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次の日、ツクヨ家にある書面が届いたと聞き、ユキは急いで二階の自室から一階のフロアへ降りた。誰からの書面か、そんなことは確認しなくてもユキにはわかっていた。しかし、すでにユキの父であるベルク・ツクヨ男爵が書面に目を通している後ろ姿が目に入り、息が止まる。
ベルクにはまだ婚約破棄の報告はしていない。
昨日はユキ自身ショックが大きくて、報告まで気が回っていなかったのだ。
見ると使用人たちが一階フロアに集まっている。誰からの書面なのか、皆知っていて見物にきたのだろう。すると、ぐしゃりと書面を握り潰す音がベルクの方から聞こえ、思わずユキはビクリと肩を揺らした。
何か言わなければ。
震える唇を動かそうとした時、頬を抉るような衝撃が走り、ユキは床に倒れこんだ。周りの使用人たちから上がる悲鳴がヒリヒリと痛む頬にまで響き、抑え込むように頬に手をあてた。
「貴様!! スバル殿下に何をしたのだ!?」
フロア全体を揺らすような叱責に、ユキは腰まである煉瓦色の長い髪を床にすらせながらゆっくりと背を立て、茫然とベルクを見上げた。いつもは細い目も今は大きく見開かれ、ユキとよく似た赤みの強い髪は燃えているかのように見える。赤くなっている拳をわなわなと震わせているのが見え、父に殴られたのだとやっとユキはぼうっとした頭で理解した。
この人は怒っている。それはわかるのに、殴られたせいで頭が上手く働かない。弁解の言葉も涙すらも出てこない。ベルクは、なんの反応も見せない娘の胸倉を掴み上げた。ユキは息苦しさのあまり顔が歪む。その時、ベルクの独特なスパイスの香水の匂いが鼻についた。
「やっと手に入れた地位であったのに!! 貴様のような何ももたぬ女が役に立つ方法は一つ! 殿下に嫁ぐことだ! なのに、貴様はそれすら全うにこなせんとは! 恥を知れ! この私に泥を塗りおって……ッ!!」
ベルクはユキを放り投げ、書面を床にたたきつけた。
それは女の婚約者であった第二王子スバル・サラエル・ジ・コントラスからの婚約破棄状。
ユキは、パラパラと舞い降りる白い紙たちを、冷たい床に座りこんだまま、ぼうっと眺める。そのうちの一枚が、ユキの真横にすべりこんだ。
『………なお、この婚約破棄はこちらの都合のものであり、ユキ・ツクヨに一切の不都合はなかった………』
綺麗な文字で書かれた簡素な文。
ユキは震える指先でそっと、文字をなぞった。
この字は知っている。もらった手紙は少なかったけれど、嬉しくて何度もその手紙を見返した。何度も何度も。だから間違えるはずがない。これは、婚約者であった彼の字だ。
いつだったか、ずっと見ていられるような綺麗な文字だと言ったことがある。その文面から、文字から、誠実さが伝わってくる、そんな文字だとも。
なのに、この状況だからか、書面に綴られているのは、感情もない、事務的な文字に見える。不意に胸の奥から鋭い痛みが走り、顔が歪む。ユキは、唇を噛み、書面をぐしゃりと握りつぶした。
(都合……)
これはきっと彼なりの気遣いなのだろう。
本当はユキの責任であるけれど、表向きはこちらの都合にしてあげようという、ユキに対する最大限の慈悲。ユキの立場を悪くしないようにとそう考えたのだろう。
実際はこのありさまだが。
そのころベルクは、ぐるぐると爪を噛み苛つきながら歩き回っていた。
「しばらく外に出ることも許さんッ! 私は今から殿下の元にいき、釈明をしに王城に赴く。貴様の尻拭いをしてやるのだ。私に感謝しろッ!」
そう言いながらベルクはユキの腹を蹴り上げた。胃袋を抉るように突き上げられ、一瞬息が吐けず、代わりに唾液が漏れ出した。
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