第三話 学び家の一日

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第三話 学び家の一日

 翌朝、慈乃(しの)は目覚ましの音で目覚めた。  カーテンを覗いてみたら、外はまだ薄暗かった。早朝特有のひんやりと澄んだ空気が、窓越しに伝わる。そのおかげか、意識がはっきりとしてきた。  慈乃は手早く支度を整える。  今日は梅重色のワンピースに袖を通すことにした。動きやすいようにレギンスもあわせる。  風呂場の脱衣所にある洗面台で顔を洗い終わると、ちょうどニアがやって来た。 「おっはよー!」  ニアは朝から威勢のいい挨拶をしてきた。 「あ、おはよう、ございます」  慈乃は小さく頭を下げて返す。 「先客がいるって、ヘンな感じ。なんかこう、テンションが上がるね!」  ニアは、言葉に違わずキラキラとした表情を浮かべていた。 「シノは支度済んだっぽいね。ちょーっと待ってて。」 「はい。よろしく、お願いします」  ニアの支度が整うと、二人は揃って一階に下りた。  皆の期待に応えたいと強く思う一方で、確かに不安も抱えた勤務初日。慈乃の、研修を兼ねた一日目はこうして始まった。  ニアはまず、洗濯機の側に置いてあった三つの籠のうちの一つを持ち上げた。籐の籠には洗濯物がいっぱいに入っていた。 「洗濯はフロアごとに分担してる。わたし達は三階担当ね」  ニアは籐の籠をひっくり返し、洗濯機に洗濯物を入れた。 「洗濯物はこの時間までにみんな入れてる。とはいえ一回じゃ終わんないんだけどさ。と、まぁ、使い方はこの洗剤を入れて」  洗濯機の左には、木製の棚が備え付けられている。そこに置いてある箱をニアは手に取った。中には粉洗剤が入っている。それを洗濯機に入れた。 「蓋を閉めて、スタートボタンを押すだけね」  ニアがスタートボタンを押すと、洗濯機は音を立て始めた。 「こんな感じ。どう、わかった?」  振り向かれた慈乃は首肯する。それを見て取ったニアは大きく頷いた。 「よーし! 次は朝ごはんを作るから厨房ね」  ニアと共に、一階に向かって階段を下りた。  ひと気も火の気もない厨房はひんやりと感じられた。 「食事関連はあたしが取り仕切ってるから、シノが毎日ここに来るかはわからないけど、一応案内しとくね。ついでに今日は手伝って」 「はい」  慈乃はニアに指示されるまま、食材を取り出したり、皿を並べたりする。  ニアは指示を出しながらもさすがの手際の良さで、朝食はあっという間に作り終わった。  そこにミトドリとツクシがやって来た。 「おはよう、ニア、シノ」 「おはよ~。これ運んじゃうね~」  慈乃とニアも挨拶を返す。 「おはよう、ございます」 「はい、おはよー。どんどん運んじゃって」 「今日はいつにも増して準備が早いようだけれど、シノのおかげかな」  ミトドリがちらと慈乃を見て微笑んだ。  たじろぐ慈乃とは対照的に、ニアは満面の笑みを見せる。 「あっ、わかる? そうなんだ。シノってば飲みこみが早くて、すごく助かっちゃった!」 「そんな……。ニアさんの指示が、的確だった、から……」 「だとしても、それについてこられたシノはさすがだよ。もうね、このミト兄よりずっと優秀だから」  ミトドリは曖昧に笑う。 「わたしにそれを期待されてもねぇ」 「ミトくんはかえって足を引っ張るよね~」  容赦なく事実を述べるツクシは、普段通りの態度で悪気は全くなさそうだった。  ミトドリも特に気にした様子もなく苦笑する。 「どうにもそういった作業は苦手みたいだ」 「完璧そうに見えるのにね~」 「って、スギナがすごい目で睨んできてるんだけど!」  ニアの視線を追うと、食堂の方からじとっとした目で厨房を睨むスギナの姿があった。 「お腹空いたのかな~」 「ええー。また寝不足なんじゃないの?」 「うーん、早くしてほしいんじゃないのかい」  なんにせよ、これ以上スギナの機嫌が悪くならないうちに朝食を運ぼうという結論に至った。  朝食を運んでいる間に、食堂に大体の子どもたちが集まってきた。  子ども達は朝から元気に挨拶したり、朝食運びを手伝ったりと、食堂は活気に満ち溢れていた。  ふと、ツクシが声をあげた。 「ありゃ、ウタくんは?」 「センがぐずってたんであやしてたぞ。遅くなりそうだったら先に食べてていいってさ」  スギナが答える。  それを聞いていたニアは逡巡した後、「仕方ないか」と言いながら前に立った。 「それじゃあ、みんな。おててをあわせて、いただきます」 「いただきますっ‼」  賑やかな食事が始まる。  慈乃はニアと向かい合わせの席に着いて、食事をしていた。  慈乃の右隣に着席するのはスイセンという名の十二、三歳くらいの少年で、彼の向かいにはテオという名の四、五歳くらいの男の子が座っていた。  聞けば、スイセンは雰囲気が大人びているために十三、四歳に見られがちだが、実際はつい先日十二歳になったばかりだという。昨日の日暮れに庭園でやっていた鬼ごっこの鬼役も彼のようだ。その時の庭園から漏れ聞こえてきた声からも察せられるように、スイセンは穏やかでしっかりとした性格をしていた。 「昨日はあまり話せなかったけど、優しそうなひとで安心しました。ね、テオ?」  スイセンの黄色の瞳がテオに向けられる。その拍子に、スイセンの切りそろえられた真っ白な髪がさらりと揺れた。 「うん。なかよくしようね、シノお姉ちゃん」  テオは雀色の目を細めて、にっこりと笑った。瞳と同色の髪はふわふわしていて、テオ自身小柄なのも相まって、慈乃にスズメを想起させた。 「はい。よろしく、お願いしますね」 「こちらこそ」  スイセンは愛想の良い笑みを見せる。  テオも嬉しそうにこくりと頷いた。  そこに、ニアが割って入った。 「お話もいいけど、早く食べないと遅刻するよ?」  呆れた口調ながらも、その表情は明るい。ニアとしては、慈乃が周囲に溶け込めているのが嬉しいのだった。 「明日なら学舎も休みだし、シノさんともゆっくりしゃべれるのになぁ。残念です」  心底がっかりしたとでもいうように、スイセンがぽつりと呟きをもらす。  対して、未就学児のテオは慈乃と一日中一緒にいられるからか、ご機嫌だった。 「シノお姉ちゃん、今日はぼくと遊んでくれる?」  そんな余裕があるのかと疑問に思った慈乃は、ニアに視線をやる。  ニアは微笑んで、小さく頷きを返した。 「ええ、いいですよ」 「やったぁ」  慈乃の平淡な声音や表情に臆することなく、テオは無邪気に喜んだ。  和やかな朝食の時間は瞬く間に過ぎ去り、後片付けを済ませたところで、息つく暇もなく慈乃とニアは三階の脱衣所に向かった。  朝一番にまわした洗濯機は静かになっていた。 「最初に服、次にタオル類、最後に下着とか細々した物を洗ってるんだ。大体だけどね」  ニアは説明しながら、洗い終わった服を洗濯籠に入れていく。洗濯機が空になると、そこにタオルや最初の洗濯で入りきらなかった服を放り込んでいった。 「で、二回目をまわす、と」  スタートボタンを押して、ニアが振り返る。 「そしたら外に行こうか。ついてきて」  ニアに導かれるまま、玄関にたどり着き、生活棟を回り込んで園庭に出た。渡り廊下を横切って、物置の方へと向かう。そこには生活棟と平行な位置に、物干し竿が設置されていた。  昨日、園庭を案内されたときには暗くて気が付かなかったと慈乃が思っていると、先客の声が耳に届き、我にかえった。 「だからね、ツクシ。ここでちゃんとシワを伸ばさないと、乾いたときによれるんだってば」 「え~、一応伸ばしたよ~?」 「一応ってなんなの。はい、やり直し!」 「ぶ~」  物干し竿の下には、ウタセとツクシがいた。  ウタセはまるで母親のようにあれこれ注意していて、それを受けたツクシは文句を言いながらも素直に指示に従っていた。  ニアが二人に声をかける。 「やあやあ、新人教育は順調かい?」  ニアの声にウタセは顔を上げ、ツクシは手を止めた。 「ニア姉、シノも。おはよう。新人教育は……まずまずかな」  ウタセはツクシをちらりと見た後、いたずらっぽく笑った。 「ウタくんが厳しいんだよ~」  ツクシがむくれて、反論した。  そんな二人の反応を見たニアは、不敵に笑う。 「ふっ、勝った。わが教え子は優秀だから、二〇日程度の遅れなんてすぐに埋めるどころか追い抜くでしょうね」  突っ込まれるかと思いきや、ウタセもツクシもうんうんと頷くばかりだった。 「朝食のこと聞いたよ。シノなら期待できるね」 「シノちゃんになら、仕方ないよね~」 「シノに負けないように、ツクシも頑張ろうね!」 「ウタくんの笑顔が眩し~い……」 「よっし! シノ、こんな二人にあたし達は負けない! ってことで、洗濯物を干そう!」 「あ、はい」  ニアに教えられながら、洗濯物を干していく。  幼少より、自ら家事をする必要があった慈乃にとって、これくらいのことは慣れたもので、作業自体は特に苦にもならなかった。 (同じ作業でも、辛いと思うこともあったのに……)  母が亡き後、父子家庭となった慈乃は積極的に家事を手伝うようになった。父の助けになるのが喜ばしい一方で、母とはもう会えない現実をまざまざと突き付けられているような気もした。  その後、父も亡くなり、叔父の家に厄介になることになった。叔父一家の慈乃に対する態度は冷たいもので、放り出されることだけは嫌だと慈乃にできる家事は一手に引き受けていた。それが前向きな感情による行為でないことはいうまでもない。  それが、今はどうだろう。  春の訪れを感じさせる柔らかな陽光。咲きほころぶ花々の甘く爽やかな薫り。そして何より、ウタセ達のつくりだす温かな雰囲気。 (この時間は、優しい)  風が緩やかに吹き抜け、慈乃の長い髪をさらう。日の光を反射した髪が、金色に輝いた。 「…………」  ふと視線を感じて、そちらを見ると、ウタセと目があった。  ニアとツクシはやいのやいのと何かを楽しそうに言い合っていた。 「どうし、ました?」  慈乃の問いかけに、ウタセは慈愛に満ちた眼差しと穏やかな微笑みを返した。 (どういう意味、かしら……?)  慈乃が考え込む前に、ニアが呼びかけてきた。 「シノ。次は掃除するから、戻ろ」 「は、はい」  慈乃はウタセとツクシに軽く頭を下げると、慌ててニアの後に続いた。  生活棟の戻ると、既に掃除は始まっていた。 「洗濯物は休日なんかだと手伝ってくれる子もいるんだけど、掃除は毎日みんなでやってるの」  ニアの説明通り、各部屋、廊下、階段には掃除をする子ども達や職員の姿があった。  玄関から入ってすぐの物置に向かい、ニアは掃除道具を取り出した。慈乃はそれを受け取る。 「自分の部屋と当番の場所をやることになってて、あたし達は厨房ね」  厨房の掃除を済ませてから、各部屋に向かう。とはいえ、慈乃の部屋は昨日掃除したばかりなので、それほどやることもなく、すぐに掃除は終わった。  まとめたごみを持ち、正門外のごみ置き場に行った。慈乃達が戻るのと入れ違うようにして、玄関からかばんを持った子ども達が出てきた。ちょうど登校の時間らしい。 「いってらしゃい」 「いってきまーす!」  ニアの挨拶に、子ども達が元気よく返事をする。  子ども達の集団の向こうでは、ミトドリが中学生くらいの子に手を振っていたり、ウタセが小学生くらいの男の子とハイタッチをしていたりしていた。  子ども達の姿が丘の下まで見えなくなると、「さて」とニアが振り返った。 「朝はいつもこんな感じ。この後は、各々の仕事に取り掛かるんだけど、今日は特別に職員の一日を観察してもらおうと思ってるの」  慈乃は頷いた。 「本当は、あたしが一日中シノを案内してあげたかったけど、そういうわけにもいかなくてさぁ」  明らかに落胆した様子を見せるニアに、慈乃がどう反応したものかと困っていると、声が降ってきた。 「そういうことで、まずはわたしが案内するよ」  ミトドリだった。  ニアは渋々ミトドリに案内役を譲ると、そのまま玄関へと戻っていった。 「とはいったものの、さて、どうしようか。とりあえず中に戻ろうか」 「はあ……」  ミトドリは慈乃を二階まで連れてくると、慈乃をラウンジに待機させ、ミトドリは向かいの自室に入っていった。  しばらくして、三冊のファイルと筆記用具を持ったミトドリがラウンジにやってきた。 「お待たせ。わたしの部屋はお世辞にも綺麗とは言えないから、ここで話そうか」 「よろしくお願い、します」  ローテーブルに持ってきた物を置くと、ミトドリは慈乃の向かいのソファーに腰かけた。  まずは赤色の紙ファイルを開く。そこには、言の葉語がびっしりと書かれていた。 「これは……」 「契約書とか、決まり事の類だよ。こういうもののチェックをしたり、サインをしたりが主な仕事なんだ」  続いて、ミトドリは緑色の紙ファイルを手に取った。表紙を開くと、今度は数字が羅列されていた。 「会計も担当してるんだ。これは、家計簿みたいなものだね」  そう言って二冊のファイルを閉じると、適当にテーブルの端に寄せた。 「あとは、そうだなぁ。今日はないけど、外回りなんかも行くことがあるよ。学び家の紹介をしたり、反対に孤児の紹介をされたりね」  「まあ、これだけだとつまらないよね」とミトドリは苦笑いを浮かべると、残る三冊目のファイルを取り出した。黄色の紙ファイルは先の二冊のファイルとは趣を異にしていた。 「なんというか……可愛らしい、ですね」  慈乃が思わず呟けば、ミトドリは「そうだろう」と少し誇らしげに微笑んだ。 「これはね、メリルとテオが作ったんだ」  ミトドリに差し出されたファイルを、慈乃はそっと受け取った。  黄色の厚紙の上には、小さく切られた花を模した折り紙がちりばめられ、色とりどりの色鉛筆でやはり花のイラストが描かれていた。題字には言の葉語で『テスト』と書かれていた。 「テスト……?」  メリルとテオの顔を思い浮かべる。二人とも、未就学児だったはずだ。それにも関わらず、テストとはどういうことだろうと、慈乃が首を傾げていると、ミトドリが小さく笑って、説明してくれた。 「同室のカルリアやスイセンの影響を受けたんだろうね。メリル達も勉強がしたいというから、簡単なテストを作ってみたんだ。開けてごらん」  ミトドリに促されて、慈乃は表紙をめくった。  B5サイズの紙には、初歩的な足し算の式がミトドリのものと思われる字で書かれ、答えには子供らしい字が躍っていた。 「足し算、みたい、ですね」 「そうなんだ。それで、これを採点してるというわけ」  ミトドリが赤色鉛筆を取り出した。そして、丁寧に丸をつけたり、間違いは訂正したりし始める。一通り採点を終えると、ミトドリが「そうだ」と言って、慈乃に赤色鉛筆を差し出した。 「一言コメントをお願いできるかい? シノは絵が上手だと聞いたから、イラストも添えてみるのはどうかな」 「わかり、ました」  赤色鉛筆を受け取った慈乃は、何を描こうか考える。 (メリルちゃんの反応からして、動物とかがいいのかしら) 少しして、鉛筆を走らせた。  描きあがった絵を見て、ミトドリが感嘆の声をあげる。 「よく描けてるじゃあないか。それに文字も、やはり読めないけれど意味はわかるね」  得点欄の脇には、『よくできました』の吹き出しを添えたネコが描かれていた。 「きっとメリルもテオも喜ぶよ。ありがとうね」 「いいえ。喜んで、もらえたら、嬉しいです」  そこに、廊下から声が掛かった。 「ミトさん、どんな感じ?」  出入り口の陰から姿を現したのはスギナだった。  慈乃が小さく会釈をすると、スギナは「おはよ」とそっけなく返した。 「ああ、スギナ。ちょうど紹介し終えたところだよ」 「ん、了解。じゃあ、シノ、下行くぞ」 「あっ、はい。ミトドリさん、ありがとう、ございました」  辞去する際に慈乃は礼を述べた。 「こちらこそ。頑張っておいで」  ミトドリは穏やかに笑んで、慈乃を見送った。  スギナに連れてこられたのは一階の〇~一歳児部屋だった。 「そろそろ起き出す頃だから、そしたらこれやって」  スギナに手渡されたのは温い哺乳瓶だ。中には乳児用ミルクが入っているらしい。 「最初はオレが手本を見せる。それを真似すりゃいいから」 「よろしく、お願いします」  そうこうしているうちに、一人が泣き出した。  スギナはその子を抱き上げると、あやしつつミルクをあげた。その動作は、実に手慣れていた。  慈乃は傍らで、その様子をじっと観察していた。 「こんな感じで、他のやつもよろしく」 「はい」  まるで連鎖反応のように次々と泣き出す四人の乳児を、二人がかりで世話して回っていく。ミルクをあげる慈乃とは別に、スギナはオムツ交換もしていた。  普段はこれをスギナひとりでやっているというから、驚きだ。今朝がたの彼は不機嫌そうに見えたが、寝不足ではというニアの指摘はあながち間違いでもないかもしれない。  ようやく一段落したところで、スギナは壁際の脚のないソファーを慈乃にすすめながら、自らもその隣に腰かけた。 「はぁー」  スギナは盛大な溜息をつく。慈乃が心から「お疲れ様です」と言えば、スギナは「おー」と気の抜けた返事をした。そして、徐に話し始める。 「ひとりいるだけで、全然違うんだな」 「そう、ですか? スギナさん、は慣れているようでした、けど……」 「一応、ガキ達の面倒は昔から見てたしな」  慈乃と同期だというスギナとツクシは、もともとここ、学び家の出身だという。家を出る年齢である十五歳の年になると外に就職する者がほとんどだというが、彼らは学び家の職員となる道を選んだ。そのため、ここにいるのは十年以上になるが、働き始めたのは今月の頭で、まだひと月も経っていないという。  ハイハイして近寄ってきた子をスギナはひょいと抱き上げる。その子はきゃっきゃっと楽しそうに笑った。 「今日はご機嫌だな、ツユ」  スギナが抱き上げた子の顔を覗き込む。心なしか、スギナも嬉しそうな表情をしている気がした。 「ん? そっちに行きたいのか?」 「あー」  ツユが短い両腕をいっぱいに伸ばした先には、慈乃がいた。 「だってさ」  スギナは微かに笑って、慈乃にツユを抱かせる。  クールで不愛想な印象のスギナだが、一瞬見せた柔らかな表情は双子のツクシによく似ていた。 「う?」  無垢な瞳で、まっすぐに見つめられた。まるで自身を確かめるような視線から、慈乃は不思議と目が離せずにいた。しばらくすると、ツユは満面の笑みを見せた。 「やっぱりわかるんだろうな」  様子をうかがっていたスギナが、横で声をあげた。 「何を、です?」  慈乃は小さく首を傾げる。ツユも慈乃を真似て、首を傾げた。 「シノがいい奴ってこと」  まさかスギナにそんなことを言われるとは思っておらず、慈乃は少なからず驚いた。 「……意外って顔してるな。まぁ、オレもこういうことあんまり言う方じゃないけどさ」  そう言いながら、スギナはツユの頭に手を置いた。ツユは声をあげて笑う。 「ツユは特に人見知りだから、初対面のやつを気に入るなんてこと滅多にないんだ。確かにシノは鉄面皮だと思う。一見何考えてんだかわかんねぇし」  特に否定することもなく、慈乃は頷く。散々言われ続けてきたし、自覚もしている。スギナにこう言われたところで何とも思わなかった。  スギナが呆れ顔で「否定しないのな」呟いた。 「まぁ、今はそれでいいや。話を戻すと、シノの本質は見えてるものとは違うってこと。鉄面皮なのも何考えてんのかわかんないのもさ、優しさの裏返しだとオレは思う。ツユもそういうのを本能的に見抜いたんじゃねえのかな」  ふっと鋭い眼差しになったスギナは独り言のように続けた。 「学び家にいるのは捨てられた子ども達だ。そういうやつらは得てして悪意に敏感だよ。オレもその中のひとりだったからわかる」 「…………」  スギナの雰囲気にのまれた慈乃は言葉を発せなかった。  しかし、スギナは剣呑な空気を収めると、打って変わって穏やかな瞳を慈乃に向けた。 「今日ので確信した。最初は少し不安だったけど、シノなら上手くやっていける。……これから、よろしくな」 「はい、よろしくお願い、します」  慈乃の腕の中では、ツユが無邪気に笑っていた。 「スギナがいっぱいしゃべってる~」 「っ⁉」  己の肩口に突如として現れた顔のついた花のパペットに、スギナはばっと振り返る。  突然出現したパペットにもだが、スギナの俊敏な反応にも慈乃は驚いていた。 「そろそろかな~って、迎えに来たよ~」  スギナの陰から顔を覗かせたのは、ツクシだった。 「普通に入って来いよ!」 「シノちゃんのためにも、エンターテイメント性が必要かと思って~」  スギナの剣幕に全く怯むことなく、ツクシは「あはは~」と笑うばかりだ。スギナもそれ以上の追及は諦め、大人しく慈乃からツユを離した。 「つーことで、行ってこい」 「あの……、ありがとう、ございました」  慈乃としては見学させてもらったこと以上に、掛けてもらった言葉に対してお礼を言ったつもりだったが、スギナにはどこまで伝わっただろう。  果たして、真意は伝わったようだ。 「ああ。こいつらも喜ぶだろうし、また来いよ」  スギナは、今度は確かに笑って見せた。 「こっちこっち~」  パタパタと先を行くツクシに置いていかれないように、慈乃は慌ててついていく。ツクシに先導されるまま行き着いた先は園庭だった。  午前中の清々しくも温まった空気に包まれた園庭には、仲良く遊ぶ六人の幼児がいた。  背後の気配に気づいたのか、そのうちのひとり、若紫色のくりっとした瞳がこちらに向けられる。振り向きざまに、木賊色のツインテールがくるりと翻った。 「ツク兄、遅ーい」  それにつられるようにして、他の五人もツクシ達を見た。 「どこ行ってたのよ」  最初に声をあげた女の子が腰に手を当てて、ツクシを問い詰めた。 「あれ~? ホノちゃんに言わなかったっけ~? シノちゃんを迎えに行ってくるよ~って」 「言われてない!」  ホノはきっぱりと否定した。 「あっ、シノお姉ちゃん!」 「ぼくときょうのあさにやくそくしたもんねー」  そこにはメリルとテオの姿もあった。 「オレも昨日ちょっと話したし!」  そう言って小さく胸を張るのは、昨日の歓迎会で真っ先に声を掛けてきた男の子だ。焦茶色の短髪に鬱金色の丸い瞳がよく映えている。確かレヤと呼ばれていたはずだ。 「昨日はレヤが邪魔するから、シノ姉と話せなかったじゃん!」  レヤの隣で不満をもらすのは、昨日、レヤに『フィオ』と呼ばれていた彼と同い年であろう男の子だ。濃藍色の髪と瞳に、太陽の白い光が反射するのがはっきりと確認できた。  視界の端に小さな人影がさっと動くのが見えた。人影はツクシの脚にしがみつくようにして、彼の後ろに隠れた。薄花色のふわふわとした柔らかそうな髪と花色の瞳が僅かに覗いていた。  ツクシはその場でしゃがみ込むと、隠れた男の子と目をあわせる。 「ウルくん、『こんにちは』は~?」 「……こ、こんにちは……」  『ウル』はぺこっと頭を下げながら、小さな声で慈乃に挨拶した。 「うんうん~、よくできました~」  ツクシが『ウル』の頭をなでると、『ウル』は照れたように微かに笑った。  ツクシが「よいしょ~っと」と言いながら立ち上がる。そして、慈乃を振り返った。 「ウルくん……ウルフィニはね~、人見知りだけどいい子だから、仲良くしてあげて~」  慈乃がこくりと頷けば、ウルフィニは安心したような吐息をもらした。  それを見届けたツクシは「さて~」と話を切り替える。 「ボクはミトくん達がどんなに忙しくしてても、こうして子ども達と遊んでるわけだけど~、別に、他のことが面倒だからってだけじゃないからね~」  ツクシの言いまわしに若干の引っ掛かりを感じながらも、慈乃はとりあえず相槌を打つことにした。ツクシはそのまま話を続ける。 「どんなときでも子ども達を見守るという、だ~いじな役割があるんだ~」  他の仕事が面倒だというのもツクシの本音だろうが、子ども達を見守るのが大事だというのも彼の本心だろう。 「……では、これからやるのは、『遊ぶ』ということ、ですか?」  慈乃の問いに、ツクシは大きく頷いた。 「そゆこと~。え~っと……」  そこまで呟いて、ツクシは数秒間何やら考え込む。慈乃にはツクシが何を考えているか見当がつかなかったが、子ども達は察しがついたようだ。  ウルフィニが、ツクシの袖を軽く引っ張る。 「……ツク兄。なわとび」 「あ~、そうだったそうだった~」  ツクシは、ポンと手を打った。  ツクシを横目に見て、ホノは呆れた溜息をついた。 「繩なら用意しておいたわ」 「早くやろうぜ!」 「今日の目標は三十回な」  レヤとフィオの声をきっかけに、大縄跳びの準備が始まる。  慈乃は左手をテオに、右手をメリルに引かれて、皆の輪に加わった。  話し合いの結果、慈乃とツクシが回し手となり、大縄跳びは始まった。 「……十五、十六、十七、じゅうは……あーっ!」  レヤが悲痛な声をあげる。 「もう一回!」  フィオが悔し気に叫ぶも、ホノは首を横に振った。 「つづけてやったからメリル達も疲れてるじゃない。休憩しましょ」  ホノが指摘した通り、メリルとテオは「やすみたい」と疲れを滲ませた声で主張した。ウルフィニに至っては声も出せないようで、ツクシに「大丈夫~?」と肩を摩られていた。  慈乃は慈乃で日ごろの運動不足を痛感していた。縄を回すという動作は、それはそれで体力を消耗する。  レヤとフィオも納得したようで、一度休憩を挟むことになった。  運動したからか春の日射しもやや暑く感じられる。一同はまだ日陰の残る物置小屋の近くへと移動した。  子ども達は好奇心旺盛で、他所から来た慈乃に強い興味を抱いていたようだ。話の的は自然、慈乃となった。 「シノ姉も花守なの? 何の花守?」  ホノが印象的な若紫色の瞳でじぃっと見つめてくる。 「えっと……カモミール、です。一応……」  慈乃の自信無げな答えを特に気に留めるでもなく、ホノは「そうなんだ。わたしはホトケノザの花守よ」と告げた。  言われて、ホノの瞳が、春先の耕作放棄地に広がる若紫色の花の絨毯と同じ色であることに気が付いた。  慈乃の存在に慣れてきたのか、ウルフィニも僅かに身を乗り出す。 「ぼくも」 「ウルくんは、何の花守、なんですか?」  慈乃がそっと問えば、ウルフィニははにかんで答えた。 「デルフィニウム。……しってる?」  デルフィニウムと聞いて慈乃の頭に浮かんだのは、青紫色や白色の花がふわふわと縦いっぱいに並ぶキンポウゲ科の植物だった。高校の帰り道にたまに立ち寄っていた花屋で、切り花として売られているのを何度か買ったことがある。 「オオヒエンソウ、でしょうか?」  あっているかを確かめるために、あえて和名を口にしてみる。 「うん、そう」  ウルフィニは満足げに小さく笑った。つられて慈乃の頬も自然に緩む。  慈乃達のやり取りを眺めていたツクシがひとりごちた。 「う~ん、ウタくんが引き込んだ理由がわかったかも……」 「なんか言った? ツクシ兄ちゃん」  フィオが訊いても、ツクシは「スギナも気づいたんだろうな~」とひとりで何かに納得するばかりだった。そして、ふいに慈乃の目を覗き込む。 戸惑いと不安の奥に、怯えが隠された目を。 「……あの、何か……?」  耐えきれなくなった慈乃が恐る恐る尋ねる。今度はツクシも反応を示した。 「……シノちゃんはボクより年上なのに、昔のこの子達みたいだね~」  その顔にはツクシらしくない、痛ましさや労わりを含んだ曖昧な笑みが浮かんでいる。  肯定も否定もできず、慈乃はそっと目を伏せた。 (私なんかよりよほど、彼らの方が健やかに育っているわ)  染みついた思考回路を断ち切ることができず、慈乃は卑屈な思考に陥った。その傍らで、メリルはツクシに厳しい目を向け、ホノはツクシを非難していた。 「ツク兄、そういうの『むしんけい』って言うのよ」 「メリルはむずかしいことわからないけど、シノお姉ちゃんがいやがることしたらダメなの」  悪気はなかったのだろうが、年少二人に叱られてツクシも反省したようだ。 「ごめんね~、シノちゃん。意地悪したつもりじゃないんだ~」 「……いえ、いいんです。本当のこと、ですから……」  気まずい雰囲気を察してか、レヤとフィオがわざと茶化した。 「シノ姉ちゃーん。なんか言ってやってよ」 「スギナ兄ちゃんがツクシ兄ちゃんのこと『なんとかぶじん』って言ってた」 「『ぼうじゃくぶじん』だろー」  ウルフィニはぺちりとツクシの頭を叩いていた。  テオは座る慈乃の正面に立つと、腕を伸ばして頭を撫でてきた。 「よしよし。……シノお姉ちゃん、だいじょうぶ?」 「ええ。……大丈夫、ですよ。ありがとう」  慈乃が精一杯の柔らかい表情を作れば、皆、安堵の息を吐いた。  ツクシが立ち上がる。 「うん、ニアちゃんが来るまでまだ時間はあるし、次は何して遊ぼうか~」 「は? まだ三十回跳べてないんだけど⁉」 「だって~、飽きたもん」  その場でくるくると回りだしたツクシを、フィオが呆れた目で見遣る。 「ツクシ兄ちゃんの方がよっぽど子どもだよな」 「じゃ~あ~、だるまさんが転んだやろ~う」 「……聞いちゃいない」 「シノ姉、行こ」  差し出された小さな手はウルフィニのものだった。慈乃はその手をそっと取ると、立ち上がる。そして、ウルフィニと並んでツクシ達の方へと歩き出した。  だるまさんが転んだの鬼役が四回変わる頃、ニアが園庭に現れた。ニアは真っ直ぐに慈乃のもとへと歩み寄ると、慈乃の肩を軽く叩いた。 「仲良くやってんじゃないの」 「ニアさん……!」  子ども達がわらわらとニアのまわりに集まりだす。 「きいてきいて! シノお姉ちゃんにね、いっぱいあそんでもらったんだ」  テオが目をキラキラさせて報告した。 「オレ、シノ姉ちゃんのこと好きになった!」 「オレも!」  レヤが明朗快活な声をあげると、それに負けないくらいの元気な声でフィオが続く。 「明日はね、わたしのやりたいおままごとも一緒にやってくれるって」  ホノが心底嬉しそうに告げた。  メリルはにこにことした笑みを慈乃に向け、ウルフィニは慈乃の左手を握っていた。 「あっという間に人気者になっちゃったよ~」  慈乃達の後ろから顔を出したツクシも朗らかに笑っていた。  皆の反応に、ニアは鷹揚に頷いた。 「そうでしょうそうでしょう。なんたってあたしが期待して教育してる子なんだから、当然よ」  勝ち誇ったようなニアの笑みに、慈乃はなんともいえないくすぐったい気持ちになった。 (色々なひとに認められて、期待されて……こんなこと初めてだけれど……。こういう気持ちに、なるのね)  妙に大人しい慈乃を不思議に思って、ツクシが慈乃の顔を覗き込む。 「シノちゃん、どうかした~?」 「えっと、上手くは、言えないのですが……。私、学び家の皆さんと、仲良く、なれて、その……嬉しいのだと、思い、ます」  どもりながらも、慈乃は正直な思いを口にする。 「そっか~。なら、シノちゃんはきっと変われるよ~」 ツクシは眩しいものを見るかのように目を細めた。  タイミングを見計らって、ニアが「行こっか」と慈乃に声を掛ける。  慈乃は皆に手を振られながら、園庭を後にした。 「ではでは、ニア姉のお料理教室のはじまりはじまりー!」  厨房にニアの声が高らかに響き渡った。 「……えっと」 「はい、パチパチパチ!」  戸惑う慈乃を後目に、ニアはひとりハイテンションで拍手する。 「本日の昼食はこちら!」  ニアは調理台に広げた両腕を向ける。そこには麺、キャベツ、もやし、ニンジンなどが準備されていた。 「もしかして、焼きそば、でしょうか……?」 「ぴんぽーん」  ニアは頭上で指先を合わせると、大きな円をつくった。 「シノは焼きそばって作ったことある?」 「あります」  慈乃の答えに、ニアはほくそ笑んだ。 「じゃあ、一緒に作れるね」 「……良いの、ですか?」  てっきり、今朝のようにちょっとした手伝いをするものとばかり思っていただけに、思わず問い返してしまう。 「もちろん。むしろ普段はひとりで料理するから、慈乃と料理できるの楽しみにしてたんだ」  てらいなく返され、慈乃は返答に窮してしまった。 「が、頑張り、ます……?」  ニアは吹き出した。 「なんで疑問形? まあ、気張らないで、楽しくやろう」 「う、はい……」 「まずはニンジン切ってもらっていい?」  ニアの合図をきっかけに調理にとりかかる。  二人ともに手際よく、連携した動きをとれたおかげか、調理にはそれほど時間を要しなかった。 「シノは家事、よくしてたでしょ」  配膳を終え、皆が食堂に集まる間、ニアと慈乃は雑談に興じていた。 「……そう、ですね」  苦い思いを飲み込んで、事実として正直に頷いた。 「だよね。洗濯も掃除も料理も慣れてるみたいだったからさ。そうかなとは思ってたんだ」 「…………」 「シノ?」  何も言わない慈乃を訝しんだニアは、反応を確かめるように慈乃の名を呼ぶ。慈乃ははっとして顔を上げた。 「あ、はい」 「……さっきは何して遊んでたの?」  慈乃の様子がおかしいことに気づいたニアは、話題を転換することにした。今度は慈乃も明確な反応を示した。 「大縄跳びと、だるまさんが転んだ、です」 「『だるまさんが転んだ』? ああ、『種運び』のウタ布教バージョンね」 「『種運び』?」  聞いたことのない遊びだと思い、慈乃はおうむ返しに問うた。 「名前が違うだけでルールは一緒。ウタが『だるまさんが転んだ』でみんなに教えるから、学び家の子ども達には浸透してるみたいね」 「へぇ……」  地域差のようなものだろうか。三番街ではだるまは見かけないが、他の街ではなじみ深いものなのかもしれない。  そんなことを考えていると、食堂に足音が近づいてきた。 「今日は焼きそばかい」 「いいね、美味しそう」  ミトドリとウタセが会話しながらやってきた。 「もう配膳まで終わってるなんて、僕達が早めに来る必要はなかったみたいだね」  ウタセは慈乃を見て目を細める。  慈乃が反応を見せる前に、ニアの方が先に胸を張って言った。 「でしょう?」 「なんでニア姉が自慢げにするの……」  ウタセが呆れた目をしてニアを見遣る。 「そりゃあ、シノが褒められたら自分のこと以上に嬉しいからね」 「……ふーん」  ウタセはいかにも面白くないといった態度を示した。  その態度に気づかないはずもなく、ニアがウタセの顔を覗き込む。 「なぁに拗ねてんの」 「…………」  しかし、ウタセは何も答えない。  むくれた表情やあえてのつれない反応は、まるで子どものようだ。  慈乃にはウタセの態度の理由がよくわからなかったが、兄弟同然に暮らしてきたというミトドリとニアには容易に察せられたようだ。  途端にニアは意地悪く目を光らせた。 「あー、もしかして、あたしにシノを取られたから拗ねてるんだ?」 「…………」  ウタセはきまり悪そうに床に目を落とした。  ニアは追撃を止めることなく、続ける。 「境遇のせいかは知らないけどはじめからやたら気にかけてたし、年は近いし、可愛いし。ウタにしてみたら脱末っ子、初めて妹ができたって思ったんだろうねー」 「…………」 「でも、残念! あたしだって弟じゃなくて妹ができて嬉しいんだから。ねー」  これ見よがしにニアは自らの腕を慈乃の腕に絡める。  ウタセがいよいよじとりとした目でニアを睨もうかという時、ミトドリが割って入った。 「はいはい。いい年して姉弟げんかなんてやめないか。シノも困っているだろう」  ミトドリに窘められて、ニアとウタセは顔を見合わせ「ごめんなさーい……」と声を揃えて謝り合った。  ちょうどそこに子ども達を伴ったツクシと欠伸をかみ殺した風なスギナが食堂にやって来た。 「わぁ~、今日は焼きそばだね~」 「また姉弟げんかかよ。どうせニアがふっかけたんだろうけど、よくもまぁ飽きないよなぁ」  スギナが呆れとも感心ともつかない声で呟く。 「なんであたしが原因なことが前提なの」 「は? 違うの?」  まさかと言わんばかりに、スギナは目をまるくした。  心外だと言い返したいところだが、事実なので否定はできない。ニアは半ばやけくそ気味に答えた。 「……違わないけど!」  そのやり取りを聞いていたツクシがウタセの背を撫でる。 「ウタくんってば、また言い負かされちゃったの~?」 「……ニア姉は、本当のこと言ってくるから……」  先ほどのことを思い出したからか、ウタセは意気消沈した様子だった。 「頭は回るのにろくに言い返せないなんて、ウタくんは素直だよね~」  背を撫で続けながらツクシは言葉を掛けるが、ウタセの顔は晴れない。 「言葉の割には慰められてる気がしないんだけど……」 「あれ~、おかしいな~」  ツクシは心底から不思議がっているようで、首を傾げていた。 「ねー、お腹空いたー」 「早く食べようぜ」  フィオとレヤが口々に言うことで、ようやく場が収まり、昼食の時間となった。  お昼ご飯を食べ始めてしばらくしたころ、唐突にスギナとツクシがあっと小さく声をあげ、互いの顔を見合わせた。 「呼ばれてるね~」 「ん、ちょっと行ってくる」  短く会話した後、スギナは席を立ち、廊下へと出て行った。  慈乃がスギナの後ろ姿を視線で追っていたからか、向かいに座るウタセがここぞとばかりに身を乗り出して説明してくれた。  ホノとメリルを挟んで座るニアが「わっかやす」と呟くのに、ニアの向かいでミトドリが「さっきのことを気にしているのだろうね」と苦笑した。 「スギナ達が花守だってことは以前話したよね」  スギナとツクシは双子であり、二人でひとつのスギナ(ツクシ)の花守であることは聞いていたので、慈乃はこくんと頷いた。 「花守は司る花の加護が強いから、その花とは言の葉を通して会話ができるんだけどね。今のは、〇歳児部屋に漂ってたスギナの精がスギナを呼んだんだ、ね」  ウタセがツクシに視線を遣った。 「そうだよ~。スギナと同じ花守だからボクにも聞こえるんだけど、さっきのはフユくんが泣いてるから来てって言ってた~」  つまりはちょっと不思議な通信機能といったところかと、慈乃は一人で納得していた。  そういえば、こちらの世界に来て二日目にウタセが奇妙なほどにタイミングよく保健室に現れたことがあったと思い出す。あのときもセイヨウタンポポの精から話が行っていたのかもしれない。 (この世界は、不思議なことばかりね)  慈乃は無表情ながらも、心中では感嘆していた。  後片付けをニアとウタセと共に終え、そのまま今度はウタセについて研修を行うことになった。  ウタセに誘われた先は園庭の隅にある畑だった。 「水やりは朝済ませて、お昼なんかの時間がある時には様子を見てるんだ」  先に畑に入ったウタセの後を慈乃もついて歩く。 「あ、これなんか良さそうだね」  そう言ってウタセはしゃがんで足元の黄色い花を咲かせるセイヨウタンポポを根から引っこ抜いた。慈乃は膝に手を置いた中腰の姿勢でその様子を傍らから見ていた。 「……何に、使うのです?」  慈乃の訝し気な様子に、ふふっと笑いながらウタセは答えた。 「タンポポコーヒーとかタンポポ茶って聞いたことないかな。タンポポの根を乾燥させてから煎じるんだよ」 「どんな味が、するのでしょう……」  慈乃がぽつりと零せば、ウタセは苦笑した。 「学び家では僕とミト兄くらいしか美味しいって言わないから、一般的にはあんまりなんじゃないかな。興味があるなら後で飲んでみようか」  思わぬ申し出に気後れする。 「え……、でも……」 「嫌なら無理にとは言わないよ。だけど、おこがましいとか申し訳ないとか思うのは違うと思う。少なくとも僕は、興味を持ってくれて嬉しいと思ってるし」  慈乃を安心させるように、ウタセが笑む。  その笑顔に背を押されるように、慈乃は自然頷いた。 「でしたら、その……、いただきたい、です」 「うん、是非!」  ウタセは一段と明るく笑う。と、何かに気づいたのか笑顔を収めて、きょとんとした表情を浮かべた。 「あれ、新しい芽かな……。こんなの蒔いたっけ?」  ウタセの視線の先を慈乃も追う。  そこには萌黄色をした細く小さな双葉が、ひょっこりと土から覗いていた。 (これ、は……)  何かに、呼ばれた気がした。  遠い日の母の声が蘇る。 「今日はお天気もいいし、種を蒔いてみましょうか、慈乃」 「うん! なんのおはな?」  母が手を広げると、そこには小さな小さな種があった。 「これはね、カモミールっていうのよ。ハーブの仲間」 「ハーブはしってるよ。このあいだお母さんがおしえてくれたよね。いいにおいのするおはな!」  慈乃が無邪気に笑う。それに応えるようにカミユは優しく微笑んだ。 「慈乃はすごいな。よく覚えてたね」  父は慈乃の頭を愛しげに撫でた。 「今日種を蒔いたら来週には芽が出てるはずよ。楽しみね」 「うん!」  夕陽があたりを橙色に染め上げる頃合いになって、ピクニックは切り上げられた。  帰る道すがら、慈乃は左手を握る父にとわくわくしながら訊いた。 「めはらいしゅうっていってたけど、きょうのおはなはいつさくの?」 「春にはきっときれいな花を咲かせるよ」 父は慈乃に笑い返した。 その言葉を受けて、今度は右手を握る母に笑いかける。 「たのしみだね」  この時の悲しく微笑んだ母の顔が、慈乃には印象的だった。  一週間後、父母と連れ立って慈乃はカモミールの様子を見に行った。  一週間前に種を植えた場所に、萌黄色の芽が出ているのが遠目に分かった。近づいてよく見てみると、細く小さな双葉がひょこひょこっと出ていた。 「かわいい!」  慈乃が隣に座りこんだ母を見上げる。母は小さな葉を指さした。 「最近は温かかったからたくさん出たのね。慈乃、これがカモミールの芽よ」 「カモミール……。うん、慈乃、覚えたよ!」  慈乃の無邪気な笑顔に、両親とも微笑んだ。 「……カモミール……」  追憶と現実の境にいる心地で慈乃が無意識に呟くと、ウタセは「え?」と声をあげた。 「カモミール……? 図鑑でしか見たことなかったけど、こんな芽なんだね」 「図鑑で、しか……? そんなに、珍しい花、でしょうか……?」  もといた世界ではそう珍しくもなく、香油や茶にも利用されるほどにはポピュラーな植物だった。慈乃が訝しむと、ウタセは少し考える素振りを見せてから「もしかして」と話し出した。 「ほら、ここ二十年くらいはカモミールの花守はこの世界にいないみたいだったし、そのせいでカモミールは滅多に見なかったんだよね。カモミールの花守であるシノが来てくれたおかげだね」  ウタセは柔らかく笑むと、立ち上がる。 「ぱっと見これくらいかな。それじゃあ、戻ろうか」  ウタセに促されて、慈乃は住居棟へと戻りだした。    そうして二人が向かったのは保健室だった。 「相変わらず雑然としててごめんねー。あ、この椅子使って」  ウタセは簡易台所に収穫してきたタンポポを置きながら、空いている椅子を慈乃にすすめる。彼自身はそのままタンポポ茶の準備を進めていた。 「煎じるのにちょっとだけ時間がかかるから、待っててね」 「はい」  自らは椅子に座るだけで何もしていない慈乃は、罪悪感と申し訳なさを募らせる。そわそわとどこか落ち着かなくしている慈乃を案じてか、ウタセが朗らかに笑った。 「大丈夫だよ、そんなに堅くならなくても」 「でも……、こういった状況には、慣れて、いなくて……」 「……そう、なんだ。ねえ、今日はミト兄達のところにも見学に行ったんでしょ? どうだった?」  切り替えるようにウタセは明るく慈乃に訊いた。 「皆さん、快く、受け入れて、くださいました」  慈乃は朝からの出来事をかいつまんで話した。 「へえ。ミト兄とニア姉は予想通りだけど、スギナとツクシがそんなことを、ねえ」 (繊細なふたりのことだし、シノの事情を薄々察したかな)  慈乃が不安げに、考え込むウタセを見遣る。 「あの……、何かまずかったでしょう、か……?」  ウタセははっと顔を上げた。 「あ、ううん。まずいことは何もないよ。それにしても、子ども達とも仲良くできそうで安心したよ」 「はい。優しい子達ばかり、ですね」  慈乃が表情を和らげる。ウタセは「あ……」と、慈乃から目が離せずにいた。 「あ、鍋、が……」 「え、わっ、ほんとだ!」  ウタセが台所の方に駆け寄る。  しばらくしてタンポポ茶を注いだカップを持って、ウタセが戻って来た。 「危なかったー。煮だし過ぎるところだったよ。はい、シノ」  ウタセがカップを差し出す。 「熱いから気を付けてね」 「はい。ありがとう、ございます」  ウタセはもう片方の手に持っていた自分のカップをデスクに置くと、唐突に「あ、そうだ!」と声をあげた。  ウタセがデスク用の椅子の背もたれにかけてあった白衣のポケットを探り始める。 「うーんと、右……にはないなぁ。左にいれたっけ?」  慈乃が首を傾げ、その様を眺めてからいくらも経たないうちに、ウタセが「あった!」とポケットから手を出した。  ウタセの左手には、光沢がかった若緑色の組紐が握られていた。紐の両端には金色の小花が描かれた乳白色の小さなガラス玉がついている。 「きれい……」 「ふふ。僕が作ったんだ。趣味でね」  ウタセはにっこり微笑むと、椅子を持って慈乃の背後に座った。そこから慈乃の顔を覗き込む。 「ね、シノ。髪、触ってもいいかな?」 「え」  驚きから慈乃が後ろを振り向けば、思っていたよりも近い距離にウタセの顔があった。慈乃は椅子から落ちそうになるのをなんとかこらえた。 「えっ……と……、どういうこと、ですか」 「ん? 言葉通りの意味だけど……。あ、髪いじるのは慣れてるし、悪いようにはしないから大丈夫だよ!」  悪意など欠片もない純真な笑顔を見せられて、慈乃が答えに窮していると、ウタセは「ダメ、かな」としゅんとしてしまった。  羞恥心よりも罪悪感が勝った慈乃は、結局ウタセの頼みを承諾した。 「わか、り、ました……」 「え、いいの⁉ やったぁ!」  途端にウタセはご機嫌になると、慈乃の髪をいじりだした。 「シノの髪ってやっぱり綺麗だね」  ウタセは、慈乃の右耳よりも前にくる髪をすくい、細い三つ編みを編んでいく。 「そう、ですか?」 「うん。今朝も金色に光ってて綺麗だなぁって思ってたんだよ。ただ、そのときに風に煽られてて、まとめた方が動きやすいんじゃないかとも思ったから、今、ちょっとね」 「……今朝」  そういえば、今朝ニアと園庭に洗濯物を干しに行ったとき、ウタセの視線を感じたことを思い出す。あのときどうしたのかと慈乃が問えば、ウタセは微笑んだだけだったが、そんなことを考えていたとは思わなかった。  慈乃がそんなことを考えている間にも、ウタセは手際よく作業を進めていく。気づけば右側の三つ編みは完成していて、左側の三つ編みにとりかかるところだった。 「……はやい、ですね」 「うん? まあ、自分の髪は毎朝結うし、子ども達の髪もよくいじるからね。もう少しでできるから待っててねー」  ウタセはすいすいと手を動かしていく。  左側も編み終えると、左右の三つ編みを後頭部にもってきて適当な位置で合わせる。そこを組紐でまとめた。 「うん、できたっ!」  ウタセは手鏡を慈乃に手渡した。  慈乃が鏡を覗き込もうとすると、組紐がそっと揺れた。 「わ……」 「よく似合ってるよ。それ、あげるから、よかったら使って」 「え、でも、こんな、いい物……」  慈乃の戸惑いを知ってか知らずか、ウタセは笑顔で続けた。 「言ったでしょ、趣味で作ってるって。子ども達にもあげてるしね。無理にとは言わないけど、やっぱり使ってくれたら嬉しいな」 「…………でしたら、あの、いただき、ます。ちょうど、髪留めがなくて……」  昨夜、髪をまとめるものがないと困っていたことを思い出し、慈乃はウタセからの厚意を有難く受け取ることにした。 「大事に、使いますね」 「うん!」  受け取る側の慈乃よりも余程嬉しそうにウタセは笑った。  慈乃から手鏡を返され、ウタセはカップの置かれたデスク前に椅子を持って移動した。そして、慈乃と向かい合わせになる向きで腰を落ち着けた。 「そろそろ飲み頃かな。シノも飲んでみてね」  ウタセにすすめられるまま、慈乃はカップを手に取った。一見するとコーヒーのような液体だが、香りは香ばしいお茶のようだ。  一体どんな味がするのだろうかと、カップを傾けた。 「…………」  慈乃は無表情に固まった。 「シノのそれはどっちの反応なの?」  様子を見ていたウタセが苦笑気味に声を掛ける。 「……癖の強い、健康茶…………? でも、コーヒーらしさも、若干……ある、ような……?」 「ううん、微妙な反応だね……」 「飲めなくはない、ですよ?」 「だよねぇ。大体がシノみたいな反応するんだよ」  苦笑いを浮かべ、ウタセはタンポポ茶を啜った。 「でも、気になっていたので、飲むことができて、良かった、です」  慈乃が真剣な顔で言うと、ウタセは「あはは」と笑った。 「じゃあ、出した甲斐があったかな」 「ありがとう、ございます」 「いえいえ。また飲んでみたくなったらいつでも言ってね」  ウタセの悪戯っぽい笑みにつられるように、慈乃の頬も緩んだ。  すると、ウタセは嬉しそうな表情になった。 「?」  慈乃が不思議に思っていると、突然、保健室の扉が開いた。 「ウタ兄ちゃん! 今、保健室いい⁉」  大きな声とともに現れたのはレヤだった。  ウタセはレヤの側に行き、しゃがんで視線の高さを合わる。 「レヤ。ここは保健室だから、もっと静かにね。あと、言ってることがよくわからないんだけど」 「ごめんなさい! うんと……今かくれんぼしてて、ここに隠れてもいいかなって」 「謝り方が雑だなぁ。なんだかツクシの悪影響を受けてない?」 「ねえ、いいの? ダメなの?」  ウタセの困り顔を全く気にすることなく、レヤは急かすように言い募る。 「まあ、今は僕とシノしかいないからダメではないけど……」  ウタセが振り返って慈乃を見る。 「シノがいいよって言ったらね」 「えっ」 「ねーえー、いいでしょ? シノ姉ちゃん!」  レヤが断られるとは微塵も思っていない瞳で、慈乃を見上げる。  慈乃がウタセを見遣れば、ウタセは「どっちでもいいよ」と答えた。 「私は、構いませんが……」 「『かまいません』ってつまりどっち?」  首を傾げるレヤを見て、ウタセが可笑しそうに微笑んだ。 「いいよ、だってさ。良かったね、シノが優しいお姉さんで」 「うん! ありがとう、シノ姉ちゃん! あ、オレがここに隠れてるって言わないでよ!」 「はい」 「言わない言わない。ほら、早く隠れないと見つかっちゃうよ」  ウタセが意地悪くレヤを急かす。 「やばっ」  レヤは保健室をさっと見回してから、ベッドの下に潜り込んだ。  それからいくらも経たないうちに、保健室にホノがやってきた。 「失礼しまーす。ウタ兄、あ、シノ姉もいる。ねえ、ここに誰か来てない?」  ウタセは何事もなかったかのように応じる。 「ホノ、いらっしゃい。誰か探してるの?」 「今かくれんぼしてるの。保健室になら、レヤかフィオが隠れに来てるかもって」  ホノは保健室の中を目で探り、ウタセをじっと見た。 「ん?」  ウタセはいつも通りに微笑む。 「ウタ兄はいつもどっちかわからないのよね……」  ホノはそう呟くと、次いで慈乃を見つめた。 「ねえ、シノ姉」  慈乃は堅い声で返事をする。 「……はい」 「ここに、誰か来たよね?」  ホノは何故か確信的な口調で慈乃に訊いた。ウタセが肩を震わせ、笑いをこらえているのが慈乃の視界の端に映った。 「……来ていない、ですよ」 「絶対いる!」  言うや否や、ホノはデスクの下を覗き込んだり、カーテンの裏を覗いたりした。そして、ベッドの下を覗き込んだ。 「やっぱりね! レヤ見っけ!」 「えぇ~。早くね⁉」  すぐに見つけられたレヤは不満そうにしていた。  ホノは勝ち誇ったように「レヤとフィオはわかりやすすぎるのよ」と笑った。それから慈乃を振り返った。 「シノ姉はウソがヘタね」 ウタセが思い出したように声を震わせる。 「そうだね。声が堅いし、視線も動かないから、あれじゃあすぐに噓ついてるなってわかるよ」  レヤがじとりとした視線を慈乃に寄越す。 「シノ姉ちゃーん……」 「え、え、ご、ごめんなさい……!」  いたたまれなさと申し訳なさで、慈乃は思わず謝った。  するとレヤがにやりと笑う。 「じゃあ、シノ姉ちゃんも遊んでくれるよね」 「あ、それいいわね! シノ姉、いいでしょ?」  レヤに続いて、ホノが期待に満ちた目で慈乃を見る。  研修中なのにウタセのもとを離れるのは、と断ろうとした慈乃を遮って、ウタセが抗議した。 「えー。僕も仲間に入れてよ」 「え、研修は……」  慈乃の方が驚いて問えば、ウタセは「遊ぶのも仕事のうちだよ」と満面の笑みで答えた。  それを見ていたホノとレヤは、慈乃とウタセを仲間とみなしたようだ。 「あとはウルとツク兄とスギ兄が見つかってないの」  ホノの言葉にウタセが目をまるくする。 「スギナも混ざってるんだ。珍しいね」  レヤが大きく頷いた。 「今日は時間あるからいいよって。あ、フィオは?」 「一番はじめに見つけたわ。次がメリルとテオね」 「いつもと同じじゃん!」 「ってことだから、後の三人を一緒に探してね」 「うん、了解」  ウタセが微笑む。同時にシノも頷いた。 「さーて、まずはツクシかな」  張り切ったウタセの声が玄関口に響く。慈乃が見上げると、ウタセは生き生きとした顔をしていた。 「見当が、ついているの、ですか?」 「うん。昔からよく遊んでたしね」  ウタセは迷いのない足取りで外に出ると、真っ直ぐに正門前へ向かった。そして側の花壇に植えられたサクラの樹を見上げた。慈乃もその視線を追うと、そこにはこちらを苦々しげに見下ろすツクシがいた。  ウタセが満足そうに笑う。 「ツクシ、みーつけた」 「それはずるいよね~」  言うなりツクシは軽やかに樹から飛び降りた。 「途中参加ってアリ~? しかもシノちゃんまで~」  ツクシが頬を膨らませる反応すら楽しむように、ウタセは小さく笑った。 「ありあり。かくれんぼはひとが多い方が楽しいでしょ?」 「ウタくんが言うとなんか違う気がするんだけど~」 「次はウルでも探そうか」  ツクシの不満げな声を気に留めることなく、ウタセは実にいい笑顔で宣う。 「ウタくんが探したらすぐに見つかっちゃうよ~。ここはシノちゃんに探してもらおうよ~」 「あ、それはそれで面白そうかも」  水を向けられた慈乃は困惑した。 「あの、全く見当が、つかないのです、が……」 「ウタくんが探すより面白いから問題ないよ~」 「かくれんぼは、そのような遊び、でしたか……?」 「まずはどこに行こうか」  慈乃の疑念は、ウタセとツクシの見事な連携により流されてしまった。  とりあえず、と思い、慈乃は園庭に回ってみることにした。  見通しが良い園庭をさっと眺め渡すも、ウルフィニの姿は見当たらない。物置小屋や遊戯室の陰を覗き込んでもみたが、そこにもいないようだった。 「外には、いない、のでしょうか……?」  慈乃の小さな声にウタセが反応を示す。 「かもね。ってことは生活棟のどこかかな」  続いてツクシも言う。 「階は一階に限定してるよ~」  外の探索は止めて生活棟に戻る。あたりがつかない慈乃は手前から順に探していくことにした。 「ウルくん、いますか?」  慈乃は玄関の隣に位置する客間に顔を覗かせる。あまり広くはない空間にひとけはないようだった。 「いない?」  廊下からウタセが訊くのに、慈乃は小さく頷いて答えた。  ウタセの隣ではツクシが首を傾げていた。 「保健室は~? 隠れやすそうだよね~」 「途中の移動はなしってルールなら、いないと思うよ。ホノ達に誘われたのは保健室だし、そこにはレヤしか隠れに来なかったしね」 「じゃ~、物置かな~。物が多いから隠れるにはもってこいだよね~」 「大きな音は聞こえなかったけど……」  慈乃に探させようといった張本人であるツクシが率先して探し出す。踵を返したツクシにウタセと慈乃も続いた。 「た~のも~!」  ツクシは、客間の向かいにある物置部屋の扉を勢いよく開けた。その音が思いの外大きく、慈乃は驚きに肩を震わせる。  ツクシの行動にか、はたまた慈乃の反応にか、思うところがあったのであろうウタセはツクシを窘めた。 「ツクシ、もっと優しく開けようね」 「は~い」  悪びれる様子もなく返事だけしたツクシは、ウタセを振り返ることなく部屋の中を見回した。 「ウルく~ん」  返ってきたのは静寂のみだった。 「う~ん、ここもハズレ~?」 「ウルならここに隠れてることも多いけど、今日は違う所かな」  やや不満そうなツクシに対して、ウタセはにこやかに語った。  三人連れ立って、次は食堂へ向かう。  食堂に足を踏み入れながら、慈乃が「ウルくん?」と声を掛ける。すると、近くから小さな声が返ってきた。 「シノ姉、どうしたの……?」  慈乃が声のした方へ視線を向ける。そこには机の下から顔だけを出したウルフィニがいた。 「あのね、いまかくれんぼしてるから、あんまりおおきなこえ、だせないの」  ウルフィニは困った顔をして、常より声を潜めて言った。  だまし討ちのようで悪いような気もするが、その姿には慈乃も自然と微笑ましさを覚える。 「ウルくん、見つけました」 「え」  ウルフィニが目をまるくした。  慈乃が微笑とも困惑ともつかない曖昧な表情を浮かべるその後ろで、ウタセとツクシが悪戯っぽく笑っていた。 「まさか自分から出てくるとはね。シノだからって油断したかな」 「ダメだよ~、ウルくん。かくれんぼは隠れてなんぼなんだから~」  ウルフィニは机の下から出てくると、頬を膨らませて慈乃たちを睨みつけた。 「……ずるい」 「で、ですよ、ね……。ごめんなさい……」  慈乃が慌てて謝る傍らで、ウタセは「ごめんね」と苦笑いをし、ツクシに至っては「終わったことは気にしな~い」と開き直る素振りを見せた。  ウタセがその場を取りなすように、一度手を叩く。 「ホノ達もスギナを見つけたんじゃないかな。ねえ、ウル。僕たちをみんなが集まる場所に連れていってほしいな」  ウタセがしゃがんでウルフィニの顔を覗き込む。  ウルフィニはウタセを見て、次いで慈乃を見上げた。その瞳は一瞬前のような恨みがましいものではなく、彼らしく穏やかなものだった。 「シノ姉も?」 「はい。……お願い、できますか?」  ウルフィニはツクシをちらりと見遣ってから「うん、いいよ」と答えると、慈乃の手を取って、食堂を出た。  その後にウタセとツクシも続く。ウタセは呆れまじりの溜息を吐いた。 「ツクシってば、この手の常習犯でしょ。そのうち本当にウルに嫌われるよ」 「だって、毎回ちゃんとした反応してくれるんだも~ん。ついついね~」  その会話を聞くともなしに聞いていたウルフィニがぴたりと立ち止まる。そして、後ろを振り返ると、いかにも不機嫌そうにつぶやいた。 「ツク兄、キライ……」 「ごめんって~」  相変わらず悪びれもせず言葉だけの謝罪をするツクシに冷たい一瞥をくれて、ウルフィニは再び歩き出す。  慈乃がおろおろとウルフィニとツクシを交互に見ていたら、ウタセが近づいてきて「いつものことだから」と苦笑した。  ウルフィニに案内された先は二階のラウンジだった。そこにはすでに、フィオ、メリル、レヤ、ホノ、テオ、スギナの六人が揃って歓談していた。  真っ先に慈乃達の存在に気が付いたホノが顔を上げる。 「あっ、お帰りなさーい」  事の経緯を知っているのかフィオ、メリル、テオ、スギナも特に驚いた様子は見せなかった。  スギナはツクシの姿を認めると、からかい出した。 「ウタがいたんじゃ、やっぱりツクシもすぐに見つかるか」  対抗するように、ツクシも言い返す。 「スギナこそ、珍しくかくれんぼに参加したけどろくに隠れもしなかったんでしょ~」  スギナは肩をすくめた。どうやら事実らしい。  入り口に立ち尽くす慈乃のもとに、メリルとテオが小走りに駆け寄ってきた。 「シノお姉ちゃんもいっしょにあそんでくれるんでしょ? メリル、うれしいな」 「ぼくも! ウルくんも、うれしそうだね」 「うん」  三人のやり取りに微笑ましいような、くすぐったいような気持ちになって、慈乃は我知らず柔らかな表情になった。 「私も、うれしい、です」  メリル達は邪気のない笑みを浮かべた。そこにホノの声が掛かる。 「次は何してあそぶー?」  ウルフィニは疲れたようで小さく欠伸をもらした。元気が有り余っているレヤとフィオは顔を見合わせる。 「せっかくここに集まったんだし、本でも読んでもらおうぜ」 「オレはいいよ。みんなは?」  フィオの問いかけに皆は賛成の意を示した。  本棚に一番近かったホノが、一冊の絵本を選び出した。三十センチ四方の絵本の表紙には様々な野菜が躍っていた。ホノの隣に座っていたスギナが絵本のタイトルを読み上げる。 「『やさいのおばけ』か。ウタによく読んでもらってたやつだな」 「覚えてたんだ。スギナはあんまり好きそうじゃなかったよね、この話」  小さく笑うウタセから、スギナはすいと目を逸らした。 「それはウタが脅すから……」  そこにツクシが加わる。 「『野菜を食べないとおばけが出るよ』だっけ~?」  ああ、とウタセが思い出したように何度か頷いた。 「よくある文句でしょ。それで野菜を好き嫌いなく食べられるようになったんだから、良かったじゃない」  しびれを切らしたのか、ホノが「はやく」と言って、絵本をスギナに押しつけた。 スギナは顔をしかめる。 「ええ……。ウタがいるじゃん」  ホノは首を左右にぶんぶん振る。 「スギ兄は忙しくてなかなか遊んでくれないじゃない。今日くらい、いいでしょ」  フィオやツクシも追随する。 「べつにいいじゃん。読んでよ」 「へ~、スギナの読み聞かせ~? 楽しみだな~」  スギナはうっと呻くと、縋るような目をウタセに向けた。しかし、ウタセは「頑張ってね」とにこにこ笑うばかり。次いで慈乃を見るも、慈乃は目が合う前に顔を俯けていた。  「注目されるの苦手なんだけど……」などとぶつぶつ言いながらも、スギナは結局語り部を引き受けることにした。  スギナが絵本を皆に見えるように開くと、その前に半円を描くようにして皆が集まった。 「『やさいのおばけ。あるところに やさいが きらいな おとこのこが いました。』」  ラウンジにスギナの声が朗々と響き渡る。 「『おとこのこは おかあさんに「やさいを のこしたら だめだよ」と なんども おこられていましたが いうことを ききませんでした。そして のこされた やさいたちは きょうも すてられてしまいました。』」  フィオが「もったいないなぁ」と呟くのに、隣でテオがうんうんと頷いた。  スギナがそっとページを繰った。 「『そのひの よるのことです。おとこのこが ねると ゆめに たくさんのやさいが でてきました。おとこのこが びっくりしていると、にんじんが おこって いいました。「ぼくたちは きみが のこして すてられた やさいたち。」つづけて ピーマンが かなしそうに いいました。「ねえ、ぼうや。どうして きみは やさいを のこすの?」』」  ソファーに座るウタセの膝の上では、ウルフィニがいつのまにかすやすやと寝息を立てていた。 「『おとこのこは いいました。「だって にがいし、まずいから。」なすが しくしく なきました。「のこされたら かなしいよ。」かぼちゃも つられて なきました。「わたしたちは たべられるために うまれてきたのに のこされてしまったら あとは すてられるだけ。ただ たべてもらえれば それで いいのに。」』」  ホノ達が前のめりで聞くのを視界に留めながら、慈乃もスギナの読み聞かせに聞き入っていた。  スギナの語りは続く。 「『それを きいた おとこのこは いままで やってきたことを おもいだしました。そして なんて ひどいことを していたのかと おもい、やさいたちに あやまりました。「ごめんなさい。もう やさいを のこしません。」やさいたちは それを きくと「やくそくだよ」といいました。そうして おとこのこは めを さましました。そとは すっかり あさでした。』」  スギナが最後のページを広げる。 「『そのひの あさごはんにも やさいが ありました。おとこのこは やさいたちとの やくそくを おもいだして やさいも のこさず たべました。おかあさんが「えらいね」というと おとこのこは「もう やさいは のこさないよ」といって わらいました。』おしまい」  スギナが絵本を閉じると、わっと拍手が起こった。 「スギナお兄ちゃん、じょうずだね」 「ツクシ兄ちゃんと読み方そっくりだな! うまかった!」  メリルやレヤの称賛にも、スギナはどこか疲れた様子で「あぁ……」と応えるだけだった。  ウタセが悪戯っぽく笑う。 「なんだかんだ言ってちゃんと読んでくれるんだよね。ありがとね、スギナ」 「次はウタが読み聞かせやって。俺はもういい……」 「はいはい。ウルのこと、よろしくね」  ウルフィニを起こさないようにそっと、ウタセとスギナが場所を交代した。スギナがほっと息を吐く。  ウタセのまわりには、早くも新しい絵本を持ったホノや次の話を待ち望むフィオ達が集まっていた。 「次はこれ読んで!」 「ああ、これ。この前の続きかな」  ホノが差し出した絵本を、ウタセは快く受け取ると、読み聞かせを始めた。  スギナやウタセの読み聞かせを子ども達と一緒になって聞いていた慈乃は、改めて不思議な心地になった。 (言語が違うから、発音がわからないのは当然だけれど……。意味は正確にわかるのよね)  絵本に書かれた文字は棒やうずまきなどで構成された、まるで記号のようなものだ。視覚からの情報としては確かにそのように映るのに、脳で処理される情報は日本語へと変換されている。  ウタセ達が話すときも似たようなもので、聞こえてくるのは耳馴染みのない発音であるはずなのに、慈乃には日本語として理解できる。  こちらの世界に来た当初、ウタセは花の加護のおかげでお互いの言語を理解できるのだと話していた。そのおかげか、慈乃が特別不便に感じるようなことは今までになかった。 (でも……。できることなら『言の葉語』を学んでみたいわ)  純粋に、言語を学習したいという知的欲求もある。しかし、慈乃の望みを大きく後押ししたのは、もうひとつの理由だった。 (言の葉語を通して、彼らのことをもっとよく知ることができたら……)  今夜にでもニアあたりに相談してみようと心に決めて、慈乃はウタセの読み聞かせに耳を傾けた。  そのあとも数冊の絵本を読み聞かせると、ウタセは壁にかかった時計を見上げた。 「今日はもうおしまいだね」  慈乃も時計を見ると、時刻は午後五時を過ぎたところだった。 「スイお兄ちゃんがかえってくるじかん……!」  慈乃の右隣で、テオがぱあっと顔を輝かせる。左隣では、メリルがカルリアの帰りを待ちわびていた。 「ウル、起きろ。もうすぐヒイラギ達が帰ってくるぞ」  スギナがウルフィニの肩を軽く叩くと、ウルフィニはのろのろと目を開けた。 「んー……」 「おはよ。下に降りられるか?」  ウルフィニがこくりと頷くのを認めると、スギナがウルフィニの手を引きながら立ち上がった。そのままラウンジの出口に向かいながら、他の子ども達にも下へ行くよう促す。  レヤとフィオが駆けだして、スギナ達を追い抜いていく。ホノも「待ってよ!」と、後を追いかける。ツクシはスギナの隣に並んで歩き出した。  テオの手を取ったウタセが、慈乃の方を振り返る。 「そろそろみんなの下校時刻なんだ。いつも食堂で待ってるんだよ。シノも行こう、メリルもね」 「あ、はい」 「こっちだよ、シノお姉ちゃん」  メリルに手を引かれながら、慈乃は食堂へ向かった。  慈乃が食堂に着くと、ちょうど正門の方からにぎやかな声が聴こえてきた。  やがて、カルリアとガザとアヅが何やら言い合いをしながら食堂へやってきた。 「だーかーらー、あんたがそんなんだからアヅが真似するんでしょうが!」 「えー、オレだけが原因じゃないだろ。な、アヅ?」 「うーん、どうだろ?」 「ほら、アヅも否定しないじゃない」 「そこは否定してほしかった! おっ、メリルじゃん。たっだいまー!」  駆け寄ってきたメリルに、ガザはひらひらと片手を振った。メリルも破顔する。 「おかえりなさい!」  カルリアは膝立ちすると、メリルを抱きしめた。 「ただいま、メリル。今日も楽しい一日だった?」 「うん! きょうはね、スギナお兄ちゃんとシノお姉ちゃんもあそんでくれたから、いつもよりたのしかったんだよ」 「そっかそっかぁ」  カルリアに頭を撫でられたメリルはくすぐったそうな笑い声をもらした。  その様子をガザは呆れた眼差しをして眺めていた。 「オレとの扱いの差よ……」  メリルを腕の中に抱えたまま、カルリアは顔だけ振り返った。 「日頃の行いと齢を考えなさい。アヅにでもお願いすれば?」  まるでその結果が見えているかのように、カルリアは嘲笑した。安い挑発にも関わらず、ガザはアヅを勢いよく見遣る。 「アヅ!」  ガザの勢いに気圧されたアヅは引き気味に、しかし即答した。 「え……、やだよ」 「アヅ……。ここはオレに似てほしかったよ……」  ホノは得意げな顔をしてそのやり取りを見届けると、メリルを伴って慈乃に近づいてきた。 「ただいま、シノ姉。今日はメリルと遊んでくれたんだって? ありがとう」  感謝される意味がわからずに、慈乃はしどろもどろになって、なんとか言葉を返す。 「そ、んな……。大したことは、できていない、ですし……」  カルリアは緩く首を振った。 「シノ姉はそう思うのかもしれないけど。でもね、メリルがこんなに楽しそうにしてる姿を見るのは久しぶりなんだ」  言われて、メリルとの初対面を思い出す。  まだ四歳にして、二か月前に母親を亡くし、学び家にやって来たのだというメリル。彼女は悪夢を見ては、苦しみ続けてきた。慈乃もその一端を目にして、痛ましく思ったものだ。  そんなメリルの姿を側で見続けてきたカルリアはどう思っていたのだろう。  カルリアは一瞬苦々しい表情を浮かべたが、すぐに屈託なく笑った。 「いろんなことを考えるけど、それ以上にメリルがこうして笑ってくれるなら、それが一番嬉しいし、それでいいかって思う。それで、それってシノ姉のおかげだなって」  きょとんとして慈乃とカルリアを見上げたメリルを、カルリアは優しく、穏やかな瞳でみつめ返した。 「むずかしい、おはなし……?」 「メリルも大きくなったらわかるようになるよ。さ、夕飯前にお風呂行っちゃおうか。シノ姉も、後で今日あったこと聞かせてね!」  カルリアはそう言い残すと、メリルを連れて三階へと去っていった。  彼女たちと入れ替わるようにして慈乃の前に現れたのは、ガザとアヅだった。 「いやー、ご機嫌だこと。オレにだけ塩対応ってか」 「今更じゃん。 あ、シノ、ただいま!」 「ただいま! なあなあ、シノは塩対応なんかしないよな⁉」  勢い込んで訊くガザに、慈乃はほぼ反射的に身を退く。  悪いひとではないのだろうとは思うのだが、慈乃より身長はやや高く、体格も良い上に大きな声で間近に迫られるのは、慈乃にとって恐怖でしかない。  慈乃がろくに対応できないできないでいると、ガザの背後から手が伸び、その後ろ襟を引っ張った。 「はい。ガザ、近い」 「ぐえっ」 「ウタだ! ただいま!」  ウタセは「おかえり、アヅ」とアヅには微笑みかけたが、次いでガザを見る瞳は非難がましいものだった。 「フレンドリーなのは結構だけど、加減してよね」  溜息を吐きながら、ウタセは手を離す。 「ウタとかニア姉ちゃんには言われたくない台詞なんだけど……」 「僕は加減してるから」 「ええー……」  ウタセには悪いが、慈乃もそれにはガザと同意見だった。  ウタセとガザのことは放置して、アヅは慈乃の袖を引いた。 「シノ、シノ。ただいま!」  アヅがきらきらとした目をして慈乃を見上げていた。  慈乃はまだ挨拶を返せていないことに思い至った。そして、しゃがんで、アヅと視線の高さを合わせる。 「おかえり、なさい。アヅくん」  アヅは満足そうな、無邪気な笑みを顔いっぱいに広げた。 「うん! あ、聞いて! 今日ね、学舎で新しい計算を習ったんだ」  慈乃が無表情ながらも相槌を打てば、アヅは嬉しそうに話を続ける。 「オレ、すぐにできるようになったんだよ」  得意げに笑うアヅを見て、慈乃も柔らかな表情になる。 「すごい、ですね」 「でしょ⁉」  アヅやガザの賑やかさに引き寄せられるように、レヤとフィオがやって来る。その後ろには慈乃がまだ会話をしたことのない二人の男子が続いていた。  ひとりは十歳前後の、いかにも真面目そうな男の子である。鉄色の長い髪は左側に緩く片三つ編みにされており、鋭い瞳は眼鏡越しにもはっきりわかるほど理知的な瑠璃色を湛えている。  もうひとりは対照的に、軽そうな印象の中学生くらいの男の子だった。くせっ毛なのか遊ばせているのか定かではない肩ほどの長さの髪は、小豆色で、ハーフアップにセットされ、長めの前髪はピンで留めている。慈乃を映す薄墨色の瞳は、興味と警戒に彩られていた。 「アヅ兄ちゃん、おっかえりー!」 「ただいまー」  レヤ達のやりとりをちらりと見てから、真面目そうな方が慈乃を見て、小さく頭を下げた。 「話すのは初めまして、ですよね。俺はソラルといいます。今日はフィオがお世話になりました」  ソラルの半歩後ろで、中学生くらいの方が「……ども」と会釈した。 慈乃も会釈を返す。  ソラルがその少年を肘で小突いた。 「トゥナさんはいつもうざいくらいに元気なのに、こういうときばかり人見知りですか。彼女に失礼ですよ」  トゥナと呼ばれた少年が小声で言い返した。 「わかってるよ! でもこういうタイプの女の子って、どう話すのが正解なんだよ⁉」 「普通に話せばいいじゃないですか。やっぱりトゥナさんにはチャラいキャラなんて向いてないんですよ」  そこに会話を聞きつけたウタセとガザが加わった。 「トゥナって根は真面目だからね」 「困ったときはオレに相談してくれていいんだぞ!」 「やめてください、ガザさん。これ以上トゥナさんのキャラが迷走したらどうしてくれるんですか」 「ソラくん……。心配してくれてるのかもしれないけど、若干貶されてるなぁって思うのはオレだけ?」 「トゥナからの返事を期待したのに、やっぱりソラから返ってきた!」  迷惑そうな顔をしたソラル、微妙な表情を浮かべるトゥナ、どこまでもポジティブに突き進むガザと齢も性格もまちまちな男子三人は、なんだかんだといっても親しげだ。  慈乃が意外そうにその三人を見ていたからか、ウタセが横から教えてくれた。 「レヤとフィオとアヅは一緒に遊ぶことが多いから、同室のトゥナとソラルとガザも見守りがてらよく一緒にいるんだよ。それで結構仲良くやってるみたいだね」  慈乃が「楽しそう、ですよね」と相槌を打てば、ウタセも「うん、そうだね」と穏やかに笑った。  その間にガザ達の話は一区切りついたようで、ソラルにつつかれて、トゥナが慈乃の前に押し出された。  トゥナが目を閉じて一度咳払いすると、ウタセやアヅ達の視線も集まった。  そして、トゥナが目を開けた。心なしか纏う雰囲気が変わった、ような気がする。 「改めてまして、シノ姉! オレはトゥナ、十二歳。誕生日は豊穣祭と同じ日の二四〇日。どれもきれいだから一番好きな花なんて決めがたいけど、強いて言うなら……カモミール、かな。よろしくねっ!」 「赤点ですね」 「中途半端だからキマらないんだよ」 「せめてシノ姉の反応を待ってからにしてよっ!」  ソラルとガザの手厳しい評価に、トゥナがやや涙目になって抗議する。  ソラルとガザは顔を見合わせた。 「シノさんの反応といっても……見ての通りでは?」 「響いてない……いや、届いてすらいないかもな?」 「シノ姉‼」  トゥナに哀願されようとも、慈乃の表情が変わることはない。慈乃は申し訳なさそうな、困惑しているような、なんともいえない表情で視線を泳がせた。 「目すら合わせてくれない……」  実際には合わせないのではなく、合わせることができないだけなのだが、トゥナには伝わらない。  アヅは慣れているのか、大した反応は示さずに、つまらなそうに欠伸した。 「トゥナ~、もうやめなよ。毎回スベってるじゃん」 「まだ始めたばっかりだよ⁉ わかんないじゃん!」  トゥナは負けじと言い返すが、当人以外は皆一様にしらけた表情を浮かべた。  さらに横合いから、呆れた女子の声が割って入った。 「新学期早々、クラスの自己紹介で失敗してたのに、よく言うわ」 「あっ、言わないでって言ったのに、クルルちゃん!」  クルルは、薔薇色の巻き毛と瞳が印象的な少女だった。可愛らしい見た目ではあるものの、いかにも気が強そうである。今の会話から察するに、トゥナと同い年かつクラスメイトだろう。  クルルの傍らにはホノが、やはり呆れ顔で立っていた。  そこで慈乃はなるほどと思い当たる。クルルが誰かに似ていると思ったのだが、おそらくホノだったのだろう。憶測に過ぎないが、クルルの影響を同室であるホノが多分に受けた、といったところか。 「あたしが言わなくたって、みんなわかってるわよ。今後も成功することはないと思うから、傷が浅いうちにやめれば?」 「俺も全くその通りだと思います」  クルルの歯に衣着せぬ物言いに、我が意を得たりといわんばかりにソラルが鷹揚に頷く。落ち込むトゥナの肩をガザが抱いた。 「ほら、そんなに落ち込むなよー。オレが相談に乗ってやるって、な?」 「ガザ兄……」  トゥナが羨望の眼差しをガザに向ける。それを見たソラルが「トゥナさんの青春は今この時に終わりましたね」と憐れみの目をして言った。  クルルもこれ以上は救いようがないと見切りをつけたようで、ホノを伴って自室へと引きあげていく。すれ違いざま、慈乃と一瞬目が合ったクルルは綺麗な微笑みを浮かべながら、小さく頭を下げてその場を去っていった。  慈乃が振り返って、彼女達の背を見送ると、クルルの横顔が目に入った。ホノと話すクルルは、慈乃に向けた笑みとは違う、自然で楽しそうな顔をしていた。  あからさまに敵視はされていないものの、緊張や警戒をされているのがわかる。慈乃は久しく感じたことのない僅かな胸の痛みを自覚した。  クルル達に続くようにして、ガザ達も風呂だ宿題だといい、食堂を出て行った。  それと入れ替わるようにして、厨房からニアが顔を出す。 「シノー、夕飯作るの手伝ってもらっていいー?」 「あ、はい。今、行きます」  湧き起こる不安を抑え込んで、慈乃は厨房に向かった。  ツクシはその後ろ姿を首を傾げながら見つめ、ウタセとスギナは互いの顔を見合わせた。  厨房に呼ばれた慈乃は、ニアの指示に従って夕食作りを手伝った。三回目ともなると、かなり要領よく動けるようになっていた。  ニアは野菜を次々に切りながら、慈乃に話しかける。 「今日はどうだった?」  慈乃は煮汁を作ってから、予め火を通しておいた新じゃがを鍋に入れ、煮始めた。 「慣れないこと、ばかりで……大変、でした。でも、充実もしていて……、あっ」  そこまで言って、慈乃は午後の読み聞かせの時に考えたことをニアに提案してみることにした。 「このままでも、問題ないかとは、思うのですが……。こちらの言語を学ぶことは、できます、か……?」  ニアは目を瞬かせる。慈乃はたどたどしくも、理由を話し出した。 「その……、言語としての、興味も、あるのです。それと……、この世界のひと達と、同じものを通して、同じものを、見てみたい、というか……、もっとよく、知りたい、と、思ったのです……」  自分でも何を言っているのだろうと、よくわからなくなってくる。最後は自信無げに小声になってしまった。  きちんと伝わったのか不安になりながら、慈乃は恐る恐るニアを見上げる。  ニアは調理の手を止め、まじまじと慈乃を見た。 「あ、あの……、やはり、ダメ、でしょうか……」 「そんなことない! むしろ大賛成!」  我にかえったニアが、食い気味に言った。そのまま早口でまくしたてる。 「だってだって、シノがそんなこと言ってくれるなんて、びっくりしちゃった! 言の葉語を知りたい、あたしたちとも仲良くしたいってことでしょ? 嬉しい、大歓迎、ありがとう!」  慈乃に飛びつこうとしたニアだったが、右手に包丁を握ったままだったためか、思いとどまった。野菜を切る作業を再開しながら、ニアがぶつぶつと呟く。 「あたしが教えたいところだけど、適任はウタかぁ……。しょうがない、シノのことを思えば、ここは譲るかー。日本語だっけ? 勉強しとけばよかったぁ」  ニアは慈乃に向き直ると「夕飯のあとにでもウタのとこに行こっか」と晴れやかな笑顔を見せた。  夕食の席でも、初めて目にする顔があった。  慈乃の右隣に座るのはシキブという名の十歳の少女だ。ムラサキシキブの花守だという。紫式部色の髪はボブカットに切り揃えられ、黄浅緑色の瞳は穏やかな光を湛えている。  シキブの向かいにいるのは同室のライモという少女で、こちらはアヅと同い年だという。おっとりとしたシキブとは対照的に、ライモは快活で、梔子色の瞳は年相応の元気さや無邪気さに輝いている。うなじで束ねられた茅色の髪は長く、ライモの動きに合わせて軽やかにその背で揺れる。  慈乃の左隣には、シキブと同い年のサーヤという少女である。整った顔立ちに愛嬌のある若菜色の瞳、柳緑色のショートヘアはどこか王子様然としている。その容姿や面倒見がよくもさっぱりとした性格は女子に好かれる女子といったところか。  サーヤの向かいでは同室のアスキがもくもくとごはんを頬張っていた。ライモの一つ下、六歳の彼女は、無口ながらも表情豊かで、特に美味しいものには菜の花色の目を輝かせ、話を振られればにこにこ笑う。桃花色の髪は左右ひとつずつのお団子にまとめられているが、これはサーヤの気分によって変わるらしい。  慈乃の向かいにはニアが着席していて、さながら女子会のようになっていた。 「へー。じゃあ、この煮っころがしはシノ姉さんが作ったんだ」 「はい。お口に合えば、良いの、ですが」  サーヤが新じゃがの煮っころがしを口にして「ん、美味しい!」と微笑んだ。アスキは頬を紅潮させながら、一心にそれを咀嚼している。そんなアスキを見ながら、ライモが笑顔になる。 「アスキはかなり気に入ったみたいだね。わたしもこの味付け、好きだな」  ライモの向かいで、シキブが感心したように、ほうっと息を吐いた。 「お料理が上手なんて、羨ましいですぅ。私なんて、ニア姉さんに教えてもらっても、あまり上手くいかなくてぇ」 「ボクは見たことないけど、何事も練習あるのみだよ。ね、ニア姉さん」  サーヤに振り向かれたニアが、珍しく言葉に詰まる。 「えぇっと……。シキブの場合、『あまり上手くいかない』というか、ひとには向き不向きがあるというか……」 「え、後半なんて言ったの?」 「いや~、あはは……」  ニアの作り笑いでその話は濁された。サーヤは不思議そうにシキブを見たが、シキブもきょとんと首を傾げるばかりだった。  夕食の時間が終わると、自由時間になる。この時間は、ラウンジで歓談する者、自室で宿題をする者、順番が回ってきて入浴を済ませる者と様々だ。  この日、ウタセは保健室で勉強をしていた。そこへ慈乃とニアが訪ねたが、全く気を悪くすることもなく、むしろお茶まで出してくれるほどの歓迎ぶりだった。  お茶を一口飲んで、ニアが顔をしかめた。 「これ、タンポポ茶じゃない」 「ノンカフェインだから夜でも安心して飲めるんだよ」  慈乃が何も言わずにタンポポ茶を飲んでいるのを、ニアが横目で見る。 「シノ、平気なの……?」 「慣れてくると、癖になり、ますね」 「そ、そう?」  ニアはもう一口啜ってみたが「癖になる? あたしがおかしいの?」と、さらに顔をしかめていた。  慈乃は平然とタンポポ茶を飲みながら、机上を見つめた。そこには医学や薬学に関する教本や年季の入ったノートなどが山積していた。  視線に気づいたウタセが苦笑した。 「今、先生から出された課題をやってて、いつにも増して散らかってるんだ。ごめんね」  慈乃は首を振った。 「難しそう、ですね。学生も、兼ねているの、ですか?」  ウタセはきょとんとしてから、小さく笑った。 「僕の齢で学生はないかな。個人的に師事してるだけだよ。そういえば、なんか用があるとかって」 「そうそう! 聞いてよ、ウタ!」  ニアが椅子から身を乗り出した。 「シノがね、言の葉語を勉強したいんだって! ウタ、教えてあげてよ」  ウタセは目をぱちくりと瞬き、ニア、それからシノを見た。 「話の流れがわからないんだけど……」  そこで慈乃が、ニアに話したのと同じように事の経緯を説明する。聞き終えて、ウタセはにっこり笑った。 「もちろん、僕で良ければ」 「あ、ありがとう、ございます……!」  慈乃が目を輝かせて礼を述べると、ウタセははにかんだ。 「期待に副えるように頑張るね」 「よろしく、お願い、します」 慈乃の隣では、ニアが「良かったね、シノ」と微笑む。  とりあえずの予定として、明日のこの時間に保健室で勉強会を行うことになった。  本題が一段落したところで、ニアが「あ」と小さく声を上げた。 「明日といえば、二一日はウタの誕生日だよね。もう二一歳かー、早いねぇ」 「そういえばそうだね。お祝いはまとめてやるから、すっかり忘れてたよ」  ウタセがお茶を口に含んだ。ニアは手にカップを持ったまま、宙を見上げる。 「えーっと、次の誕生日会はスギナとツクシと……」 「マリとリアだね」  ウタセが後を引き継ぐ。カルリアの愛称である『リア』と聞いた瞬間、ニアの目の色が変わった。 「リアは今年で最後だし、絶対いい会にしなくちゃ!」 「だよね」  ウタセも同意する。そして、ふと何かに思い至ったように慈乃を振り返った。 「そういえば、シノの誕生日っていつなの?」  一連の会話をぼんやりと聞いていた慈乃は、名前を呼ばれてはっと我にかえった。 「え? ……四月二九日で……」  言いかけて、契約書や履歴書を書いた際に、ミトドリから教えられたことを思い出す。 (こちらの世界では、日にちの数え方が違うのだったわ)  こちらの世界には『月』というはっきりとした概念は存在しない。人間界でいうところのひと月を三十日としていて、学び家のある三番地は新年度も新年も同時に三月始まりであるのだという。つまりは、正位のときの三番地の一日は三月一日、ウタセの誕生日である二一日は三月二一日、先のトゥナの誕生日である二四〇日は一〇月三〇日となるわけだ。 同様に換算して、慈乃は誕生日を言い直した。 「……いえ、五九日、です」  お茶を飲んでいたニアがむせた。 「ニア姉、大丈夫⁉ え、じゃあ、次の誕生日会はシノも祝わないと!」 「えっ」  慈乃の驚きをどう捉えたのか、ウタセが不思議そうな顔をした。 「次の誕生日会は三一日から六〇日までの子を祝うから、シノもだよ?」 「いえ……、そうで、なく……」  慈乃が驚いた理由は、自分の誕生日を祝われることだった。 (この先、誕生日を祝われることなんて、ないと思っていたのに……)  両親が死んだのは自分がいたからで、叔父一家には迷惑な存在でしかなかった。そんな自分が誕生したことを祝福されるなんてあっていいはずがないと、『自分』をなくした日からとうに諦めていた。  まるで赦しを請うような呟きが、慈乃の口からこぼれ落ちた。 「……祝われて、良いの、ですか……?」  落ち着いたニアが間髪容れずに応じる。 「当然でしょ! 期待しててよ!」  ウタセは呆然とした慈乃の顔を覗き込み、柔らかに笑んだ。 「シノ。誕生日っていうのはその生に祝福と感謝を贈る日なんだ。だから、僕たちは心から祝うんだよ。学び家のみんなで大事じゃないひとなんていないんだもの」  慈乃は泣きたくなるような感情に心の一部を染めた。しかし、それをどう表現したらいいかわからずにただ深く頷いたら、二つの手が頭に置かれた。  その手はひたすらに優しく、あたたかいものに感じられた。  適当なところで、慈乃とニアはウタセのもとを去った。  ニアと別れて、慈乃が自室に戻る頃には入浴の順番が回ってくる時間が近づいていた。  昨日と同じ勝手で入浴を済ませた慈乃は再び部屋に戻った。  この日は終ぞカモミールの声を聴くこともなく、慣れないことだらけの一日だったせいか慈乃もすぐに眠りについたのだった。
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