエンドウ。  少し先に目を向ければ、日の光を反射して白く輝く小川が流れ、路には土の地面がのぞいていた。一番近いと思われる建物はいくらか丘を下ったところにあるらしい。そちらのほうを眺めやれば、眼前を、背景を透かした瑠璃色の蝶の影が横切った。  石垣で造られた小高い丘に、早春の薫りをのせた風が吹き抜けた。  小川のせせらぎと草花の揺れる音、背後の学び家の向こうからの子ども達の笑い声が、雄大な青空に吸い込まれていった。  草花だけではない。水も風も空も、あらゆるものに命を感じる。それほどまでに『生きている世界』を慈乃は知らなかった。  あまりの感動に我すら忘れてしまった慈乃をニアの声が現実に引き戻す。 「いいところでしょ」  慈乃は静かに頷いた。 「ここで生まれ育ったあたしでもそう思うんだから、シノはきっとびっくりしただろうね」 「驚いた……というより、感動、しました」 「うんうん、素直で可愛い!」  ニアは満面の笑みを浮かべ、慈乃の手を引き、歩き出した。 「シノとは絶対仲良くなれる気がする! 街も綺麗なんだ。シノにも早く見せたい。行こっ」 「はい、楽しみ、です」  ニアの言葉に、笑顔に、くすぐったさを感じる。触れたニアの手を見つめる慈乃の表情はどこか嬉しそうだった。  数件の建物の前を通過しながら、小一時間かけて小丘を下っていく。  だんだんと認める家の間隔が狭くなってきたと感じる頃、微かに水のにおいがするようになった。  同時に、ニアが「もうすぐ街だよ」と言った。  ほどなくして、街に着いた。  ここでも慈乃は圧倒させられた。そして、すぐに水のにおいがした理由を知る。  街中に運河が流れていたのだ。いくつかの木の小舟が妖精を乗せている。波の揺れが心地良いのかうつらうつらしている者もいれば、陽気に鼻歌を歌う者もいる。  それだけでも活気を感じられるが、それ以上に街の通りは賑やかで、多くの者が行きかっていた。客引きの元気のいい声や客と雑談する声、器用にひとごみを縫いながら走る子どもの楽しげな声があちこちから聞こえる。  幅広の石畳の路を挟んで、運河を望むように店が立ち並んでいた。  建物の骨組みは木材でありながら、その間を白やベージュの漆喰が埋めるコロンバージュの建物は実に可愛らしい。  窓の下には花籠が備え付けられ、そこに花の鉢が置かれることで、外壁に花が咲いたように見える。店先はもちろん、運河と路を隔てる柵や二階へ続く外階段の踊り場、二階のテラスの手すりにも色鮮やかな花々が飾られている。  間隔をおいて植えられた街路樹は自然に街中になじんでいた。  まるでおとぎの国のような光景に、思わず見惚れてしまう。 「ふふっ、大成功ってね」  ニアがいたずらっぽく笑う。 「まずは日用品? 服とか? いつまでもあたしのおさがりじゃあね」  ニアの言う通り、最初に着せられていた麻色のワンピースから今日来ている刺繍入りのシャツワンピースまで、慈乃は連日、彼女のおさがりを貸してもらっていた。 「シノはどんなデザインが好きとかある?」 「綺麗目な服装は、好んで、着ていました。ただ……、こちらでは、その、浮きそうだと……」 「確かに、シノが最初に着てた服は、こっちだと珍しいね」 「……ですよ、ね」  慈乃は目立つことが苦手だったので、以前は無難に綺麗目な服装をしていた。節約を心掛けていたから、おしゃれにはそこまでこだわらなかった。下手な格好をして、叔父一家に目を付けられることも避けたかったというのもある。  しかし、この世界に来て困ったことになった。  ここでは、紐や玉飾り、刺繍といった装飾が施された服が主流のようで、色もはっきりしたものが目を引く。どこか民族衣装を想起させるデザインは、慈乃にとって、やや抵抗があるものが多い。これらの中からシンプルなものを探し出すのは、相当に骨が折れそうだ。 「せっかくだし、色々試してみよっか」 「あまり、派手なのは……」 「あはは、わかってるって。んーと、あ! あそこならどうかな」  そう言われ導かれたのは、女の子らしい服を取り扱う店だった。 「シノの雰囲気には合うと思うんだ」 「ニア姉さんがお客さんなんて珍しいと思ったら、お客さんはこっちの可愛らしいお嬢さんね」  女性らしい柔らかな微笑みを見せたのはここの店長でもあり、学び家の出身だというライネである。 「ライネの見立てなら信用出来ると思ってさ」 「そう思っているなら、もっとお客さんとして来てくれると嬉しいのだけど」 「えー、あたしの柄じゃないし」 「はいはい、わかってました」  苦笑気味に返したライネは、慈乃に向き直ると少し考える素振りをみせた。それから、店内を回り、数点の服を持ってきた。 「こんなのは好きかしら?」  全身鏡に慈乃を映し、服をあてる。  梅重色のキャミソールワンピースは襟元がギャザーで、くるぶし丈のスカート部分はプリーツ調だ。そこに七分丈で袖口が広く、深いブイネックの白色の羽織りが重ねられる。上腕部には花の刺繍が施されていた。前の開いた羽織りは、右から左に緩く紐が二本渡してあって、左の留め具には三つ花結びの飾りがついていた。それを留めて完成、ということらしい。  見慣れないデザインではあるが、好ましいと思った。 「はい、こういうものなら、好き、かもしれません」 「うん。いいね、似合ってる」  ニアが隣で満足そうに頷くのが、鏡に映る。 「良かったわ。強すぎる色も淡い色も、ちょっと違うかなって思ったのよ」  次にライネがあてたのは、孔雀緑色の膝丈ワンピースだった。襟首は詰まっていて、長袖で袖口が広く、スカート部分はプリーツタイプのものだ。その上に重ねるのは、右の前身ごろに左の前身ごろを重ね、スナップボタンで留める、やや厚手の白色の上衣である。上衣は、後ろ身ごろは臀部下まであるのに対し、前身ごろはへそ上までで終わり、そこから逆ブイ字に大きく分かれている。左の前身ごろの襟終わりには吉祥結びの飾りがつき、長いその紐の先端には白緑色の玉飾りが揺れる。紐玉飾りより下は、紐がほぐされていた。ワイ字の襟と裾は紺青色の縁取りがなされている。目を凝らすと、白い糸で刺繍された雅やかな模様が、光に反射して白い布地に浮かび上がって見えた。 「緑系? 意外かも」 「でも悪くはないでしょ?」  ライネは得意げに微笑んだ。 「あの……、今後子ども達を、相手にするのに……ワンピースばかり、だと、不便ではないで、しょうか……?」  慈乃がおずおすと問うも、ニアもライネも「平気平気」と答える。 「あたしがスカート履くときなんかは、レギンスも履いちゃう」 「えっ、ジャージはやめたの⁉」 「子ども達にださいださいって言われ続けたのが効いた」 「ニア姉さんでもそんなことがあるのねぇ」  昔話で盛り上がる二人とは別に、慈乃はそうなんだ、とひとりで納得していた。好きな服装ができるなら、それに越したことはないと思う。 「あ、ごめんなさいね。こんなのも用意してみたんだけれど、どうかしら」  続けて勧められたのは、青色系のワンピースだった。白縹色のシフォンワンピースはくるぶし丈で、半袖の袖口はふんわりと丸みを帯び、紺碧色に縁取られている。その上からは、ワンピースよりもやや丈の短い、袖のないアオザイのような服を重ねる。紺碧色の地には左肩から右裾にかけて、花の刺繍がされていた。白色の襟にも刺繍が施され、留め具には草花結びの飾りがあしらわれていた。 「きれいなデザイン、ですね」 「そうでしょう? あとは、レギンスと靴とか、小物も必要よね」  ライネは再び店内を回り、いくつかの小物を揃えて、戻ってきた。 「レギンスは無地のものにしてみたけれど、良かった?」 「はい」 「靴はストレッチタイプのパンプスかしらね。機能としてもシューズに近いし……」  そんな調子で一通り小物も揃えていく。  見せてもらった三着を試着し、雰囲気やサイズを確かめる。さすがに店長を務めるだけあって、ライネの見立ては申し分なかった。 「ここはやっぱり、ニア姉さんが買ってくれるの?」  会計の段になって、ライネがからかい口調で問う。 「そのつもりだったんだけど、シノが譲らなくてね」  ニアは苦笑交じりに肩をすくめる。 「出世払いでお願いされちゃった」 「あらあら」  くすくすとライネが笑う。 「詳しい事情は分からないけれど、頑張るのよ。応援してるわ。ここへも、いつでも遊びに来てね、シノちゃん」  店を出る間際、ライネは優しく微笑んだ。  店を出ると、日が高くなっていた。お昼前のようだ。 「休憩がてら、お昼にしない? あたし、お腹すいてきちゃった」 「いいですよ」  慈乃が了承すると、ニアはぱっと嬉しそうに笑った。 「やった。シノは和食になじみがあるってウタから聞いたけど、和食かー。あるかな?」  頭を悩ませるニアにいたたまれない心地になった慈乃は「和食で、なくても、食べられますよ?」と声をあげる。 「そう? 逆に食べられないものはない?」 「アレルギーは、ないです」 「じゃあ、あたしの気になってたところに付き合ってくれる?」 「はい」 「よっし! しゅぱーつ!」  ニアに手を引かれてやって来たのは、飲食店が集まるエリアだった。  お昼時なこともあって、先ほどまでいた服飾・雑貨エリアよりも賑やかである。ひとごみをすいすいと潜り抜けるニアに続いて、目的の店へとたどり着く。 「やー、元気にやってるー?」  ニアは意気揚々と店内へと入っていく。慈乃も困惑しつつ、入店する。  店内はよくあるカフェのようで、席を埋める客達の食事をちらっと見ても、コーヒーやティー、サンドウィッチなどメニューも普通そうだ。  ニアが気になっているというからには、何かがあるのだと思っていたのだが、考えすぎだったろうか。  慈乃が訝しんでいるうちにも、ニアと店員が話を進めていたようだ。 「シノ、こっち」  ニアに呼ばれて、彼女のもとに寄る。対面にいた慈乃とそう年の変わらない青年が、闊達な笑顔を慈乃に向けてきた。 「初めまして。学び家出身のアウィルっす!」  アウィルの勢いに圧されながらも、慈乃はなんとか自己紹介する。 「あ、は、初めまして……。慈乃、です」 「はぁ~、やっと学び家にも癒し系が来たんっすね」  しげしげと慈乃を観察するアウィルの瞳には、悪意はないが、遠慮もない。かつて向けられた好奇の視線を思い出し、身が竦む。そこにニアが割って入った。 「あんたの悪いとこ出てるからね」 「え、マジか。ごめん、シノさん」 「い、いえ……」  心底から反省しているらしいアウィルを見て、慈乃も失礼なことを考えていたと思い直す。 「で、アウィル店員。裏メニューを二つ、よろしく」 「うっす! 空いてる席でお待ちください!」  アウィルが厨房に駆け戻った。ざわめく店内でも、注文を伝えるアウィルの大声が微かに聞こえた。 「空いてる席、探そっか」  ニアが振り向く。 「そうです、ね」  慈乃は素直に頷いた。  空いている席をやっと見つけて、腰を下ろす。  朝から立ったり歩いたりしていたため、座った途端に脚がジンと重くなった気がした。 「疲れたねー」  言葉とは対照的に、ニアの表情からは、いっそ清々しささえ感じられた。それにつられるようにして、本心が口をついて出た。 「疲れました、けど、楽しい、と、思いました」  ニアが目を見開く。次いで、テーブルに軽く身を乗り出した。 「えっ、楽しい⁉ ほんと⁉」 「本当、です」  身を引きながら、慈乃は答えた。  言質をとった瞬間、ニアは嬉しそうに笑う。 「んふふ。みんなに自慢しちゃおーっと。ウタなんか絶対悔しがるでしょ」 「急に、どうしたの、ですか?」  慈乃が首を傾げると、ニアも首を傾けた。まるで鏡合わせだ。 「楽しいってシノが言ってくれたから、嬉しいの」 「あ……」  そこまで言われて頭を過ったのは、昨日のメリルとのやり取りだった。  メリルが笑ってくれたことが嬉しいと感じた、そのときの慈乃と似たような気持ちを、目の前のニアもまた感じているのだろう。  するとそこに、注文していた料理が届く。 「はい、裏メニューお二つっす」  テーブルに置かれた料理はワンプレートで、いくつかの枠に仕切られていた。そこには、旗つきケチャップライスに始まり、ハンバーグにスパゲッティ、フライドポテト、ブロッコリーにミニトマト、デザートのフルーツゼリーがぎっちりと並んでいた。  どこか懐かしいメニューに「これは……?」とニアを見る。彼女はよくぞきいてくれましたと言わんばかりのいい笑顔をしていた。 「これはね、裏メニュー『大人のためのお子様ランチ』」 「そうっす。オレが店長に相談して、裏メニューで採用してもらったんすよ」  その場に留まっていたアウィルが説明し出す。 「ふとお子様ランチが懐かしくなって、食べたいなって思ったんすけど、さすがにこの年ではダメでしょ? そんで思いついたんすよ。ないなら、うちのメニューにしちまえばいいって!」  ニアが話を引き継いだ。 「そこでアウィルの思い出の味代表のあたしがメニュー考案に呼ばれてね。最近裏メニューで出し始めたって聞いたから、来てみたってわけ」 「そうだったの、ですね」 「すみませーん」  他のテーブルから店員を呼ぶ声がする。アウィルは「あ、では、ごゆっくりどうぞ!」と言うと、注文を取りに声の方へと行ってしまった。  ニアはアウィルの後ろ姿を少し目で追って、満足そうな笑みを口元に浮かべた。そして、ぽつりと語りだす。 「あの子ね、今でこそこういう職に就いてるけど、昔は好き嫌いが激しくてさぁ。食べさせるのに苦労したんだ」  何を言い出すのかと困惑しながらも、慈乃は頷く。 「そんなアウィルが今や立派にひとり立ち。その上、あたしの作ったご飯を思い出の味だって言ってくれる。あたしはね、それがすっごく嬉しいんだ」 「それから、ライネ。ライネは小さい頃は引っ込み思案で人見知りで……でも、他人のことをよく見てた。おしゃれにも興味があってね。今のあの子は、いつ見ても本当に楽しそう」  そう語るニアの顔は、子を慈しむ母のような顔をしていた。  そうして、慈乃の方を振り向く。 「学び家ってさ、そういうところなんだよ。シノにもそれを目にして、知ってほしかった。あたしの勝手な願いだけど、シノには子ども達を導いてほしいし、シノ自身も導かれてほしいって思ってるんだよ」  ニアが優しく微笑む。その顔が一瞬、母・カミユのものと重なったように見えた。  心に沁みわたる言葉に、慈乃は小さく「はい」と答えた。  昼食を摂った後、今度は日用品を買い求めた。  あらかたの買い物を済ませ、もう帰るのだろうかと慈乃がぼんやり考えていたら、隣でニアが「あっ」と声をあげた。 「そういえば食材切らしてたんだった。ごめん、シノ。ちょっと付き合って!」 「え、はい……」  慈乃の返事を聞き切らずに、ニアは慈乃の手を引いて歩き出す。  食品を多く取り扱う通りに出る。  慈乃は物珍し気にあたりを見回した。  ジャガイモやキャベツといった慈乃もよく知る野菜、七草がゆに用いる野草を想起させる何かの草、学び家の保健室で見た生薬と思わしき干された植物、米や麦の並びには大きな麻袋いっぱいの大豆。  ここまで種類豊富に食品があるのにも関わらず、肉や魚、卵などは見当たらない。 (そういえば、ウタセさんがこの世界には動物がいないって言っていたわ。だから、なのかしら……)  今朝、学び家を出た直後に眼前を飛ぶ蝶を見たことを思い出す。景色を透かした瑠璃色の蝶はキラキラと陽の光を反射して美しかった。しかし、あれは花の加護が可視化された影のようなものだとウタセは言っていた。もし、牛や鶏を形どっていてもあのような透明な姿をしているのなら、副産物を生産できたり、食べられたりはしないのだろうと、なんとなくそんな風に思った。 「味噌と醤油、あ、ついでに油揚げも買ってっちゃおーっと」  動物性たんぱく質がないからだろうか。この世界では、『畑の肉』ともいわれる大豆が重宝されている気がする。  ニアが買い物を終える。 「じゃー、最後の用事を済ませよっか」  今度こそ全ての用を済ませたかに思えたが、どうやら違ったようだ。  首をひねる慈乃を引き連れて、ニアは目的地へと向かった。  二十分ほど歩くと、大きな教会が見えてきた。  広大な泉の中心に厳かにたたずむ教会は、四方からの石造りの橋でこちら側とつながっている。あたり一面には、花壇に植えられた花々が季節を問わずに咲き乱れている。慈乃達に近いところには、丸々としたチューリップ、満開に花開くスイセン、色とりどりのパンジーが咲いていた。橋の上から水面を眺めると、水中で青々とした水草が揺れていた。  おとぎ話でよく見る西洋城にバラ園と似て非なる、けれども目を奪われる光景に、慈乃はまたも驚く。 (私ったら、今日だけで何度驚いたのかしら)  一方、ニアは慣れた様子で先に橋を渡りきり、振り返って慈乃を呼ぶ。 「おーい、シノー?」  その声にはっと我にかえった慈乃は、慌ててニアの後を追った。 「シノってば、小さな子どもみたい」 「うっ……す、すみません……」  ニアに指摘され、慈乃は俯く。 (迷惑だと、思われた……?)  そんな慈乃の様子を見て、「あー、シノが思ってるのとは違う意味だと思う」とニアが付け加える。 「子どもみたいに手がかかるってことじゃなくて、純粋でいいなってこと」  ニアの言に慈乃がほっと息を吐く。 「そうやって素直な反応を示すことって大事だよ。特に、今のシノには」 「…………」  どういう意味かと慈乃が図りかねていると、ニアは「はい、到着!」と言った。 「フロリアー? いるー?」  そしてそのまま教会内に入っていく。慈乃も後に続く。  教会の中は、礼拝堂になっていた。  横に長い木の椅子、陽光を透かす天窓、奥の壁には植物をモチーフにした大きなステンドグラス。奥の左右それぞれにある扉は、裏に繋がっているのだろう。外観の大きさを考慮すれば、今いる礼拝堂はほんの一部なのだと推察できた。  礼拝堂の奥は、半円形に一段高くなっていて、なぜか重厚な木造りの机が設えられていた。机上には、山と積まれた紙の束や何十冊もの分厚い本。そこだけ見れば、まるで執務室のようだ。  異質な空間、執務机の向こうには、上質そうな装束を纏う一人の女性がいた。 「はいはい、いますよーって、ニアじゃない! いらっしゃーい」  その女性が振り返ると、つま先ほどもあろうかという長さの萌黄色の髪が軽やかに翻る。ふわりと落ち着いた髪は緩くウェーブがかかっていた。 「この間話したシノを連れてきたよ」  荷物を手近な椅子の上に置きながら、ニアが告げる。慈乃も倣って、荷物を置いた。 「この子が!」  そう言って慈乃を嬉々としてみつめる瞳は眩しいイエローを湛えていた。  いたたまれなくなった慈乃が「あの……」と声をあげる。  すると、その女性は「ごめんごめん、ついね」と謝った。そして、ぱっと笑顔になる。 「名乗るのは自分からってね。初めまして。私はフロリア。今はこの世界の女神やってます!」 「あ、初めまして、遠藤慈乃、です。…………え、女神?」  フロリアのテンポに流されて挨拶を返した慈乃だが、はっとなって固まる。 (話には聞いていたとはいえ、この方が……⁉)  硬直した慈乃に、フロリアは構わず笑顔で続ける。 「うん、まぁ、女神なんてやってるけど、そうかしこまらないでね。私、そういうの嫌なんだ。友達感覚でよろしくね」  慈乃は不安のあまり、思わずニアを見た。  ニアは笑って頷き返した。 「大丈夫大丈夫。フロリアは皆に対してそう言うから。現にあたしもそうでしょ?」 「……そう、ですね」  まだ戸惑いを完全に払拭できたわけではないが、そこは無理矢理自分を納得させることにした。そして、改めてフロリアに向き直る。 「……私の事情は、知っていると、伺いました。その、不束者ですが、よろしくお願い、します、フロリアさん」  頭を下げた慈乃を見て、フロリアが唸る。 「うーん、まだ距離を感じるよぉ」 「え」  思わず頭を上げた。 「ねーえ、ニア。これじゃあ寂しいと思わない?」 「贅沢言わないの。あたしと慈乃の初対面より、かなりいいからね?」  慈乃はその会話を聞いて、そういえば失礼な態度をとったと思い返す。途端に申し訳なさでいっぱいになった。 「ニ、ニアさん。あのときは……失礼な態度をとって、すみません、でした」 「シノ……」  ニアは一瞬目をまるくするも、すぐにいつもの明るい笑みを浮かべた。 「謝んないでよ。あたしは気にしてないし、もし気にしてたとしても、今日一緒に出掛けられたことでお釣りがくるとすら思えるんだから」 「お釣り、ですか……?」 「それだけ嬉しいってこと。それにしても、シノは本当に素直で可愛いっ」  言うや否や、ニアが慈乃に抱きつく。 「わっ! ニ、ニアさんっ」 「ふふっ」 「……なにそれなにそれ! 私も混ぜてよっ」  羨ましいと言わんばかりに、フロリアが執務机から身を乗り出す。 「ちょっ、身を乗り出さないでって! 山積みの本が崩れるでしょうが!」 「だって、ずるいじゃない!」 「仕事中でしょ、はい、戻った戻った」 「今は休憩中ですー」 「失礼します、フロリア女神。先日相談した予算分配と来月の視察の件ですが、今、お時間よろしいですか?」  ニアとフロリアの言葉の応酬を遮るように、奥の扉から姿を現した男性が声をかけてきた。フロリアの装束と雰囲気の似た服装やフロリアをわざわざ女神と呼ぶあたり、仕事の関係者だろう。  途端にフロリアの纏う雰囲気が変わった。 「大丈夫だよ。この前使った会議室でいいの?」  口調こそ変わらないが、先刻までの無邪気な子どものような様は鳴りを潜め、国を背負う気高い『女神』がそこにはいた。 「はい、お願いします」  応えた男性に頷いてから、フロリアは慈乃の方を振り返った。 「ごめんね、今日は時間があまりとれないみたい。また遊びに来てね、待ってるから」  フロリアは子どものような屈託のない、それでいて大人のような穏やかな微笑みを見せ、男性の後に続いて扉の奥に去っていった。  教会を出ると、外は夕方になりかけていた。  夕陽の橙色が泉の水面にちかちか反射する。 「今日はどうだった?」  橋を渡りながら、ニアが尋ねてきた。 「この世界は、私がいた世界と、全然、違いました」  ふっと脳裏をかすめた過去の光景。それを今日見た鮮やかな光景がかき消した。 「ありきたりな表現、ですが……綺麗で、温かくて、活気があって……、好きだな、と思いました」 「うん」 「それに、楽しかった、です。きっと、ニアさんのおかげ、ですね。ありがとう、ございます」 「あたしこそ、ありがとう。おかげで充実した一日になった」  心底嬉しそうな笑顔を向けられ、慈乃は気恥ずかしくなって俯いた。 「あ、夕飯、期待してて! 今日は子ども達との顔合わせも兼ねて、シノの歓迎会するから」 「歓迎、会……」  慈乃が気後れしているのを察したのか、ニアがくすくす笑う。 「そんな肩肘張らなくても大丈夫。あたしもフォローするし、ミト兄やウタもいるんだから」 「は、い」  緊張していつも以上にろくな反応ができない。  そんな慈乃を、ニアは微笑ましく見ていた。  その後も他愛ない話を二人でしながら帰り道を行く。  視界の端に映る大きな夕陽がだんだんと眩しくなくなっていく。  少し冷たさの残る早春の夕方らしい風が子ども達の笑い声を運んできた。気づけば、学び舎がすぐそこにあった。閉じられたカーテンから、室内の温かな光が漏れ出していた。  二人並んで門を潜り、玄関に向かう。  玄関で靴を履き替える。  廊下を挟んだ玄関の向かいには保健室がある。保健室のさらに奥には園庭が広がっている。  保健室の開いた扉越しに園庭がちらりと見えた。ほとんど影でしか判別できなかったが、数人の小学校低学年の子達を中学生くらいの男の子が追いかけているらしかった。 「はい、つかまえた!」  中学生くらいの男の子が女の子を一人捕まえる。 「もう終わりー?」 「終わりだよ。手伝いを頼まれてたでしょ」 「はーい」  そんな会話を聞きながら、左手に玄関、今朝集まった客間を見て、大きな広間が続く。  その広間に向かって、ニアが声を張る。 「ただいまー」 「ニア姉ちゃんだ!」 「おかえりなさい!」  賑やかな声がいくつも聞こえてくる。そこにウタセの声が重なる。 「ニア姉、おかえり。あれ、シノは?」 「いるよ」  ニアが荷物を抱えていないほうの手で、入口の陰に隠れていた慈乃を引っ張り出す。  子ども達は興味津々といった様子で慈乃を見つめる。 「シノも、おかえり」  ウタセはといえば、いつものように慈乃に優しく笑いかけた。 「ただいま、戻りました……」  慈乃の小さな声はどうやらウタセに届いたらしい。ウタセはより笑みを深めた。 「で、準備は進んでるの?」 「もう終わりそうだよ。どうする? ニア姉の夕飯作りを手伝おうか?」 「あたしの方は平気。それよりちょうどよかった。夕飯作ってる間にシノにここの案内してあげて」 「うん、了解」  この後の動きを確認すると、ニアは慈乃のもっていた荷物をさりげなく手に取ると、「いっておいで。またあとでね」とだけ告げて、広間のさらに奥へと言ってしまった。  一方、ウタセはまわりの小さな子ども達に「後はガザとクルルとタムの言うことをちゃんときくんだよ」と言った。そして、中学生くらいの三人に「よろしくね」と言い置くと、机の上の紙や糸などを簡単に整理してから慈乃の方へとやって来た。 「お待たせ。じゃ、行こうか」 「はい、お願い、します」  ウタセは笑顔でひとつ頷き返すと、一度玄関に戻った。 「知ってるとは思うけど、ここが玄関ね」  ウタセは玄関を左手にして立った。 「で、玄関から奥に順番に、客間、食堂、厨房、お風呂、お手洗い」  言いながら順番に指し示していく。そして、右手の方へと指を移す。 「それで、すぐ右手にあるのが保健室、奥に向かって物置、僕の部屋、二~三歳児の部屋、〇~一歳児の部屋、スギナの部屋ね」  慈乃はこくこくと頷いていたが、混乱が顔に出ていたらしい。  ウタセが苦笑する。 「あはは、こんな雑な説明だけじゃわからないよね。とりあえず、歩き回ろうか」  ウタセに促され、慈乃もゆっくりと歩き出す。 「シノが最初にいた部屋は保健室、今朝職員が集まったのが客間、っていうのはわかる?」 「はい。それで……さきほど顔を出した広間が、食堂、ですか」 「うん、当たり。ニア姉が奥に行ったのは見たかな?」  慈乃は首を縦に振った。 「そこが厨房だよ。あ、ここで止まってね」  ウタセが右手の、ある部屋の前で足を止める。  その部屋の扉には、新鮮なタンポポで作られた花冠に囲まれた小さな木のプレートが飾られていた。プレートには『ウタセ』と言の葉語で彫られている。全く馴染みのない言語にも関わらずすんなりと理解できるのは、やはり花の加護のおかげなのだと改めて感心した。 「ここが僕の部屋で」  そう言うと、ウタセは扉を開けて、中に入っていった。 「あ、遠慮せずどうぞ。上履きはそこで脱いでね」 「え……、し、失礼します……」  言われた通り、部屋に入ってすぐの玄関部分で上履きを脱いで揃える。  ウタセは部屋に入って左の壁際にいた。そこにも扉があった。 「今は寝てるから静かにねー……」  そうっと扉を開ける。  扉の先の部屋は薄闇が広がっていた。もっとも、部屋には常夜灯が点いていて、廊下からの灯りもレースカーテン越しに漏れていたので完全な暗闇ではなかった。目が慣れてくると、四床の布団が敷かれていて、それぞれに小さな子ども達が寝ているのが見えた。 「えーっと、こんな感じでここは二~三歳の子の部屋でーす……」  小声でそれだけを説明すると、ウタセは音を立てずに扉を閉めた。 「と、まあ、この部屋は二~三歳児部屋と直通になってるんだよね」  そして、慈乃達は廊下に戻った。 「廊下からも入れないことはないんだけどね、夜中とかはやっぱり直通のほうが楽なんだ」  ウタセの言うように、廊下からも二~三歳児部屋に入れるようだ。隣の〇~一歳児部屋も同様の造りとなっているらしく、そちらはスギナの部屋が直通となっているという。 「上の居室を見ればよくわかると思うんだけど、〇~三歳児部屋は少し他と造りが違ってるんだよ。ほら、ガラス張りでしょ。目が届かないと怖いからね」  レースカーテンを透かして、室内の様子が窺えた。  〇~一歳児部屋の向かいにある厨房の先には、風呂場とトイレがある。 「各階にあるお風呂とお手洗いは共用ね。あ、ここの向かいのスギナの扉飾りのある部屋がスギナの部屋だよ」  スギナの押し花が添えられた木のプレートには『スギナ』と彫られていた。  ウタセは先導して廊下のさらに先を行く。 そこには階段があった。踊り場は側面の壁が一面ガラス張りで、外の景色がよく見えた。 「学び家は三階建てで、一階が生活機能をもつ部屋とか小さい子の部屋が集まってて、二階が男子、三階が女子の居室が集まってるんだ」  説明を聞きながら、慈乃も階段を上っていく。すぐに二階に着いた。 「まず右手のすぐそこがお手洗いとお風呂。男子共用ってところだね。で、左のこの部屋がツクシの部屋ね」  ここの扉飾りにはツクシがあしらわれていて、木のプレートには『ツクシ』と彫られていた。  そのまま廊下を進む。 「左右それぞれ四部屋ずつあって、基本は二人部屋。四~十五歳の男子で、小さい子と、面倒を見られるようにある程度の年齢の子でペアを組んで割り当ててるよ」  居室の並ぶ壁には扉と扉の間にコルクボードが設置されていた。そこには子ども達が描いたのであろう絵や色とりどりの折り紙、押し花の栞などが雑多に飾られていた。  作品を眺めながら居室を過ぎると、右手にローテーブルにソファー、本棚の設えられた空間が現れた。 「ここがラウンジだよ。憩いの場、かな」  そしてラウンジの向かいを指す。 「可愛い扉飾りのあの部屋がミト兄の部屋だよ」 「……意外、です」 「あれは僕とニア姉が昔作ってあげたものなんだ。なかなかでしょ、なんてね」  ウタセが懐かしそうに語った扉飾りは、掌ほどの大きさのタンポポオバケが、『ミトドリ』と刺繍されたネームプレートを抱えているというもの。ネームプレートはジニアの花で装飾されていた。  慈乃は扉に寄って行くと、まじまじと扉飾りを見た。 「……よく、できていますね。昔から器用、なのですね」 「そんなことないよ。ミト兄にいいものがあげたい一心ですっごい頑張って作ったんだから。それはタンポポオバケ十二号だったかな」 「十二……」 「あ、一号から十一号はちゃんと僕の部屋にいるよ。みんな個性的な顔してて、愛着も湧いちゃうし、捨てられなかったんだよね」  幼い頃のウタセを想像して、微笑ましい気持ちになる。我知らず、慈乃の頬は緩んでいた。 「……!」  ウタセが珍しく固まる。その様子に気づいた慈乃は「どうし、ました?」と、恐る恐る尋ねた。 (私、何かしてしまった?)  慈乃の不安げな視線にはっと我にかえったウタセは、すぐに慈乃を安心させるように柔らかな、彼らしい表情に戻る。 「えっと、誤解のないように言っておくとね。シノがさっきちょっと笑ったっていうか、優しい顔をしてたから、珍しいなって。もちろん僕の目標はシノの心からの笑顔を見ることなんだけど、そういう表情も好きだなぁって思って」 「そ、う、ですか……」  なんと返すべきかわからず、視線をウタセから扉飾りに移して、小さな声で応える。  そんな慈乃の態度に気を悪くした様子もなく、むしろ清々しささえ感じる笑顔でウタセが「そうなんです」と言った。 「じゃあ、三階に上がろうか」 「……はい」  慈乃とウタセは、二階から三階への階段に向かって歩を進めた。  階段途中の踊り場からは、先の踊り場よりも広範な景色が見渡せた。  一面の花畑が、月の光に煌々と照らされていて、明るいうちに見た景色とはまた違った美しさを感じた。  外の景色に見惚れる慈乃に気づいたウタセも足を止めた。 「綺麗だよね」 「はい」 「今日はいないけど、この時間にたくさんの蝶が舞ってることがあるんだ。幻想的な光景でね、きっとシノにも見せたいな」  そんな会話を交わして、三階に向かった。 「ここが三階、女子の居室が集まってる階だよ。左手のその部屋は二階にもあったラウンジで、見ての通り造りは同じ。その向かい、つまりは右手のこの部屋はニア姉の部屋になってるよ」  扉にはジニアを飾った木のプレートがかかっていて、『ニア』と名前が彫ってあった。 「この先の造りも二階と大体同じかな」  言いながら先に進むウタセの後を、慈乃が追う。  左右に四部屋ずつ、壁にはコルクボードが設置されている。確かに造りは同じだが、こちらのほうが絵や折り紙、栞などが整頓されて飾られているように見受けられた。  そして廊下の反対端にやってきた。 「ここも一、二階と同じで、お風呂とお手洗い。こっちは女子共用だね」  そう言ってウタセが左手を指す。次いで、右手の部屋を振り向いた。 「それで、向かいのこの部屋は」 「?」  てっきり今までの流れからしてネームプレートでもかかっているのだろうと思っていたが、慈乃の予想は外れていた。その部屋の扉には何も飾りがなかった。 「……ここは空き部屋、ですか?」  慈乃が首を傾げて問う。 「惜しい。正確には『空き部屋だった』、かな。ここはね、今日からシノの部屋だよ」 「わた、しの……」  予想外の発言を受けて、言葉が続かない。 「そう、シノの。どう? びっくりした?」  まるでどっきりが成功したとでも言いたげな満足げな笑みを湛えて、ウタセが慈乃の顔を覗き込む。  慈乃は素直に頷いた。 「うん、サプライズ成功だね! 鍵は後でミト兄にもらってね」 「あ、はい」 「この棟はここで全部だし……後は、外かな。まだ時間はありそうだし、そっちも行ってみようか」  ウタセは慈乃を伴い、階段に向かった。一階まで下りると、スギナの部屋の前に着く。そこから廊下を直進し、玄関へと出た。 「あそこに見えるのが正門で、外とつながってるのはあそこだけね」  ウタセが右前方を指し示した。  そこは今日、慈乃とニアが街に出かけるときに通った門である。温かみを感じさせる白っぽい木材を使用した小ぶりなアーチと門扉が設置されていた。同素材で学び家はぐるりと囲われているようだった。ところどころに草花の飾りがあしらわれているところが学び家らしい。  正門の内側の左右には立派な花壇があり、サクラやウメ、チューリップ、スイセンなどが植えられていた。 「もう少ししたら花壇の花も見頃になるはずだよ。楽しみにしてて」  ウタセはそう言い、「こっちに来て」と玄関脇のやや狭い通りに慈乃を呼んだ。少しも歩かないうちに建物の反対側に出る。  目の前には小さな建物とその奥に物置小屋があった。 「この小さめの建物は遊戯室だよ。梅雨の時季にはよく使うかな。その奥にあるのが物置小屋で、外遊び用の物が仕舞われてるよ。あ、一応この道は土足厳禁ね」  生活棟と遊戯室を渡る屋根付きの短い道を、ウタセはぴょんと飛び越える。慈乃もあからさまに踏み越えないように飛び越えた。 「外の水道は保健室の前と、あそこ。畑の前にあるよ」  あそこ、とウタセが示した先には背の低い木杭に囲まれた家庭菜園が広がっていた。  園庭を横切りながら畑に近づく。 「野菜、だけではない、のですね」  慈乃が感心して呟けば、ウタセは「そうだよ」と得意げな顔で頷いた。 「奥のはジャガイモ、サラダ菜にキャベツとか。あのあたりはアネモネとムスカリ、ラナンキュラスとかを植えたはず。手前のこのあたりはハーブがメインかな」 「よく、育っています、ね」  月明かりの下でも、そのことがよくわかった。 「みんなでよくお世話してるからね。学び家の自慢はいっぱいあるけど、これに関しては特に自信があるよ」  そう言い切ったウタセの横顔は本当に誇らしげだった。  このウタセの言動や丁寧に手入れされた菜園から、彼がどれだけ学び家や子ども達を大事に想っているかがありありと伝わってきた。 (私もいつか、ここをそういう風に思える日が、くるのかしら……)  慈乃が物思いに耽っていると、生活棟の一番近い窓ががらりと開いた。スギナの部屋だ。  スギナが窓から顔を出して、外の二人を呼ぶ。 「こっちにいないと思ったら外か。ニアが呼んで来いって」 「え、もう? 早いね」 「昨日のうちから準備してたらしい……って、早く来いよ」  それだけ言い残すとスギナは中に引っ込んでいった。 「さて、今日の主役はシノだけど、準備はいい?」 「う……が、頑張り、ます」  ウタセが可笑しそうに笑った。  半ばウタセに引っ張られる形で、慈乃は食堂までやって来た。  食堂から漏れ聞こえるわいわいと賑やかな声が大きくなるにつれ、慈乃の心拍は上がっていた。  ウタセが振り返る。 「シノはわかりやすいよねぇ。とりあえず深呼吸しようか」  言われた通りに深呼吸する。少しだけ気持ちが落ち着いたような気がした。 「よーし! 行こう!」 「!」  慈乃に考える隙を与えず、ウタセが手を引いた。  食堂にいた皆の視線が慈乃に集まる。  次の瞬間、誰かが「せーの!」と言うと、皆が一斉に元気な声をあげた。 「ようこそ、シノお姉ちゃん! おかえりなさい‼」  呆気に取られながらも、慈乃は皆の顔を見渡す。誰も彼もが、歓びと期待の眼差しで慈乃を見つめていた。その中にはメリルの姿もあった。目が合うとメリルは嬉しそうに笑った。  それだけで、今までの動揺も緊張もどこかへと行ってしまったような気がした。  慈乃は今できる精いっぱいの柔らかな表情を浮かべた。 「ただいま。これから、よろしく、お願いします」  慈乃がそう言うと、その場に明るい声が溢れた。 「シノ姉ちゃん、こっち来てよ!」 「レヤだけずるい!」 「こういうのは早いもん勝ちなんだぜ、フィオ」 「シノ姉、私と齢近い? 私、今年で十五なの」 「シノちゃんシノちゃん、わたし達ともおしゃべりしてー」 「え、その……っ」  困って傍らのウタセに助けを求める視線を送れば、ウタセは「よかったね、シノ。もう人気者なんて」とにこにこしながら言うだけだった。  助け舟を出したのはニアだった。 「みんながシノのことを好きなのはわかるけど、話はご飯を食べながらでもいいでしょ。シノはこっちね。ウタもね」 「はーい」  ニアに案内されたのは、三列ある長机のうちの真ん中、出入り口から一番離れたお誕生日席だった。  慈乃の後をついてきたウタセが、慈乃の席から角を挟んで右側に着席する。角を挟んで左側にはメリルが座っていた。 「みんな席に着いたね。それじゃあ、皆さんおててをあわせて」  ニアの号令とともに、皆がぱちりと手をあわせる。慈乃もそれに従った。 「いただきます」 「いただきます‼」  それを合図に、食事の時間が始まった。  テーブルに並べられたのは素朴だけれど温かみを感じる家庭料理の数々だった。夕刻、ニアが「期待してて」と宣言した通り、あるいはそれ以上に完成度は高いように思える。  山菜の炊き込みご飯に新じゃがの煮っころがし、春野菜の温サラダや味噌豆乳の野菜スープなど、どれもとても美味しそうだ。 「シノお姉ちゃん、きのうよりげんきそうだね」  ソイミートのハンバーグを頬ばったメリルが目を細めていた。 「そう、見えますか……?」  全く自覚がなく、慈乃は困惑気味に返す。 「うん、みえるよー。ね、ウタお兄ちゃん」 「そうだよね。メリルはよく見てるねぇ」  ウタセに褒められて、メリルははにかんだ。 「何話してたの? 私もいーれてっ」  メリルの左隣に着席していた中学生くらいの少女がひょっこりと顔を出す。その拍子に、彼女の後頭部で結い上げた長い髪が揺れた。毛先だけ緋色をした山吹色の髪が目を引く。 「シノ姉のこと、昨日メリルが話してくれたよ。あ、私はメリルと同室のカルリア。よろしくお願いします」  人懐っこい笑みとともに挨拶をされた。 「はい、よろしくお願い、します」 「ねねっ、どうぶつ? の話を聞いたんだけど、それって何なの?」 「オレ達も混ぜろー!」  根元は柿色、毛先は黄赤色の短髪の少年が声をあげる。彼はカルリアと同い年くらいのようだった。 「混ぜろー!」  続いて聞こえてきた元気な声は小学校低学年くらいの男の子のものだ。胡桃色の髪を襟足でまとめている。 「ガザ! 邪魔しないでよ、今は私が話してたのに! それにあんたがそんな態度だからアヅが真似するんでしょうが」  ガザと呼ばれた少年は悪びれた様子もなく「ごめんごめん」と口先だけで謝った。 「シノ! ここの飾り、オレも作ったんだ! すごい?」  目を輝かせて言うのはアヅという男の子。  言われて慈乃は食堂の飾りを見た。  折り紙を折ったり、色紙を切り貼りしたりして作られた色鮮やかな飾り達。それらが天井の端から端に渡っていたり、壁に貼られていたりしていた。 (これを、私のために……)  そう思うだけで胸がいっぱいになった。  アヅの問いに、慈乃はこくこくと頷く。 「はい、すごい、です。……嬉しい、です。ありがとう、ございます」 「へへっ」  アヅもまた、嬉しそうに笑った。 「アヅお兄ちゃん、いいなぁ。シノお姉ちゃん、メリルもー」 「いやいや、さっき話してたの私だよ⁉」 「ていうか僕の存在忘れてない? 誰か僕と話そうよー、ね、シノ?」 「誰かって言いながらちゃっかりシノを指名するなよ、ウタ!」 「そうだそうだ!」  そんな風にして時間が過ぎていった。 「はい、みんな、ご飯は食べ終わったね。そしたらご挨拶しましょう。おててをあわせて、ごちそうさまでした」 「ごちそうさまでしたー‼」  食事開始時と同様に、ニアの号令で食事の時間が終わる。  そのまま片付けて解散かと思っていたら、メリルとカルリアが前に出ていった。同時に、ウタセが「シノも立って」と囁いてくる。  なんだろうと思いながら、促されるまま慈乃も前へ出ていく。  そこにミトドリの朗々とした声が響いた。 「わたし達からの歓迎の意を表して、シノに贈り物があるんだ」  そう言って、メリルとカルリアに目配せする。カルリアが進み出た。 「今日、みんなで考えて作ったんだ。気に入ってくれると嬉しいな。メリル」 「はい、どうぞ」  メリルが掲げた両手には、十五センチメートルほどの大きさの包みがあった。  慈乃はそれをそっと受け取った。 「ありがとう、ございます」 「開けてごらん」  ミトドリに言われて、慈乃は遠慮がちに包みを開けた。  中には、扉飾りが入っていた。ジャーマン・カモミールをあしらったリースの上部から吊るされるようにして、リースの中心で木札が揺れる。木札には言の葉語で『シノ』と彫られていた。 「っ……大事に、します……!」  例えば感動で泣いたり。例えば歓喜で笑ったり。  今はまだ、感情の発露は難しいけれど……。  ここで過ごすうちに、いつかはそんなこともできるようになるかもしれない。 (そんな日が来るのは、そう遠い未来の話ではないのかもしれない)  慈乃は贈られた扉飾りを、そっと胸に抱き寄せた。  食後、慈乃は食堂の後片付けをニアに申し出た。  しかし、ニアは首を振った。 「今日の主役にそんなことさせられないって。それより部屋に行ってみたら? 今日買った荷物はもう運んであるし。ね?」  ここは大人しく、ニアの提案に乗ることにした。  部屋に向かう前に鍵を受け取ろうと、ミトドリを探す。  ミトドリはスギナとツクシと何やら話をしていたが、すぐに慈乃の視線に気が付いた。 「ああ、シノ。ちょうどよかった」 「うっ」  穏やかに微笑むミトドリの隣で、何故かスギナが呻いていた。ツクシがそんなスギナの肩を叩く。 「そういえば鍵を渡していなかったと思い当たってね」  ミトドリから鍵を手渡された。 「ちょうど、伺おうと思っていた、ところです。ありがとうございます」 「シノちゃん、ちょっと鍵貸して~」 「え、はい……?」  訳の分からないまま、とりあえずツクシに鍵を貸す。 「ほい、パ~ス」  ツクシは慈乃から受け取った鍵をスギナに渡した。 「ん」  スギナは鍵を受け取ると、右手に持っていたものを鍵につけ始めた。 「大したものじゃないけど、オレとツクシからのお祝い。学び家にいた時間はオレ達の方が長いけど、職員としては同期だし、その、よろしく」 「仲良くしようね~、シノちゃん」  戻ってきた鍵には、白いカモミールと黄緑のリボンを組み合わせて作られたストラップがついていた。どうやらスギナとツクシの手作りらしい。 「ありがとう、ございます。こちらこそ、よろしくお願いします」  一度頭を下げてから、再び彼らを見る。  スギナは照れてそっぽを向いていたが、ツクシは慈乃をまっすぐ見てにこにこしていた。  そんな三人の様子を見て、ミトドリはふっと優しく微笑んだ。  慈乃は鍵を受け取ってから、部屋へと向かった。  なんの飾り気もない木の扉には、ドアプレート用のフックだけが備え付けてあった。そこにもらった扉飾りをそっと掛けた。  次いで、ドアノブ上の鍵穴に鍵を差し込んで回した。開錠してから扉を引く。 (あ、タンポポオバケ……。ここに運んでくれたのね)  まず慈乃の目に留まったのは、奥の壁際に設置された低めの棚の上に置かれたタンポポオバケだった。今朝、出掛ける前にウタセに預けていたのだった。  タンポポオバケの隣には、小さめのガラス瓶があった。そこには、パンジーが数輪活けられていた。  棚の左右の壁には、一つずつ窓が造られていて、今は若草色の薄手のカーテンが引かれていた。  部屋の中央には卓と座布団が一組、右奥には勉強机と椅子が一組とその右隣に縦長の棚があり、左奥には布団が一組畳まれていた。左手前にはクローゼットが備え付けられていた。  卓上に荷物が置かれていたので、片づけることにする。  玄関で上履きを脱ぎ、卓へと向かうと、荷物の中から衣服や小物を手に取った。  クローゼットを開けると、来客用であろう座布団が数枚、脇にどけてあった。親切に、空の衣装ケースまで用意されていた。  衣服はハンガーに掛け、小物は衣装ケースに仕舞った。  それだけで大分片付いた。もともと買った物も多くはない。残った雑貨は棚に置いた。  片付けが一段落したところで、扉が叩かれる。  慈乃が扉を開けると、廊下にニアが立っていた。 「や。片付けは済んだ?」  ニアは片手をひらりとあげる。 「はい。ちょうど、終わったところ、です」 「それなら良かった。そうそう、お風呂の時間なんだけど、順番制なの。シノは二十二時から二十二時半の間ね。大丈夫そう?」 「はい」 「もうすぐ時間になるか。あたしは部屋に戻るわ。何かあったら遠慮せずいらっしゃい。じゃ、おやすみ、シノ」 「おやすみ、なさい」  ニアが廊下の奥に消えるのを途中まで見送り、自室の置時計をちらりと振り返る。  時刻は二十一時四十五分だった。  入浴の準備を整え終わる頃にはちょうどよい時間になっていたので、慈乃は部屋の向かいにある風呂場へと向かった。  風呂場は予想よりも広かった。脱衣所には洗濯機が一台、浴室にはシャワーが二つとやや大きめのユニットバスが設えられている。  電気やガスが主流だった慈乃が元いた世界とは違い、この世界では花の加護がエネルギー源になっているという。ただし、原理は異なっていても、使い方は大体同じであるようだった。そのため、慈乃にも問題なくシャワーなどは使えた。  髪を洗って、水気を絞る。  ふと視界に入った自分の髪を見つめる。そして、壁の鏡を見た。 (やっぱり、少しずつ色素が薄くなってる……)  髪はかなり淡い猫柳色になっていた。  鏡の自分と目が合う。よく見れば、髪より濃かった猫柳色の瞳も、色が薄くなっているようだった。 (実感はないけど……私は、花守になっているの?)  鏡に向かって問いかける。もちろん答えが返ってくるはずもない。 「あ、時間……」  ぼんやりとはしていられないと、思考を中断させた。  湯船に髪が浸からない方がいいだろうと思い至って、髪を結うものがないことに気づく。  その日は仕方なく、手で髪を抑えることにした。 (うっかりしてたわ……。明日、適当な紐でもわけてもらおうかしら)  時間までに入浴を済ませた慈乃は、自室の前で佇んでいた。  視線の先には、扉飾りがある。それに手を伸ばして、そっと触れた。 (今日は、もらってばかりね)  この扉飾りももちろんだが、ストラップも。それだけではない。誰かと共に出掛ける楽しさや「おかえり」と言ってくれる者たちの待つ帰る場所など、形あるもの以外にもたくさんのものをもらったと思う。 「あなたたちが、導いてくれたの……?」  指を滑らせ、カモミールを優しく撫でる。  すると、どこからともなく声が聴こえた。 『やっと話しかけてくれたね』『お話しできるね』『嬉しいね』  この声には慈乃にも覚えがあった。まだ記憶に新しく、今となっては忘れられるはずもない声。 「カモミールの……」  半ば無意識に、声の主の名を呼ぶ。 「今までどこに……?」  慈乃の問いに、カモミール達は口々に答えた。 『シノの近くに』『でもでも、上手く声が届かなかったみたいなの』『こっちに来て、ぼくらもシノも不安定だったせいかも?』『そうなの?』『そうなの~』 「今は……、不安定ではない、ということ、ですか?」 『シノ、自覚し始めたから』『シノはカモミールの花守』『あと、シノが私達とお話ししたいって思ってくれたから?』 「そう、ですね」  カモミール達の回答に、なんとなくだが納得できた。  そして、慈乃は得心した。 「やっぱり、私は、花守になっているの、ですね」 『まだ完全じゃないけどね』『人間と妖精の中間くらい?』『そうそう。どっちかっていうと人間寄りのね』  なるほどと思って、慈乃は頷いた。  カモミール達は、訊けばしっかりと応えてくれるようだ。  この機会に色々知っておきたいと「あの」と慈乃がおずおずと切り出したところで、カモミール達が何かに気づいたように小さく声をあげた。 『まだまだ不安定みたいなの』『もっとお話ししたかったのにな』 「えっ……」  慈乃が何事かと訊く暇もなく、カモミール達の声は遠くなっていく。 『少しだけど話せて良かった』『きっとまた、すぐに会えるよ』『またね、シノ』  その声は、潮が引くようにさあっと消えていった。  慈乃は、不思議な心地のまま部屋に入る。まるで夢であったような気もするが、確かな現実感も残っていた。  靴を脱ぐことも忘れて、そのまま玄関にぼんやりと佇む。 「訊きたいことも……。言いたいことも、あった、のに……」  そんな慈乃の呟きに、今度こそ応える声はなかった。
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