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「ねぇ」
冷房が効いた部屋で、空白の進路調査書と向き合い始めて三十分。隣で呑気に漫画を読んでいる拓也を呼ぶ。
拓也は漫画から顔を上げ、私と真っ白なままの紙を交互に見やって、盛大にため息を吐いた。
「……提出明日までじゃなかったか?」
「……うん」
かちかち、と。無意味にシャーペンの芯を出し入れしていれば、耳障りだったのだろう。シャーペンを没収された。
「……ずっと考えてたの。熱中症で倒れて。近所の人に助けられて。私が助かったのってお父さんのおかげでしょ」
ぽつりぽつりと独り言の様に零す言葉を拓也は真剣な顔で聞いてくれる。
「家族の私達よりも、名前も知らない子を選んだ事が許せなかった。お母さんとお兄ちゃんを悲しませて不幸にした事が許せなかった」
「うん」
「……正義感とか。警察官としての責任感とか。そんなものどうでもいいから、私達の傍にいて欲しかった」
「うん」
淡々と相槌を打ってくれる事が、今はすごくありがたい。
「許さないでいようって思ってた。ずっとあの時の怒りを覚えていよう思ってた。だけど、私達、ずっとお父さんに守られてたの。お父さんが助けてきた人達に、ずっと、支えてきてもらったの」
堪えきれなかった涙が、進路調査書に水玉模様を作る。
鼻をすすれば、無言でティッシュを差し出された。一枚引き抜いて、鼻をかむ。
「……俺さ、お前のお父さんに聞いたことあるんだよ」
シャーペンが拓也の指によってくるくると回る。
「どうして困っている人を躊躇なく助けに行けるんだって。そしたらあの人、笑って言ったんだ。大切な人達に誇れるような人間であり続けたいんだって」
お前のお父さんらしいだろ?って拓也は笑う。
「……正義感なんかじゃない。警察官としての責任感なんかじゃない。お前のお父さんは、俺達の。……お前の誇りでいたかったんだ」
お前のヒーローになりたかったんだよ。
拓也にしては柔らかい声が、私の耳を打った時。ずっと昔、幸せだけを感じていた時の会話がフラッシュバックした。
『静香、自分の中にある一番大事なものは何があっても曲げてはいけないよ』
『……どうして?』
『一度曲げれば、もう元には戻らなくなってしまうんだ。……貫き続けるのはとても難しい事だけど、静香ならきっと大丈夫』
まだ幼い私の頭を撫でてくれたお父さん。会話の意味をあまり理解していなかったけれど、私なら大丈夫だと。そう父さんが笑ってくれたのがすごく嬉しかった覚えがある。
「俺は警察官を目指すよ」
何の脈絡もない、突然の決意表明に目を見張る。
「ずっと迷ってたんだ。お前のお父さんみたいになりたい。だけど、静香が辛い思いしてんのも知ってるからさ。家族にそんな思いさせるのって本当に正しいのかなって、悩んだ」
「……うん」
「悩んで、決めた。やっぱり、おれはあんな風にかっこよく生きたい。かっこよく生きて、それで、大事な人を悲しませない警察官になる」
ひゅっと喉が鳴った。
憧れていた。私もお父さんみたいになりたかった。
どれだけ怒りで身を焦がそうと。どれだけお父さんを否定しようとも。こびりついて消えなかった想いが、憧れが。涙になって溢れてきた。
数日前に言われた、逃げるなという言葉がふいに、脳内を駆ける。
……私はずっと逃げていたのだ。怒りを自分の心を守る為に利用して、現実逃避をしていただけ。
「……まだ、間に合うと思う?」
何、と言わなくても拓也には分かったようで、嬉しそうに破顔した。
「一緒に頑張っていこう」
「……ありがとう、拓也」
机に置かれたシャーペンを掴んで真っ白な進路調査書に道を書き込む。
蝉達が、私を後押しするかのように歌っていた。
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