第四話 休日の触れ合い

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第四話 休日の触れ合い

 次の日は五日に一度の休日で、学舎も休みだった。  とはいえ、学び家職員の一日は大きくは変わらない。慈乃(しの)はこの日も、空が白む頃に起床すると手早く身支度を整えて、仕事を始めた。  洗濯機の置かれている脱衣所の前で、ニアに会った。洗濯機を作動させて、二人は厨房へと向かう。  ニアが話題を振っては、慈乃が応える。早朝の厨房は冷えていたが、それが気にならないくらいには慈乃も会話に夢中になっていた。その間にも朝食づくりは着々と進んでいく。  朝食の時間が近づくにつれて、食堂の方から聞こえる声も増してくる。調理を終えた慈乃とニアも厨房を簡単に片づけてから、その輪に加わりに行った。  厨房を出てすぐの食堂の壁際にもたれるようにして、スギナが立っていた。 「……はよ」 「おはよう、ございます」 「おっはよー、スギナ! もうみんな集まった?」  スギナは目を細めてニアを見た。今朝も眠そうだ。 「大体はな。休日恒例でタムとヨルメイだけいないけど」 「やっぱりか。しょうがない、あたしも加勢に行ってくる。シノもおいで」 「あ、はい……?」  どこに行くのかわからないまま、慈乃はニアの後に続いた。  食堂を出て厨房、スギナの部屋の前を通過し、三階へと階段を上がる。さらに廊下を進むこと、慈乃の部屋の三つ隣の部屋の前で、ニアは足を止めた。  ニアが扉を軽く叩いた。 「ヨル、大丈夫?」  すると、部屋の中から扉が押し開けられた。  そこに現れたのは小さな女の子だった。年の頃はアスキと同じくらいだろうか、まだ小学生になったばかりだと思われる。優しげな面立ちだが、雰囲気はしっかり者のように感じられた。灰桜色のおさげ髪と、眼鏡がよく似合っている。眼鏡の奥で、白鼠色の瞳がぱちぱちと瞬かれた。 「ニア姉さん。それに……シノ、姉さんも。おはようございます」 「おはよう。タムってば、まだ起きないんでしょ。もう朝ごはんの時間だから、あたし達も手伝うよ」  ニアの申し出に、ヨルメイは明らかにほっとする。 「助かります……。もう私ひとりじゃ起こせなくて、どうしようかと」  ヨルメイの声には朝だというのに、やや疲労の色が滲んでいた。 「あの子は基本寝てるけど、休日の朝の寝起きは悪いったらないから」  ニアは部屋に入ると、スタスタと隅の布団に近づいた。広げられたままの布団では、中学生くらいの少女が気持ちよさそうに眠っていた。彼女がタムだろう。  ニアに布団をはぎ取られ、両手を引っ張られたタムが立ち上がりながら、ゆっくりと目を開ける。瞳はきれいな萩色だった。瞳と同色の、肩上ほどの長さの髪は緩い天然パーマのようで、ふわふわとしている。  タムは首をゆらゆらとさせながら、半覚醒状態で「おは、よう……?」と呟いた。  ニアが呆れた溜息を吐いた。 「はい、おはよう。ヨルを困らせるのはやめてあげてよ。もう朝ごはんの時間だから、早く下りてきてね」 「うん……。わかった……」  タムはぼんやりしていたが、会話はできていた。慈乃は内心ほっと息をついたが、ニアもヨルメイも険しい表情をしていた。  どうかしたのだろうかと慈乃が不思議に思ったのも束の間、クローゼットに向かっていたタムの動きが止まった。すかさずタムが声をかけた。 「タム姉さん!」 「……おは、よう?」 「お願いだから、今は寝ないでください!」 「うん、頑張る……」  タムはそう言う最中にも寝そうになっていた。そんな彼女にニアとヨルメイが必死になって呼びかけ続ける。その甲斐あって、タムを食堂に誘導することに成功したのだった。  朝食前のひと騒動の他には特に大きな変事もなく、朝食の時間は穏やかに過ぎた。  その後、慈乃がニアと一緒に洗濯物を干すために園庭に出ようとすると、シキブとサーヤが後を追ってきた。  先に追いついたサーヤが爽やかに笑った。 「洗濯物、手伝うよ」  ニアは慣れているのか、世間話をしながら連れ立って外に出た。  物置小屋の側、物干し竿の前には、先客がいた。ウタセとツクシと、慈乃の見知らぬ少年の三人だ。  シキブが両手を合わせて、微笑んだ。 「先に来ていたのねぇ、ヒーさん」 「……ああ。男子組の方が、早かったから……」  少年は振り返ると、慈乃の存在にも気づいたようで、常盤色の長めの前髪に隠された白色の瞳を見開いた。しかし、すぐにのっぺりした顔に戻る。無表情とも異なる、淡白な表情だった。  数瞬の間、宙を見つめたかと思えば、少年は徐に口を開いた。 「……そうだ、シノ姉さん」  ぼそぼそしゃべるのに、よく透る声だ。決して大きな声ではないのに、明瞭に聞き取れる。 「はじめましてのひと……」 「は、はじめまし、て……」  少年のペースに戸惑いながらも、慈乃はなんとか挨拶した。少年は頷きを返した。 「自分は、ヒイラギ。ヒイラギの花守。愛称は、ラギ……。よろしく……」 「ラギはこれで、面倒見のいい、おおらかなやつでね」 「同室のウルさんはもちろん、同い年の私達にもよくしてくれるんですよぉ」  本人が与える情報より、仲の良いサーヤとシキブの与える情報の方が多い。慈乃は、彼のことを独特の雰囲気を持つひとだと感じていた。  ヒイラギは話し切ったとばかりに、元の方向に向き直ると、洗濯物干しを再開した。「……そう、新しいひと……」「多分、いいひと……」「……ああ。ウルも、なついてたから……」などと独り言を言いながらも、手際よく干していく。  その様を眺めながら、ツクシがのんきに欠伸をした。 「ラギくんはボクより上手だね~」 「なに他人事みたいに言ってるの。ツクシも手を動かしてよね」 「ええ~」  ウタセに注意されて、ツクシは渋々ながらも作業に加わった。  ニアが呆れたように笑ってから、慈乃達を振り返った。 「あたし達もやろうか」 「任せてよ」 「頑張りますぅ」  慈乃もひとつ頷いて、洗濯物を干し始めた。  四人でやれば、作業はあっという間に終わった。慈乃達とほぼ同じタイミングでウタセ達も洗濯物を干し終えたようで、七人は揃って生活棟に戻る。  その短い道中でさえも会話が尽きない。  最後尾を歩くウタセが、皆を見渡した。 「今日はみんな何する予定なの?」  サーヤが左右に並ぶシキブとヒイラギに目配せしてから、口を開いた。 「ボク達三人は街に行くんだ。ミト兄さんには許可をもらってあるから、すぐに出るよ」 「そうなんだ。気を付けてね」  ウタセが微笑めば、三人とも「うん」と答えた。 「ニア姉さん達は何かするんですかぁ?」 「あたしはお菓子作りでもしようかと思ってる」  シキブは残念そうな顔をした。 「私もやりたかったですぅ」 「またの機会にね。適当に声かけてるんだけど、ウタ達はどう?」  シキブ達の後ろでニアが隣にいた慈乃、後ろにいたウタセとツクシを振り返る。  ツクシは興味がなさそうだったが、ウタセはぱっと顔を輝かせた。 「ボクはいいや~」 「お菓子づくりなんて久しぶりかも! やりたいやりたい!」 「お、ほんと? ウタがいると助かるんだよねー。シノは? 特に予定がないなら一緒にやろうよ」  ニアの申し出に、やや躊躇いながらも慈乃はゆっくり頷いた。 「……でしたら、はい。私も、参加させて、ください」  慈乃の返事をきくなり、ニアは慈乃の手を取って飛び跳ねる。 「やった! シノは料理上手だし、頼りにしてる」 「僕も、楽しみだな!」  ニアに負けず劣らずの喜びようで、ウタセも足取り軽く慈乃達に近づいていった。  ひとり最後尾に残されたツクシは、春の陽を浴びて心地よさそうに欠伸をしていた。  ニアは籠を慈乃に預けると、準備をするべく先に厨房に向かった。洗濯物を入れていた籐の籠を脱衣所に返してから、慈乃も厨房に行く。  どうやら慈乃が最後の参加者だったらしく、厨房には既にニア、ウタセの他にもクルル、トゥナ、ヨルメイ、アスキ、ホノがいた。常にない人口密度のせいか、やや圧迫感もあるが、作業進行には問題なさそうだった。  慈乃の姿を目に留めたクルルは軽く会釈こそしたものの、すぐにトゥナとホノとの会話に戻ってしまった。 昨日と同様、無礼とも異なる、線引きをしているような態度に、慈乃の胸にちくりとした痛みが走った。  距離は置かれるけれど、それ以外には良くも悪くも何もない。慈乃に対するそのような態度は、以前は慈乃の日常であり、慈乃自身慣れてしまえばなんとも思わなくなった。  だから、今更『悲しい』などとは思わないはずだ。  慈乃は、一瞬だけの胸の違和感は気のせいか何かだと思い、気にしないよう努めることにした。  まもなくニアが開始の声をあげる。  予め計量された材料が、三組調理台に置かれていた。そのうちの一組には慈乃とヨルメイとアスキ、隣の一組にはクルルとホノ、さらに隣の一組にはウタセとトゥナと自然に組み分けされた。  ニアは全体の様子を見つつ、指揮をとる。 「まずは小麦粉に砂糖と植物油を加えて混ぜます!」  ヨルメイとアスキは仲良く丁寧に材料を混ぜるので、慈乃は特別手出しをせず、見守るに留めた。  クルルとホノも慣れた手つきで協力して作業をしている。  その隣では、ウタセがトゥナに生暖かい視線を送っていた。 「うっ。そ、そんな目で見ないでよ、ウタ兄!」 「僕の方を見てないで、手元を見ようね」  トゥナの周辺は粉っぽく、やや煙っていた。  混ぜる役をホノと交替したクルルが、白けた目をトゥナに向ける。 「料理男子はモテる、だっけ? トゥナには無理なんじゃない?」 「これから上手くなるんだよ!」 「どうだか。うん、ホノは上手ね」  クルルは肩をすくめてから、ホノの方に向き直った。  ウタセのアドバイスを受けながらもトゥナがなんとか生地をまとめ終えると、ニアが次の指示を出す。 「次は麺棒で生地を伸ばしまーす」  ヨルメイとアスキにとって麵棒は大きく、扱いづらいようで、苦戦していた。 「うーん。ボコボコしちゃうね……」  ヨルメイがアスキに同意を求めると、アスキが困った顔をして頷いた。そして、慈乃を見上げた。ヨルメイが意を察して、同じように慈乃を見た。 「シノ姉さん、お願いしてもいいですか」 「はい。もちろん、です」  慈乃が快く頷けば、二人とも安心したように笑った。  生地を均一に伸ばす慈乃を指して、「ほら、シノをお手本にして」とウタセは言うが、トゥナはなかなか手こずっているようだった。 「トゥナも終わった? そうしたら型抜きするから、好きな型使って」  調理台にいくつか並べられた型は、全て花を模したものだった。桜、梅、樹は慈乃にもなじみがあるものだったが、他にも型はある。ニアによると、ペチュニア、スミレ、イチョウなどらしい。  ヨルメイ達は思い思いの型を選んでは、生地をくり抜いていく。  楽しげな様子を眺めつつ、慈乃も時折型抜きをした。  型抜きが終わったら、生地を焼いていく。  皆は食堂で歓談をして焼き上がりを待つことにした。 「それにしても、ウワサ通りだったよ」  そう言ってトゥナが慈乃を上目づかいに見た。  慈乃が首を傾げると、トゥナは続けた。 「シノ姉が料理上手だって話。美味しいのは食べてわかってたけど、やっぱり手際もいいんだなーって」 「そう、ですか?」  慈乃としては特別なことをしたつもりはなく、お菓子作りは普段の料理の延長線上の行為という意識しかなかった。  慈乃が変わらず涼しい顔をしていたからか、トゥナが嘆息した。 「真の料理上手になれる日は遠いかも……」 「え、あ、その……。トゥナくん……は、久しぶりに、やったのです、よね。私は、よく、できていたと、思いますよ……?」  慈乃が本心から言えば、トゥナはばっと顔を上げた。 「モテてる⁉」 「違うでしょ」  皆が口をそろえて否定する。慈乃も小さくかぶりを振った。  厨房の方から微かにクッキーの焼ける香ばしい香りが漂ってくる。それにつられるようにしてレヤを背負ったガザと、左手にフィオ、右手にアズを引き連れたソラルがやって来た。 「美味そうなにおいじゃん。なに、クッキー?」 「朝、勇ましく宣言されてましたが、その後どうですか、トゥナさん」 「……料理男子街道まっしぐらだよ!」 「どこを見ているんですか。今の間はなんですか」  ガザの背から降ろされたレヤとソラルの手から離れたフィオが、ホノのもとへと駆け寄る。三人は楽しそうに会話に興じ始めた。  残されたガザ、ソラル、トゥナはなおも話し続けていた。 「でも、シノ姉には褒められたし」 「へー……」 「そうなんですねー」 「うっわ! ふたりとも信じてないでしょ! ちょっとシノ姉、なんとか言ってやってよ」  トゥナが振り向くものだから、自然慈乃も彼らの会話に加わることになる。 「はぁ。トゥナくんは、頑張っていました、よ……?」 「なんで疑問形⁉ 断じてはくれないんだ」  ガザとソラルがトゥナに向ける視線は、ますます疑わしいものになる。 「え? 深い意味は、ないです、けど」 「シノ姉、手強いね……」  トゥナはひとり難しい顔をして、腕を組んだ。  そんなトゥナは放っておいて、ガザが楽しげに慈乃に話しかける。 「今日はシノも参加してたんだ。オレもやってもよかったかもなぁ」  慈乃が意味を図りかねていると、傍らにいたソラルが呆れたような溜息を吐いた。しかしながらその顔には、どこか面白がるような色があった。 「ガザさんは飽きませんね」 「おうよっ! いろんなやつと仲良くなれた方が絶対楽しいって。家族ならなおさらさ」  輝くばかりの笑顔を湛えて、ガザは言い切る。 「ガザさんといると退屈しないですよ」  微苦笑を浮かべるソラルを、ガザは満足げに見た。 「だろ。ってことで、せっかくの休日だし、この後なんかできない、シノ?」 「それは、構いませんが……。でも、何を、しましょう」 「うーん、何しよっか」  ソラルは今度こそ呆れた溜息をついた。 「やっぱり計画性がないですよね、ガザさんは」 「とかなんとかいってー。ソラが助けてくれるって、オレは信じてるぜ」 「まったく。調子のいい……」  そうは言いながらも、ソラルも一緒になって考えだしてくれる。  慈乃も何かないかと考えを巡らせてみる。しかし、如何せん一人っ子で幼少期を過ごし、学校という集団生活にもなじめなかった慈乃にはこれといった名案は浮かんではこない。  三人で頭を悩ませているところに、声が降ってきた。 「三人仲良く悩み事?」 「ウタさん」  声の主はにこりと微笑んだ。  ガザがここぞとばかりにウタセにも事の経緯を説明し、何かないかと訊いてみる。  すると、案外すんなりと答えが返ってきた。 「じゃあ、お願いしたいことがあるんだ」  内容を聞く前に、クッキーの焼きあがる音がした。そのため詳しくは午後のお楽しみということになり、ひとまずは出来立てのクッキーを楽しむことにした。  どのクッキーの出来栄えもよく、十時のおやつの時間は大盛況のうちに終わった。  片付けも済ませたウタセは一度食堂から出て行ったものの、すぐに模造紙と小箱を抱えて戻って来た。  ガザが訝しげに目を細める。 「これが『お願いしたいこと』?」 「うん、そうだよ。あ、シノ。紙広げるの手伝ってもらっていいかな」 「はい」  言われるがまま、床の上に模造紙を広げていく。  現れたのは、いくつにもつながったマスだった。マスの中には字が書かれている。そのすべてが手書きだった。  それを見たソラルが眉間にしわを寄せる。 「すごろくですよね、これ。しかも手作り感満載の」  ウタセは小箱の中から、これまた厚紙で作ったさいころと紙粘土で作ったコマを出していく。 「それも手作りなんだ……」  トゥナが何とも言えない表情でさいころとコマを見つめていた。 「この間からツクシとスギナと三人で作ってたんだよ。ようやく完成したから、試しにやってみてほしくて。……絶対、改善点があると思うから……」  最後の方はウタセにしては声が小さく、慈乃には聞き取れなかったが、概要はわかった。  準備を終え、すごろくが始まった。  しかし、順番を決めた直後に早速問題が起こった。 「このコマ作ったの絶対ツクシだろ!」  ガザの持つコマは妙に芸術的センスに溢れていた。人、いやこの場合は妖精の顔が忠実に再現されていたのだ。二立方センチメートルほどの大きさしかないのに、よくもここまでできたものだと、慈乃はかえって感心してしまう。 それが人数分、小箱から出されている。顔は老若男女、大きな特徴をもってして異なっていた。  一番目のガザはキメ顔の美青年の顔、二番目の慈乃は優しげな母親らしき顔、三番目のソラルは山姥の顔、四番目のウタセは好々爺の顔、五番目のトゥナは泣き叫ぶ赤子の顔をそれぞれ手に取った。 「あの箱の中にもまだコマはあるんだよな?」 「あるよ。あと五個」 「こわっ」  さすがのガザも確認する気にはなれなかったのか言うに止めた。さりげなく箱を覗いたソラルは、本気でひいていた。 「まあまあ、ゲームを始めようよ」  ウタセがその場ととりなすことで、ようやく始まった。  ガザがさいころを振る。 「やった、六じゃ……」  視線で追ったマスには『最初に戻る』の指示。  ガザはコマに触れることなく、自分の番を終えた。 「……ツクシぃ」 「調子に乗るなってことでしょうか。意図しているかはともかく、ツクシさんらしいですね」 「次はシノ姉だね」  トゥナに促されて、慈乃がさいころを振ると一が出た。 「一、ですか……」 「は⁉ このマス、ラッキーじゃん!」  幸先があまり良くないと思っていた慈乃だったが、ガザの声につられて該当するマスを見る。そこには『もう一度さいころをふって偶数がでたら七のマスに進む』と書かれてあった。 「この救済措置……、スギナか」 「さすがですね」  ガザとソラルの感嘆の声を左右に聞きながら、慈乃は再びさいころを振った。 「あ、二。偶数、です」 「うおーっ。まだ始まったばっかりだけど、なんだろう、この敗北感!」  慈乃の右隣では、ガザが文字通り頭を抱えていた。 「次は俺ですね。……四が出ましたよ」  ソラルが出した四のマスの指示を、トゥナが読み上げる。 「なになに。『現在トップのマスにとぶ』」 「あ、それ、僕が書いたやつだね」  ウタセはにこりと笑った。かたやガザは遠い目をしている。 「すごろくにしては序盤からぶっ飛んでるけど、ツクシのインパクトが強すぎて、なんかそうでもないような気がしてくるな……」 「感覚が麻痺してますよ。次はウタさんですね、はい」 「ありがとう」  ウタセはソラルからさいころを受け取ると、それを振る。 「……五だね。『次のひとはとばす』。あぁ……。その、ごめんね、トゥナ」 「完全に飛び火だよね⁉」  一巡目は慈乃とソラルをトップに、二巡目に入った。  気を取り直して、ガザがさいころを振った。出た目は三だ。 「お、なんもないマスだ」  続いて、慈乃がさいころを振ると、またしても一が出た。 「また、一、です」 「『反対回りになる』ね。じゃあ、次はガザだね」 「やりぃ」  ウタセに促されたガザは嬉々としてさいころを振る。 「三が出た。ってことは、トゥナはとばす、と……」 「ウソでしょ⁉ オレまださいころにすら触れてない!」  その間にも、ウタセは先に進めていた。 「えぇっと、六進む、と……『現在最下位のひとの好きなところを伝えよう』。あぁ、書いた書いた」 「すごく平和的だしウタらしいとは思うけど、ある意味罰ゲームなんじゃないかと思うのはオレだけ?」 「ウタさんはこういうところがありますからね。本人はよかれと思ってやってるんでしょうけど」  慈乃の両隣で囁かれている話題のウタセは恥ずかしがる素振りもなく、むしろ爽やかな笑顔を湛えて、トゥナの好きなところを挙げていた。 「なんだかんだいって真面目なところかな」 「まっ、真面目じゃないよ! オレはチャラくなってモテるんだから!」  言われたトゥナの方が顔を赤くしていた。 「言われた方が罰ゲームだったか……」 「というか照れ隠しが下手すぎやしませんか」 「う、うるさいな! 次はソラくんでしょ、早く!」 「はいはい。えー、五ですね。『一回休み』だそうです」 「はいっ、次はシノ姉の番!」  トゥナに急かされて、慈乃がさいころを振ると五が出た。 「……?」 「『イメチェンせよ』? どういうことだ?」 「見た目を変えろってことでしょうか」  皆が戸惑うのを察して、ウタセが説明する。 「もちろん見た目でもいいし、話し方を変えるとか、雰囲気を変えるとかでもありだよ」 「雰囲気を変えるってどういうこと?」  トゥナが首を傾げて、ウタセを見上げた。 「例えば僕なら無表情で黙り込む、とか?」 「うーん、確かに雰囲気変わるね……」  傍らでしばし考え込んでいたソラルがふと顔を上げる。 「シノさんがやるとなると、敬語をやめるとかがわかりやすいですかね」 「えっ」  慈乃の困惑を知ってか知らずか、ガザは腕を組んで唸っていた。 「見てみたい気はするけど、想像はつかないな」 「私も、です」 「シノ姉が言っちゃうんだ、それ」  トゥナも思わず苦笑してしまった。 「あ、だったら簡単に見た目を変えない?」  手を打ったウタセは、立ち上がると慈乃の背後に回った。 「あー、なるほどな」  得心がいったガザはひとり頷く。  ソラルも察したようだったが、やや苦い顔をしていた。 「ウタさんだから許されるものの……」 「え? なんか言った?」 「いいえ。トゥナさんには真似できないと思っただけですよ」  心底不思議そうなウタセに対して、ソラルは涼しい顔をしていた。 「シノ、ちょっと髪貸してね」 「え」  慈乃が慌てているのも気に留めず、ウタセは言うが早いか慈乃の髪をいじりだす。 「あ、昨日の髪紐使ってくれてるんだね。嬉しいなぁ」 「あのっ……」 「シノって髪おろしてばっかりだから、たまにはアップにしてみてもいいと思うんだよね」  相変わらずの手際の良さで、ウタセは慈乃の髪をまとめ上げていく。  結局、慈乃に有無を言わせる間もなく、ヘアアレンジは完了した。  サイドで三つ編みを作って、ポニーテールと一緒に結われたらしい。 「はい、完成っ」  ウタセは元の座に戻った。  慈乃を見て、ソラルは目をまるくしていた。 「確かにイメージが変わりますね」  ガザもうんうんと頷く。 「似合ってるじゃん。な、トゥナ」 「うん」 「トゥナさん、こういうところですよ」  ソラルが呆れ交じりに指摘した。  皆の反応を受けて、ウタセも満足げだった。 「イメチェン成功だね」  素直な称賛に加え、ウタセからはまっすぐすぎる笑顔を向けられて、当の慈乃はなんと答えたものかと、ただ曖昧に頷いた。 「次はオレね。……四。『五七五で今の気持ちをどうぞ~!』……いや、どうぞっていわれても、今の気持ちを?」 「このテンションはツクシさんですね。ろくなマスがないですね」  ガザはまもなくばっと顔と右手を同時にあげた。 「んー、あ、はいっ! 調いました!」 「早いね。どうぞ」  ウタセに促されて、ガザはひとつ咳払いする。 「試しにと やってはみたが はや後悔」  トゥナは激しく首を縦に振った。 「右に同じく」 「ガザさんとトゥナさんの気持ちはわかりますが、字余りじゃないですか」 「まーまー、細かいことはいいだろ?」 「だよねぇ。うん、僕もそういわれるんじゃないかなとは予想してたんだ」  すごろくに対する酷評に反対するどころか、製作者のひとりまでも同意していた。 「作った面子が面子ですからね」 「ツクシが暴れるからだよね、やっぱり」  ウタセは悩ましそうにしていたが、ガザ達は白い目をウタセにも向けていた。 「それだけじゃないだろ」 「自覚がない分、質が悪いですね」 「もし作り直すならオレ手伝うよ」 「トゥナに言わせるって、このすごろくかなりの問題作なんじゃ?」 「いまさらですけどね。ほら、やっとトゥナさんの番ですよ」 「待ってました! 出ろー、四っ!」  トゥナは持て余したエネルギーを一投にこめるように、さいころを勢いよく振った。 「丁寧に扱ってねー」 「あ、はい」  ウタセに注意されて、トゥナは素直に頷いた。  その間にさいころが止まった。出た目は六だった。そのマスは言うまでもなく『最初に戻る』である。 「~~っ!」  床に拳を叩きつけるトゥナを今更慰める者はいなかった。もはや運がないとしかいえない。  続いてウタセがさいころを振ると四が出た。行き着いたマスには『ものまね』と記してある。 「せっかくならこの中の誰かにしようか」 「いいけど、勇気あるな」  ガザが若干身を退いた。 「じゃあ、ソラのものまねにするね」 「……どっちが罰ゲームでしょうか」  ウタセのまっすぐな視線を避けるように、ソラルは顔を逸らした。 「はい、いきます。『フィオ、楽しく食べるのは構いませんが、もう少し落ち着いたらどうですか。それにまたピーマンを残して。ほら、箸の持ち方がおかしいですよ。この間も言ったでしょう。箸はこうやって持つんです、こう。そうです、やればできるじゃないですか』……どう、似てた?」 「似てないです!」  ソラルが珍しく大声をあげる。ウタセを睨む目は鋭いものだった。  それに慈乃が驚くのを目の端に捉えたソラルは、「すみませんでした」と言って落ち着きを取り戻した。 「ソラくんはそういうけど、オレはそこそこ似てたと思うよ?」 「ウタってやっぱりまわりをよく見てるよなぁ」 「似てたなら良かったよ。ほらほら、ソラの番だよ」 「いえ、俺は一回休みなので、次はシノさんです」 「あ、そっか。はい、シノ。どうぞ」 「ありがとう、ございます」  ウタセから手渡されたさいころを振ると、六が出た。 「『マイブームは?』、ですか……」 「当初の目的これだったよな。やっぱり仲良くなるには自己紹介からでしょ」  考える慈乃を、ガザは期待に満ちた目で見つめる。 (特にこれといって思いつかないわ……。やっぱり、私は薄っぺらい……)  慈乃の表情が曇りがちになっていくのを見かねたウタセが助け舟を出した。 「そういえば、シノは言の葉語に興味があるんだったよね。教えるのは今日からだけど。それってマイブームにならないかな」 「あ……」  俯けていた顔を上げると、優しく微笑むウタセと目が合った。 「そう、ですね」  慈乃が頷くと、ガザ達も興味を示してきた。 「言の葉語に興味? 母国語の研究でもすんの? ん? でも今のウタの言い方だと、ウタがシノに言の葉語を教えるってことか?」 「ええ。私の母国語は、言の葉語では、ない、ので……」 「でも、わざわざ勉強しなくても別段困らないですよね。花の加護もあるし、なにより現状不便していないんでしょう?」 「はい。ですけど、皆さんと同じ、景色を見てみたい、といいますか……」  上手い言いまわしが思いつかずに、なんとなく尻すぼみになってしまう。しかし、聞いていた皆は納得したようだった。 「シノ姉は真面目だね。うん、頑張ってね! オレ応援するよ」 「俺も、頑張ってるひとは好きですよ。早く上達するといいですね」 「ウタが教えるなら出る幕なさそうだけど、オレにもできることあったら協力するぜ」 「皆さん……」  まさか応援されるとは思っていなかった。予想外の反応に、慈乃は呆然とするばかりで、かろうじて「……ありがとう、ございます。頑張り、ます」とだけ口にした。  皆、段々と慈乃の人となりがわかってきたからか、言葉数こそ少ないもののそこに込められた精一杯の慈乃の思いには気づいてくれたようだった。 「そうだ。シノ姉の母国語もいつか教えてよ」 「はい」  穏やかな空気を感じながら、ガザがこれみよがしに溜息を吐く。 「こういうのを求めてたんだよ。あんな罰ゲームみたいなのじゃなくてさ」 「まったくです。次はガザさんですよ」 「ほいほいっと。……うおっ、三⁉ 一回休みじゃん」 「次はオレだね」  トゥナがさいころを振ると三が出た。まだ誰も止まっていない三のマスには『最近あった嬉しかった出来事は?』との質問が提示してあった。 「嬉しかったこと……」  トゥナは数秒間考えてから、「あ」と顔をあげた。 「身長が伸びてたんだ!」 「成長期だもんね。まだまだ大きくなるよ」  誇らしげなトゥナに、ウタセが柔らかい微笑みを返す。 「そのうちミト兄を抜かすんだ」 「なんだか想像できませんね」 「ははっ。まずはオレを超えてみろ!」  仲睦まじい三人組のやり取りを横目に見ながら、ウタセがさいころを振る。 「二だから、一七マス目だよね。……えっと、『座右の銘は?』ね。もちろん『笑顔が一番』だよ」  ウタセは屈託ない笑みで、迷わずに答える。  ガザ達も知ってたといわんばかりな反応で、慈乃も彼らしいなと思った。  「このまま平和に終わってくれればいいんですけど」と呟きながらソラルが出した目は二だ。そこには『大吉~✿ 良かったね~』との、ただのツクシからのメッセージがあるのみだった。 「それだけですか」  ソラルはやや拍子抜けしたようだった。 「うん。ただのツクシの占いだからね」 「当たらなそうな占いだな」  ウタセが解説するのに対し、ガザは半眼でマスを眺めやった。 「次はシノさんですよ」 「あ、はい」  出た目は六。二五マス目には『好きな食べ物は?』と書かれていた。 「……たまご焼き、です」  慈乃は躊躇いがちに答えた。  正確には『母の作ったたまご焼き』だ。  決して凝った料理ではないけれど、家庭によって味付けは様々だという。慈乃は他所の家庭の味は知らないが、自分の母の作るたまご焼きが一番好きだった。  出汁の風味と醤油のしょっぱさ、それに卵そのもののやさしい甘さも感じられる。  慈乃も何度か母の味を再現してみようと試みてみたが、似たような味にはなっても同じ味にはならなかった。  好きな料理には違いないが、もう二度と食べることはできないと思うと悲しい気さえして、胸中は複雑だ。そんな思いが回答する口を鈍らせていた。  ウタセが慈乃をちらと見遣る。敏い彼のことだから、何かしら察することもあったのだろうがそれにはあえて気づかないふりをして、ただ明るく感想を口にした。 「たまご焼きかぁ。シノが好きっていうなら作ってあげたかったんだけどなぁ」  ウタセの右隣でソラルが首を傾げた。 「それってそんなに難しい料理なんですか」 「作るのは難しくはないんだけど、材料がないから作れないなって」  ウタセが苦笑して答える。この世界には動物がいない。鶏がいないから、卵もないということだろう。 その左隣ではトゥナが軽く身を乗り出して、慈乃をじっとみつめていた。 「それってウタ兄が凝ってる『和食』ってやつ? ますますシノ姉が不思議になってくよ」  その視線に居心地悪くなって、なんとなく目を逸らしてしまった。  慈乃がこちらの世界にやってきた理屈としては最初にウタセが推論していた通りで、人間界から来たことを言っても大して問題はないとフロリアが話していたということはミトドリから聞いていた。  しかし、慈乃にはあちらの世界にあまりいい思い出がない。そのため、積極的に出自を打ち明けようという気にはなれなかった。 「もしかして、ウタ兄とシノ姉の生まれたところは同じところなのかな」 「……それは、ない、と思いますが」  門と気が同調してはじめて世界間の通行が可能になるのに、そんな偶然はそうないだろう。トゥナの示唆した可能性は限りなく零に等しい。 「トゥナ、あんまり困らすなよな」  言いながら、ガザはさいころをトゥナに手渡した。 「オレは休みだから、早く投げちゃって」 「あ、うん」  せっつかれるようにしてさいころを振る。出目は四、なにもないマスだった。 「つまんねーな」 「トゥナさんくらいは面白いマスにとまってくれないと」  ガザとソラル、ふたりにため息を吐かれたトゥナは困り顔だった。 「ええ~……」 「次は僕だね。……はい、五。あっ、『現在トップのひとの好きなところを伝えよう』だね」 「うわ、出た」  序盤の罰ゲームのような有様を思い返して、ガザが引き気味に呟いた。それを受けて、ウタセは不満そうに口を尖らせる。 「出たって……、さっきのは最下位のひと、今のはトップのひとだからちょっと違うんだよ?」 「そういう問題じゃないんだよなぁ」  ガザは天を仰いでから、諦めたように息をついた。 「まあ、いいや……。今回はオレじゃないし」 「シノさん、お気の毒です……」  ソラルは憐みの目で慈乃を見るが、慈乃自身はといえばそこはあまり気にしていなかった。それよりも自分に褒められるような良いところなどあったろうか、そちらの方が気がかりで仕方ない。ウタセには申し訳なくすらあった。  しかし、慈乃の心配をよそに、ウタセは僅かに逡巡したのみで、すぐにぱっと笑顔になった。 「シノはあんまり感情を表に出さないけど、たまにはっきりわかるほど優しい顔をするんだよね。僕ね、その表情がすごく好きなんだ」 「……」  ウタセがすぐに答えられたことにも、その内容にも、慈乃は驚いていた。  そして、自分がそんな表情をしていたことがあったということを初めて知った。 「シノのその反応、やっぱり無自覚だったんだね」 「ウタ兄、わかるの……⁉」  トゥナが隣を振り仰ぐ。ウタセは小さく頷いた。 「なんとなく、驚いてるんじゃないかなーって」 「言われてみたら、ラギも驚いたときはこんなようなリアクションだな」  ガザも、ウタセと慈乃を交互に見て、何か納得した様子だ。  向こうの世界では、表情の乏しい慈乃に対して何も言わないにしても奇異の目で見る人間は珍しくなかった。周囲の人間が当たり前にできる感情表現が慈乃にはどうしても難しかったのだが、それに理解を示してくれる人は両親を亡くして以来、慈乃の側にはいなかった。  それがここには、慈乃のささいな表情の変化に気づいてくれるひとがいる。その性質を個性の一部として認めてくれるひともいる。  皆の当たり前が自分にとっての当たり前でないことは、悪でもなんでもない。ましてや蔑む必要などないのだと、僅かばかり心が救われ、自分を赦せるような気がした。 「すごくいい話になってるよ……。オレの時はこんなんじゃなかったのに」 「まあ、トゥナさんですからね」 「ああ、トゥナだからな」  肩を落とすトゥナに対して、ソラルもガザも相変わらずな対応をするのみだ。  ソラルは言いながらさいころを引き寄せて振った。 「あ、六ですね。……『豆知識をひとつ』ですか」  ソラルは慈乃をちらりと見ると、「せっかくですから」と切り出した。 「シノさんはカモミールの花守なんですよね」  唐突に水を向けられて、慈乃は戸惑いつつも頷いた。 「カモミールはジャーマン種とローマン種に品種が大別されているんです。ジャーマン種はカモミールティーに向いていて、ローマン種はポプリに利用されることが多いそうですよ」  そう言うソラルはやや得意げだ。聞いていた皆も「へー」と感心したような声をあげた。慈乃も我がことながら新しい発見に目をまるくした。 「そういえば、シノがカモミールの花守っていうのは聞いてたけど、品種はどっちなのか分かるの?」  ウタセが疑問を持って、慈乃をじっと見た。 慈乃はカモミールの声を思い出しながら、ゆっくりと首を縦に揺らした。 「確か……ジャーマン・カモミールだと、本人達は、言っていました」 「ジャーマンってことは、お茶になるって方?」  ガザの確かめるような声に、ソラルは「そうですね」と答えた。  そんなソラルをトゥナはまじまじと見つめる。 「それにしても、さすがソラくん。昨日今日で調べたんだ」 「……気になるじゃないですか。それだけです」  何が言いたいとじっとりとした視線でトゥナを見つめ返すソラルの頬は少しだけ赤くなっているように見えた。 「気になるって、シノ姉が? それともカモミールが?」  純粋に気になっているだけだろうトゥナの問いかけに、ソラルはぐっと言葉に詰まったようだった。やがてため息を吐き、視線を逸らした。 「……。トゥナさんは無自覚にそういう意地悪をしてきますよね」 「えっ、結局どっちなの」  トゥナがソラルに言われっぱなしにからかわれるだけの関係かとも思っていたが、そうではないらしい。意図せずにトゥナはソラルを翻弄していて、それでバランスがとれているようだった。  微笑ましい光景に、慈乃の眼差しがふっと柔らかなものに変わる。  年齢差にとらわれず対等な関係を築くふたりは、友人というよりも本当の兄弟のように見えた。  慈乃には兄弟姉妹はいない。それどころか家族というものにすら縁遠くなって久しい。  トゥナとソラルを見ていると、羨ましくすらなった。そんな感情すら、久しぶりに抱いたような気さえする。  両親を失って、はじめのころはどこかの家族を見かけると悲しくなった。そのうち、心を鎧うように何も感じないようになった。  それが今は、淡くではあるがあたたかい気持ちにさせられる。  自身の心境の変化に、慈乃はまるで他人事のように不思議なものだと思った。  こちらの世界に来てからまだ一週間とも経たないのに、本当にたくさんの人間らしい感情を思い出せるようになった。自らの身にこんな出来事が起こるなんて、いったい誰が予想できたろう。 「いい、ですね」  自然と零れ落ちた慈乃の小さな呟きが、その場に滲むように広がる。  トゥナとソラルは二人揃って顔を上げ、ガザは僅かに目を見開いて「ウタが言ってたのってこういう……」となにやらぶつぶつ言っていた。  ウタセは慈しむような眼差しを慈乃に向けた。 「何かいいものを見つけたって顔だね」  どうしようもなく『いいもの』を共有したい衝動に駆られる。慈乃は言葉に迷いながらも、感じたままを口にした。 「『家族』……というものに対して、私はある時から、ずっと……いい感情は、持って、いなくて……。でも、ここに来てから、……少しだけど、自分が変わりつつあるように、思うんです。血の繋がりとか、年齢とか、そういうものを越えて……、学び家の皆さんは『家族』、なんだなって。それが、あたたかくて、羨ましくて……、私自身、こんなことを感じるなんて、意外、ですけど……」  聞いていた四人は顔を見合わせた。  トゥナが首を傾げながら、慈乃を見上げた。その顔は訝しげだ。 「なんか今の言い方だと、シノ姉は学び家の家族じゃないみたいに聞こえるんだけど」 「それは……」  慈乃が言い淀む。  確かに慈乃は学び家の職員にはなったのだから、家族の一員だと言ってもおかしくはない。しかし、まだ数日を共に過ごしたくらいで家族だと断言できるほど、慈乃の心臓は強くはない。  ウタセがとりなすように苦笑した。 「シノが遠慮しちゃうのもわからなくはないけどね。でも」  次の言葉を継ぐ前には、ウタセは力強い輝きを湛えた瞳で、慈乃をまっすぐに見つめた。 「シノは確かに学び家の家族のひとりだよ。今そんなに親しくないのはむしろ当然だし、これから仲良くなっていけばいいだけなんだから、ね?」  ウタセの言葉に勇気づけられるように、慈乃は「はい……っ」と深く頷いた。 「ちょっと気難しいのとか、とっつきにくいのもいるにはいるけど、心配しなくても大丈夫だって。少なくともオレ達はシノのこと、姉ちゃんだと思ってるしさ!」  ガザの一片の曇りもない眩しいばかりの笑顔は、慈乃の心の雲まで払うようだった。 ガザの隣ではトゥナが安心したように笑っていた。 「だよね。オレだけ家族だって思ってるなんて悲しいだけだし、良かった」  ソラルは何も言わなかったが、穏やかな表情で相槌を打っていた。  心から受け入れてくれていたという安堵と彼らの優しさに胸がいっぱいになって、慈乃はしばらく顔を上げられそうになかった。  慈乃が落ち着いたところで、すごろくは再開した。  慈乃の番なのでさいころを振ったら、二が出た。行き着いたマスには『そろそろ飽きてきたな~』というツクシの独り言が書かれていた。  ガザはそのマスをしげしげと眺めやった。 「三十マスのすごろくにしては結構時間かかってるよな」 「五人だからかな」 「これって試作品なんでしたよね。改良の余地しかありませんね」 「とはいえ、ここまでやったんだし、ひとりゴールするまでは続けてみようぜ」  そう言いながら、ガザはさいころを投げ上げた。着地したさいころの上面は一を示していた。 「ちぇー、一だけしか進めないのかよー。出た出た、イメチェンマス」  ソラルがマスとガザを交互に見る。 「どうするんです?」  ガザは腕を組んで唸っていたが、やがて方向性を決めたようで、ぱんっと手を叩いた。 「ここはソラとシノを見習って、丁寧な言葉で話してみるか」 「確かにガザさんはあんまり言葉遣いが良くありませんしね。印象が変わると思いますよ」 「……ソラ様は丁寧な口調ですけれど、毒を含みまくっていやがりますね」 「それは丁寧な言葉とは違うんじゃないかな……」  ウタセがため息まじりに呟いた。  傍らでは、トゥナが既にさいころを振って、コマを進めているところだった。そして、止まったマスの指示を確認して、困ったような素振りを見せた。  どうしたのだろうと慈乃もマスを見た。そこは序盤でウタセが止まり、トゥナに被害を与えた『現在最下位のひとの好きなところを伝えよう』のマスだった。 「最下位ってオレなんだけど」 「ということは、トゥナ様自身の好きなところを暴露すると、そういうことですね!」 「暴露って悪意のある言い方だなぁ……。まあ、なんでもいいんだったら、そうだなー。時間や期限は必ず守るところ、とか?」  トゥナはあまり深く考えずに答えた。恐らくは素で答えたということだろう。 「なんっだよ! ただの真面目くんじゃん!」 「ガザさん、丁寧な言葉遣いを忘れてます」 「ね、言ったでしょ。トゥナはなんだかんだいって真面目だって」  皆の反応を受けて、自身の失言に気づいたトゥナははっと我にかえって、あたふたと弁明を始める。 「違っ! 時間とか過ぎると気持ち悪いから、守れてる方が気分がいいからで……!」 「言い訳するほど墓穴が深くなってますよ」 「ひーっ! トゥナ、最高!」  ガザは言葉遣いを取り繕うのもすっかり忘れて、腹を抱えて笑っている。  賑やかな雰囲気を楽しみながらも、自分の番が回ってきたウタセはサクサクとすごろくを進める。  六が出たようで、慈乃の止まるマスを一マスだけだが追い越した。二十八マス目には『非常に丁寧な言葉遣いでゲーム終了まで話すべし』と書かれていた。 「ひっ、ひーっ! 何、この集団。五人中四人が丁寧語使うとか……っ!」  一度笑い出したら止まらないようで、ガザは苦しそうに笑い続けていた。 「オレだけアウェイ感半端ない……。おかしいよ!」 「真面目なトゥナさんも丁寧語集団に仲間入りしますか?」  ニヤニヤ笑うソラルを見て、トゥナは「いい! やらないし!」とムキになっていた。 「はいはい、ソラ殿。次は貴殿の番ですぞ」 「ウタ様……っ。なんかっ、違くはありませんか……っ?」  ガザは目に涙を浮かべていた。 「た、確かに敬ってはいるんだろうけど、それって丁寧語なんでしょうか……ひー、お腹痛い……!」  ウタセは動じることもなく、真顔でガザに意見する。 「しかし、ガザ殿。そうはおっしゃるが、多少の差異があった方が面白味があるのではなかろうか」 「ま、待って……くださっ! その感じで話しかけられたら、ほんと、笑いが止まんな……っ!」  慈乃がついていけずに一人どうしたものかと考え込んでいると、自分の番を終えたソラルが涼しい顔をして、慈乃にさいころを手渡してきた。  ちらりと見えたソラルのコマである山姥は、特に指示のないマスに止まっていた。 「疲れてますか?」  表情に反して、声音は慈乃を案じているようだった。 「疲れている、というより、……慣れなくて、どうしたら、いいのかと」  慈乃の返答に、ソラルは微かに笑ったようだった。 「同じです。俺も最初の頃はこういう空気が苦手でした。嫌というよりは、どう反応したらいいかわからなかったんです」  ソラルは、一瞬遠くを見るようにして目を細めた。そうして振り返った時には、ソラルの瞳は慈乃をしっかりと捉えていた。 「無理して輪に入ろうとしなくていいと思いますよ。引っ張り込まれるときは引っ張り込まれるし、こうして眺めているだけでも楽しいと思いませんか?」 「そう、ですね」  仲間外れにされているわけでも、自分が浮いているわけでもない。この空間に自分の存在を認められるからこそ、ソラルの伝えたいことにも素直に共感できた。 「シノさんは昔の俺に少し似てます。だからかな、やっぱり放っておけませんでした」  苦笑気味に言ってから、慈乃の番だと催促した。 「四です……あ、ゴール……」 「わっ、ほんと⁉ おめでとう、シノ!」  途端にウタセはいつもの様子に戻ると、賛辞と拍手を送ってくれた。 「色々あったけど、これはこれで思い入れが生まれちゃったなあ」 「これはこのままにしておいて、新しいのを作ればいいと思うよ」  トゥナがさいころやコマを箱に仕舞いながら、提案する。  ガザの言った通り色々あったけれど、結果的にはお互いを知るいい機会になったと慈乃も内心で同意していた。  すると、ソラルが振り向いた。 「改善点はたくさんありますからね。シノさんも手伝ってくれるでしょう?」 「……はい。楽しみ、ですね」  慈乃は自分が家族の輪のなかにいることを感じ取っていた。  すごろくを片付け終えると、ちょうどお昼前だった。  今日の昼食は平日より量も数も多いから、手が空いているようなら厨房に来て手伝ってほしいと、今朝ニアには言われていた。  すごろくは食堂でやっていたので、厨房はすぐ隣だ。  すごろくを片付け始めたあたりから、厨房からは物音がしていたので昼食の準備はもう始まっているのだろうと、慈乃はやや慌てて厨房に顔を出した。  ニアは慈乃がやって来たことに気が付くと、調理の手は止めないままに視線だけを上げた。 「盛り上がってたじゃん。何してたの?」 「すごろく、です。試作品らしくて、テストゲームをして、いました」 「そういえば、前にツクシ達が作ったとかって話してたような。見てはみたいけどやりたくはないや。やばそう」  ニアはカラリと笑うと、慈乃に汁物を作るように指示しながら、自身は調理棚に手を伸ばした。 「あれ、砂糖ってこれで最後だったっけ」  今朝の時点ですらそれほど残量はなかったのに、午前中のお菓子作りでも砂糖を消費したので残りは僅かとなっていた。 「うーん、でも休日の街は混むからな……」  何か独り言を言っているのは慈乃にもわかったが、物音の多い厨房では内容までは聞き取れない。ニアは珍しく悩むように唸っていた。  そのとき、厨房と食堂を繋ぐ出入り口から、スイセンがひょっこりと顔を出した。 「ニアさーん。そろそろテオ達を集めてきても大丈夫ですか?」  ニアは気づかずに「行かないと、明日の朝が困る……? よねー」とため息をついていた。  スイセンは奥にいた慈乃にどうしたのかと問いたげな目を向けてきたが、慈乃にもわからないので首を傾げるしかない。  スイセンは厨房に入ってくると、ニアの肩をちょんちょんとつついた。 「ニアさん?」 「うっわ! なんだ、スイ? どうしたの」  肩を大きく揺らして、ニアは勢いよく振り向いた。  スイセンは困ったとも呆れたともつかない表情でニアを見上げた。 「どうしたってぼくが言いたいんですけど」 「いやー、砂糖を切らしそうで。でも予備を買い忘れてたんだよね。かといって、休日の街はできれば避けたいなー、なーんて」  いたずらが見つかった子どものように、目を逸らしがちにニアは説明する。  スイセンは僅かに思案した後、「午後でよければぼくが行きましょうか?」と申し出た。 「え、いいの?」 「午後にテオと街に行く約束をしてたので、そのついでです」 「さっすが、スイ! これが他のひとならあたしが街に行くことになってた」  作業が一段落した慈乃がニアとスイセンのもとに近づくと、話はまとまりつつあるようだった。気になった慈乃は思い切って、声を掛けてみることにした。 「何か、考えていたようですが……?」 「ああ、うん。最後の砂糖が切れそうなんだけど、休日の街は嫌だっていう話をしてたの」  「それでしたら、私が……」と慈乃が言いかけたところで、まだ慣れない街の、それも初めての休日に、午後という限られた時間で一人迷いなく買い物ができるとは思えず、口から出かかった言葉を飲み込んだ。  ニアは察して、少し笑った。 「ありがとね。でも、シノみたいな女の子を休日の街に放り込むなんて所業はあたしにはできない……うん、できない」  なんだか慈乃とニアの懸念事項は微妙に食い違っているような気もするが、どのみち結果は同じだ。 (早く慣れて、買い物くらい任せてもらえるようにならないと……!)  慈乃が新たに心を決していると、横でスイセンが小さく挙手をしていた。 「ニアさん……。その扱いはシノさんも困るのでは?」 「だって、シノって押しに弱そうじゃない! 街に出たら最後、ちゃんとここに戻ってこられるのかお姉さんは心配なんです!」  スイセンはニアの気迫にのまれながらも、怯むことなく意見する。 「そ、そうですか……? まあ、それは置いておいて、いい機会ですし、今日はぼく達と街に行くっていうのはどうでしょう? シノさんの勉強にもなるし、ニアさんもそれなら心配ないですよね」 「強かなやつめ……」 「いいじゃないですか。口実だけってわけでもありませんし、休みの日じゃないとシノさんと遊べないんですから」  いたずらっぽく笑うスイセンを見て、ニアは大きなため息をつくと、慈乃へと振り向いた。 「シノがいいならね。午後なんだけど、予定は?」 「いえ、ないです」 「やった。テオもきっと喜びます」  スイセンの屈託ない笑みにつられて、慈乃も午後が楽しみになってきた。  昼食後、ミトドリに話を通してから、慈乃はスイセンとテオとともに街へと繰り出した。  慈乃にとってはたった二日前に訪れた街は、休日によるひとの多さのせいか違う場所のように思えた。  ひとの賑わいはもちろん、商店の活気も一層増し、花々が彩る通りの景色までもが鮮やかに映る。  圧倒されつつもスイセン達とはぐれないように、慈乃は必死になって彼らの背を追っていた。  時折、スイセンが足を止めては後ろを振り返り、テオも「シノお姉ちゃん、だいじょうぶ?」と声を掛けてくれた。  そんな彼らの気遣いのおかげもあって、ひとごみが苦手な慈乃もなんとか無事に目的地にたどり着くことができた。 「夕方になるとますます混んでしまうので、まずはおつかいを済ませてしまいましょう」  スイセンは意外にも慣れた様子で、中年男性の店主に注文をした。店主は「スイくん、またおつかい? 偉いね~」と言いながら、会計をし、注文分の砂糖とおまけの飴までくれた。 「ありがとうございます」  スイセンが愛想よく笑うと、店主も笑顔を返した。 「いいっていいって! 今後ともごひいきに。テオくんと、ん? 姉ちゃんは初めて会ったか?」  店主はテオを見て目を細めていたが、慈乃に目に留めると目をまるくした。  慈乃は緊張しながら、小さく頭を下げた。 「は、い。……慈乃、といいます。よろしくお願いします」 「シノさんは最近学び家に来た職員さんなんですよ」  スイセンがさりげなく慈乃を前に出しながら、紹介をした。 「ご丁寧にどうもな。俺はここの店主をやってるトーヤだ。よろしくな、シノちゃん」  トーヤは商売人らしい気持ちの良い笑みを浮かべた。 「買い物はもちろん、顔を見せに来てくれるだけでも歓迎するさ。近所のおじさんだと思ってよろしくしてくれると嬉しいよ」  まもなくトーヤは客に呼ばれたので、慈乃達を送り出すと店の奥へと戻った。  さすがに七つ年下のスイセンに重い荷物を持たせるのは申し訳ないので、慈乃は歩きながら控えめながらも荷物を持つことを申し出た。  しかし、スイセンは有無を言わせぬ笑顔でもって、断固として拒否した。彼曰く、己の信条に反するらしい。最終的に「ここは男のぼくを立てると思って、お願いします」といわれてしまっては、慈乃も折れるしかなかった。  砂糖の代わりに慈乃に手渡されたのは、おまけでもらった飴だった。 「ちょうど三つもらったので、ひとり一個ずつですね。はい、テオにもあげるね」  スイセンは、慈乃とは反対隣にいるテオにも飴を渡した。 「ありがとう、スイお兄ちゃん」  テオは嬉しそうに、ふんわりと笑った。 「そういえば……。私達は、どこに、向かっているのですか?」  ふと疑問に思って慈乃が尋ねると、スイセンとテオが顔を見合わせた。 「あれ、言ってませんでしたっけ?」 「おはなやさん」 「お花屋さん?」  テオが口にした答えは意外なものだった。慈乃が思わずおうむ返しすると、スイセンが詳細を語ってくれた。 「ぼく達の部屋に飾るんです。学び家にある花でもいいんですけど、たまにはあまり目にしない花を買って飾りたいねってテオと話してたんですよ」 「おこづかいもためたんだよ」  学び家ではあまり額は大きくはないものの、子ども達にもお小遣いが支給されている。小さく胸を張るテオの姿は非常に微笑ましかった。 「スイセンはぜったいいれるんだ」 「あはは……。テオが言うなら、仕方ないか」  テオの希望をしぶしぶ了承するスイセンの反応に、慈乃は首を傾げる。 (スイくんはスイセンの花守だったはずよね……。花守は自分の司る花が好きなものだとばかり思っていたけれど、違ったのかしら?)  慈乃のきょとんとした顔を、スイセンが不思議そうに見返した。 「シノさん? どうかしました?」 「えっと……。スイくんは、スイセンの花があまり……好きではない、のかな、と……」 「ああ、そう見えました?」  スイセンは苦笑気味に答えた。 「花守な以上、スイセンは好きですよ。なんですけど……、ちょっと煩い、といいますか。ほら、花の精の性格って花言葉に依るところも大きいじゃないですか。スイセンの場合、それが顕著で」  花の精の性格が花言葉に影響されているという話は初耳だった。カモミールにもそれが反映されているのだろうか、と思い至ったところで、カモミールの花言葉を知らないことに気づいた。すごろくの時にも実感したが、カモミールのことくらいはもっと詳しくならなくては、と慈乃が反省している間にも、スイセンの話は続いていた。 「スイセンは水面に映る自分の姿に恋い焦がれ、叶わぬ恋の苦しみより死んだ少年・ナルキッソスの化身といわれています。これに由来して、スイセンの花言葉は〈うぬぼれ〉〈自己愛〉というわけなんです。自己愛者のことをナルシストといいますよね、それです」  スイセンはここまで一気にまくし立てたかと思うと、大きなため息をついた。 「これが本当にすごくて。シノさんも花守だからわかると思うんですけど、花の精の言葉って意識していないときでも普通に聞こえますよね」  カモミールの花の精が時々語りかけてくる現象を思い出して、慈乃は頷く。聞きたいと思っても応えてくれないこともあれば、突然声が届くこともある。気ままな存在だと思う。 「スイセンが近いところにある時は、スイセンの花の加護が強まるからなのか、それとも自分の姿を見て酔っているだけなのか……。とにかく、自画自賛や自慢が止まらないんです」  心なしか、スイセンの顔色が悪い。相当堪えているようだ。 「なので、できれば近くに飾るのは避けたいんです。でも……」  スイセンが悩まし気な視線を向けた先には、純粋な眼差しで彼をじっと見つめるテオの姿があった。  テオからしてみたら、慕っている兄の司る花なのだから、スイセンは外せないのだろう。  スイセンにもそれがわかっているから無下にはできないでいる。それは、スイセンに気が弱いからではなく、彼の優しさ故だと、慈乃には思えた。  同時に、自分とは似ているようで、その実、全く反対だとも思った。  もし、慈乃がスイセンと同じ立場にあったとき、慈乃もまたテオの期待に応えようとするだろう。しかし、それはテオを思いやってのことというよりも、自身の気の弱さ故に断り切れないからではないだろうかと想像できた。  ふとした拍子に自己否定のような思考回路に陥ってしまう自身に気づき、慈乃は頭を振った。 (今は、関係ないでしょう……!) 「ついたー!」  テオの無邪気な声に引き戻されて、慈乃は顔を上げた。  目の前には小さいながらも、華やかさに目を惹かれる花屋があった。  オレンジ色が眩しいガーベラ、優しげなピンク色のスイートピー、印象的な赤色のカーネーション、春を予感させる黄色のナノハナなどの切り花やいくつものモモの花をつけた切り枝が店内奥に置かれており、真っ白な花をこんもりと咲かせるノースポール、凛とした紫色が美しいカンパニュラ、白とピンクのグラデーションが可愛らしいラナンキュラスなどの鉢植えが店外の軒先に並べられていた。店先の目立つところにはミニブーケやリース、バスケットなども少しずつ飾られている。  この街らしくて、とても絵になる光景だと慈乃は感嘆の息を吐いた。  テオが花に駆け寄る後を追うように、スイセンと慈乃も花屋に入る。  テオが真っ先に興味を抱いたのはスイセンの花で、指をさして振り返った。 「あったよ、お兄ちゃんのおはな!」  スイセンは花を見て一瞬だけ不快そうな表情を浮かべたものの、すぐにテオに向き直ると優しく微笑んだ。 「うん、スイセンだね。黄色と白色と、どっちにしようか」  テオは目の前に並ぶ黄色の花と白色の花をじっと見てから、スイセンの顔を見上げた。そこで悩む素振りを見せたが、それも僅かの間だった。 「こっち。スイお兄ちゃんとおんなじいろ」  テオが選んだのは白色のスイセンだった。彼の言うように、スイセンの髪と瞳の色は、花弁の白色と副花冠の黄色をそっくりそのまま写し取ったかのようで美しい。 「わかった、白だね。他に入れたい花はある?」 「あとはねー、お姉ちゃんの……えっと、かも……、カモミール? いれたい」  スイセンは困ったように、慈乃へと振り返った。 「ぼく、カモミールってあまり見かけたことがないんですけど、この時季の花屋にあるものなんでしょうか」 「少なくとも、花期はまだ、ですが……」  そんな二人の様子に気づいたのか、店員の女性がどうしたのかと訊いてきたので、スイセンがカモミールを取り扱っているのか尋ねた。店員は申し訳なさそうに眉を寄せて言った。 「すみません。うちではカモミールなんて珍しい花は取り扱っていないんです。私が小さい頃にはまだあったんですけど、出回り期はもう少し先だったと思います」  スイセンがお礼を言うと、店員は「ごゆっくりどうぞ」とその場を離れた。  テオも雰囲気で事情を察したようで、残念そうな顔をしていた。 「仕方ないね。違うのにしようか」  スイセンに促されて、じっくりと花の吟味をしたテオは、青紫色の愛らしいムスカリ、ほんのりピンク色をしたひらひらのスイートピー、明るい黄色のナノハナを選んだ。  まとまりはないものの、小さな子どもらしく色とりどりの花で束ねられたミニブーケは彼らの部屋にきっとよく似合うだろう。  テオは小さな花束を両手で大事そうに持った。  スイセンはそんなテオの様子に満足げに笑った。 「それじゃあ、花がしおれる前に帰ろうか。シノさんも、それで大丈夫ですか」  特に異論はなかったので慈乃が首を縦に振ると、スイセンはゆっくりと学び家の方角へと歩き出した。  夕方にさしかかった街は、昼間以上にひとでごった返していた。 「はぐれないように、手をつなごうか」 「うん」  本当の兄弟のようで心が和むな、とぼんやり二人を眺めていた慈乃に、手が差し出された。腕を辿り、僅かに視線を下げると、いつの間に反対隣に回り込んでいたのか、にこりとした笑顔のスイセンと目が合った。  慈乃の戸惑いをよそに、スイセンはさらりと言った。 「両手が空いているのはシノさんだけなので」  つまり、慈乃を真ん中に手をつなごうということか。 「テオはそっちね」  スイセンは荷物を左手に抱え直し、空いた右手で慈乃の左手を取った。  テオも花束をそっと右手に握ると、左腕をいっぱいに伸ばした。  遠慮がちに二人の手を取る。慈乃は両手に伝わる自分より高い体温が、自らの心を温めてくれているように感じていた。  住宅街も半ばを過ぎる頃には、家屋よりも花園のほうが目立つようになってきた。  ひとびとの喧騒が遠ざかる代わりに、葉擦れや小川のせせらぎの音が耳に届くようになる。広い花園に、清涼な風がすっと通り抜けた。  テオは地面を注視しながら、そこここに生える草花を追うように歩いていくので、足は自然とあぜ道から花畑の方へと向かう。手を引かれるようにして、慈乃とスイセンも花畑に足を踏み入れた。  下草を踏みしめる度に小さな光がふわりと舞い上がる。光は本来透明なのか、夕陽の橙色を反射して同じ色に輝いていた。  テオは時折立ち止まっては、草花をじっと見つめる。彼は知っている花を見つけると嬉しそうに慈乃に教えてくれ、わからない花に出会うとスイセンに花の名前を尋ねた。  テオのペースに合わせてのんびり歩いていると、後ろから聞き覚えのある声がした。 「仲良く手をつないで並んでると思ったら、スイ兄さん達だったか」  振り返ると、今朝街へと出かけて行ったサーヤが笑顔で手を振っていた。彼女の隣には、ヒイラギとシキブの姿もある。 「あらあら、お花屋さんに行ってきたんですかぁ」  シキブがテオの右手に握られた花束を目に留めて、手をあわせた。 「いいですねぇ、春らしい組み合わせだわぁ」 「……スイセンもある。選んだのはテオかシノ姉さん?」  ヒイラギはスイセンの性格を知っているからか、彼が自らスイセンを選ぶことはないだろうとある程度予想しているようだった。  テオは嬉しそうに、ぱっと顔を輝かせる。 「うん、ぼくがきめたんだよ」 「そうか……。テオらしくて、いいと思う」  ヒイラギは淡く微笑むと、優しい手つきでテオの頭を撫でた。テオがくすぐったそうに笑う。  サーヤはその様子を目の端に映しながらも、慈乃を見上げた。 「でも、シノ姉さんまで一緒とはね。今朝は外出するなんて言ってなかったのに」 「今日のお昼に、急遽、決まったので……」  慈乃がかいつまんで経緯を説明すると、「ニア姉さんらしいというかなんというか」とサーヤはため息まじりに呟いた。  そうこうしているうちに、夕陽の色はますます濃くなり、反対の空の端も群青色に染まり始めていた。 「あんまり遅くなると怒られちゃうし、まっすぐ帰ろうか」  スイセンの言うことに素直に従ったテオは、今度は花に気を取られて足を止めることなく、学び家への道を歩いていった。  昨日と同じ時間である夕飯と入浴の間の自由時間に、ウタセを先生とする言の葉語勉強会は開催された。  保健室にはウタセの淀みない解説の声が響いていた。 「文法は同じで、日本語の五十音を言の葉語の五十音に置き換えていけばいいだけなんだよ。発音もちょっと似てるかも。あとは、名詞の定義が違うときがあるくらいかな」  予め用意していたらしい資料を机の上に置き、ウタセは日本語の五十音表の右上を鉛筆の尻で指した。 「例えば、日本語の『あ』に対応するのが」  もう一枚の資料に書かれた五十音表の右上を指す。 「この縦棒で書かれたので、発音は『ャア』」 「『ャア』……?」 「うん、そんな感じ」  ウタセが顔を上げて微笑む。自信のなかった慈乃は、その笑顔に少しだけ安堵した。確かに音は『あ』に近いが、口にしてみるとなかなか難しい。 「次は『い』。言の葉語では『ャイ』」  資料に目を戻したウタセが次に指したのは横棒で書かれた文字だった。 「『ャイ』……」 「上手上手。そしたら『う』だね。バツ印を書いて、『ャウ』って読むよ」 「『ャウ』」 「『え』はこれ。書くときはプラス記号、発音は『ャエ』」 「『ャエ』」 「そうそう。この行の最後が『ャオ』」 「『ャオ』」  あ行を一通り終えると、ウタセは小さく拍手した。 「よくできました」 「なんだか、疲れて、しまいそうです……」  日本語とは口まわりの筋肉の使い方が違う。  ウタセは慈乃の感想を聞いてからから笑うと、「まだまだ先は長いよ」と言って、左隣のか行を指した。 「ここからはあ行を母音に、子音だけを変化させていくよ。日本語と同じだね」  指された文字は五回の角をうずまきのように内側に折れた記号のようなものの右側に『ャア』の縦棒を添えたものだった。『クーャア』と発音するらしい。この発音が崩れれば『か』に聞こえないこともない。  か行は子音を表すのに四角いうずまきを書き、発音は『クー』で固定されているとのことだ。そこに文字なら右側に母音を添え、発音は子音の後に置くということらしい。  さ行は二周の曲線うずまき『スィー』を子音に、母音は書くときはうずまきの下側に、発音はか行と同じく子音の後に置く。 このようにウタセの指導は続いていった。 「『ん』だけは特殊で、『ンーノン』って言って、上向き三角形の中に小さな下向き三角形を書くんだよ」 「なんとなく、わかってきました」 「ほんと? 良かった。さて、あと少しだね、頑張ろう!」  続けて、小文字、濁音、半濁音を習っていく。言の葉語での基本を抑えられれば、ここは日本語とよく似ていてあまり難しくなかった。小文字は弱く発音し、書くときは四角形で囲む。濁音は例えば『クーャア(か)』なら『グーャア(が)』で、文字の下側に二重線を引く。半濁音も濁音と似たようなもので、『フィャア(は)』なら『プィャア(ぱ)』となり、文字を二重丸で囲むといったものだった。 「五十音ができたら大体問題ないと思うよ。あとは、名詞のギャップだけど……。これはその都度でいいんじゃないかな」  ウタセが鉛筆を置きながら質問はないかと訊いてきたが、彼の丁寧な解説のおかげでわからないことなどはなかった。 慈乃が首を横に振ると、ウタセは壁掛け時計をちらりと見た。 「じゃあ、今日の授業はここまでってことで。ありがとうございました」 「あ、ありがとうございました……!」  慌てて慈乃が頭を上げ返すと、先に頭を上げたウタセがくすくす笑って、慈乃を見ていた。 「たった数日なのに、慈乃は大分変わったね」 「そ、そう、ですか……?」  人目から見ても、そのように評価されるほど自身が変わったのか。慈乃ですら、少しずつ変わってきたような気がする、くらいの自己評価だったので、ウタセの意見には首を傾げてしまった。 「最初はあんまり声を出さなかったし、目に見えるわかりやすい反応もあんまりなかったから。今は声に出して返事もしてくれるようになったし、さっきのも慌ててるなってはっきりわかったよ」 「それは……、多分、ここにいるひと達が、私の知る、人間のように……残酷でないとわかってきた、から、だと思います……」  反射的に手を強く握る。慈乃の知り合った妖精が優しい者たちばかりであることに安心する反面、過去に知った人間の残酷さを思い出すと恐怖心が湧き上がってくる。 「……人間は、まだ怖い?」  ウタセの硬い声が降ってくる。 慈乃は自身の拳を見つめながら、考え考え、思いを吐き出した。 「ひどい人間ばかりでは……ない、のかもしれません。でも、私の周りに、そんな人はいません、でした。だから……、信じられない、です。私は、変わりかけているだけで……変わったのではない、と思い、ます。もし、また、あの世界に戻されたら……、以前の私に、戻ってしまう、でしょう……」 「……そう、だよね。ごめんね、変なこと聞いて」  気のせいか、ウタセの声がどことなく沈んだものに聞こえた。  ウタセにしては珍しい反応だと思った慈乃が思わず顔を上げると、ウタセは寂しそうな表情をしていた。慈乃の視線に気づいた途端、すぐにいつもの彼らしい雰囲気に戻ったが、その一瞬目にしただけの光景がどうしてか瞼の裏に焼き付いて離れなかった。  なんとなく気まずいような気がして、慈乃は何も言えないまま頭の中でぐるぐると考えていた。  今の表情に意味があったのか気にはなるが、慈乃に訊く勇気はない。そこで、別に訊きたかったことがあるのを思い出した。 「あの……、昨日から、気になっていたのですが……」 「ん? どうしたの?」  やっぱり見間違いだったのか、ウタセはいつも通り穏やかに微笑んでいた。 「なぜ、日本語について、こんなに、詳しいのですか……?」 「……前に和食に興味があるって、話したよね。そうしたら日本語がわかるほうが何かと便利でね」 「それは……すごい、ですね」  和食をよく知るために日本語を勉強したのか。あまりの熱量に、慈乃は自分には真似できそうにないと内心、舌を巻いた。 「そうかな?」  ウタセは曖昧に笑うに留めた。  その後も少し話していたが、いい時間になったのでさすがに切り上げることにした。  この後もウタセは保健室に残るらしい。  慈乃は扉の前で振り返ると、言い残していたことを伝えようと小さく息を吸った。 「ウタセさん」  慈乃を見送っていたウタセは、その呼びかけにはっとしたように目を見開いた。 「なかなか言い出せずに、ギリギリになって、しまいました……。それに、お渡しするようなものも、なくて……、申し訳ないのですが。お誕生日、おめでとう、ございます」  決して大きな声ではなく、距離もあったが、ウタセにはきちんと届いたようだ。彼はにっこりと笑った。 「ありがとう。その気持ちが一番嬉しいよ。……それに、名前」 「え?」 「初めて名前呼んでくれたから、それがプレゼントだよ」  子どものような無邪気な笑顔を浮かべるウタセは、本当に嬉しそうだった。  慈乃はあまり他人の名前を呼ぶのが得意ではない。  いつからか、抵抗感を抱くようになったからだ。  もともとの内気な性格もあるが、名前を呼ぶことは相手に一歩踏み込むような行為である気がしたし、自分のような存在が他人様の名前を呼ぶなんて申し訳ないとも感じていた。  しかし、こちらに来てからは不思議とその抵抗感が薄れていた。  勉強会の別れ際のウタセの嬉しそうな顔を思い出す。  名前を呼ぶだけであんなにも喜んでくれるとは予想外ではあったが、悪い気はしなかった。  それにしても、と慈乃は自室で昨日今日を振り返った。  昨日は研修メインで働いた。まだ学舎に通えない子ども達と大縄跳びやだるまさんがころんだ、かくれんぼ、読み聞かせなどをしてかなりの時間をともに過ごした。  今日は休日ということもあって、普段は学舎に行っている子ども達にこぞって話しかけられた。お菓子作りにすごろく、外出までした。そして、言の葉語を教えてももらった。 たった二日間で、ずいぶんとたくさんの触れ合いがあった。時間ではなくその密度が、慈乃に変化をもたらしたのだった。 ずっと、明日なんてどうでもいいと、いっそ自分が消えてしまえたらどんなにか楽なのにと、そう思っていた。 けれど、今は明日が来るのを怖いとは思わない。 (明日は、どんな一日になるのかしら)  淡い期待を胸に抱きながらも、やはり身体は疲れていて、眠りはすぐに訪れた。  意識が夢に落ちる寸前、慈愛に満ちた囁きが聞こえた気がした。 『シノ、おやすみなの~』『また明日なの~』
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