第一章0 「青い空は語りかける」

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第一章0 「青い空は語りかける」

「お前との婚約を破棄しようと考えている」 「……は?」  煌びやかな装飾に囲まれた客間。床一面には赤い絨毯が敷かれ、大理石の壁には凝った花の彫刻が彫られていた。いくつもある両開きの窓が大きな口を開け、涼やか風と陽光がシャンデリアをわずかに揺らす。そしてそのシャンデリアの下には、スクエアの机と二人掛けのソファが二つ。そこに二人の男女が向かい合うように座っていた。 「今、なんとおっしゃいましたか……?」  少女は目の前に座る少年に驚いたように目を見開き、震える声で尋ねた。  少年は、さもだるそうにソファのひじ掛けに頬杖をつき、足を組み替えた。その時、さらりとした黒髪がなびき、目つきの悪い灰色にも似た青い瞳をかすめる。 「婚約を破棄すると言った」 「……な……なぜ……。何か、気に障ることをして、しまったのでしょうか……?」  少女は動揺し混乱した頭を必死に働かせて口を動かした。今はとりあえず、適切な言葉を紡ぎ、婚約者である少年を繋ぎとめるのに必死だった。 「なぜ、ね。理由はそれだ」 「え……?」 「お前が今もってしても、何もわかっていないということが原因だ」  少女はさらに混乱した。  どういうことだ。少女はこれまでの自身の行動を振り返った。  何か粗相をしたのかと頭の中で今までの自身の行動を振りかえるが、何も思い当たるところがない。夜会も披露宴も舞踏会も彼の婚約者として正しく振る舞ってきたつもりだ。ぐるぐると頭を巡らしていると、そんな様子を察したのか少年は呆れたように溜息をついた。 「お前がある男爵令嬢を私の婚約者という立場を利用して、いじめていると噂になっているが……」 「そ、それは……!」  少女は、はっと勢いよく顔をあげて必死の形相で訴える。 「その噂はデタラメです! 私はそのようなことは一切行っておりません!」  少女は荒々しく声をあげた。淑女としてあるまじき行為だと分かっていても、ここで弁明しなくてはいけないと気持ちが焦った。  しかし少年は冷めた相貌で見つめた。 「私もわかっている。お前がそんな愚かな行いをするとは思っていない」 「で、ではなぜ……」 「お前が、その噂を払拭できなかったという事が問題なのだ」  少女は息を飲んだ。膝に置いていた手に力が入り、新調したばかりのドレスにシワがつく。 「この噂は、単なる私の婚約者であるお前への嫌がらせだろう。この噂で私が信じれば、お前への評価は落ち、婚約は破棄され、見事周りは婚約者となりうる権利を得る。魂胆はそこだろう。馬鹿馬鹿しい。……しかし、お前はその間何をしていた?」 「……」 「私の婚約者ということは次期私の妻になるということ。そんな、たとえ真実でなくとも悪評がまとわりついている女性をなぜ娶ることができる?」 「……」 「そう、お前はこの噂をなんとしてでも払拭せねばならなかったのだ。言葉で、立ち振る舞いで、人脈を広げて。私の婚約者としての自覚があるのであればだ」  少年の矢継なく浴びせられる言葉の数々に口を挟むこともできず、ぼうっと見返す。目つきが悪いけれど、いつも自分を見つめるその目が優しかったことを少女は知っていた。それなのに今は冷たく、鋭い目で少女を見つめている。それがどうしようもなく胸を締め付けた。 「お前の悪評は私の悪評だ。私に人を見極める才能がないと、そう思われかねない。それがなぜわからなかった?」 「ち、違います……私は……」  少女はゆるゆると首を振って否定の言葉を紡ごうとした。しかしなんて言えばいいのか頭が上手く働かない。ただ話を聞いてほしいだけなのに。  その想いも届かず、少年は少女の言葉を遮る。 「言い訳は無用だ。お前がそこまで愚かな女であったと見抜けなかったのも事実。私も悪い」 「……スバル、様……」  まともな言葉を発する暇さえも与えてくれない。なんとも無慈悲な対応に少女の瞳には涙がたまる。これは対応に対する不満からではない。今まで優しく、不器用にも自分に気を遣ってくれた少年の、スバルのあまりの変わりように、悲しく胸が痛んだからだ。 「用は済んだ。出ていくがいい。お前の家の方にはまた正式な紙面を送る」  少女はぐっと涙をこらえて、俯く。これはただの事後報告だ。どれだけ少女が言葉を紡いでももう、スバルのなかでは決定事項だったのだ。覆えようがない。淡々とした感情のない表情からわかる。少女は、顔を見せないように俯き、そのまま立ち上がる。無礼な行為だとわかっていても、スバルにこのような醜態をさらしたくはなかった。  扉の方に歩き、取手に手をかけたとき、後ろからわずかに優しさを含んだ声が聞こえてきた。 「ユキ」  名前を呼ばれ、少女は、ユキは手を止めた。 「……今までご苦労だった。ありがとう」  スバルのその言葉に手がわずかに震える。  そんな優しい声をかけないで  まだ自分に対して情があるのであれば、なぜ引き留めてくれないのか  そんな思いが胸に巡り、今すぐ駆け寄って縋りつきたい衝動をぐっと抑えた。  惨めな行動はしない。  ユキは振り返り、顔をあげぬままドレスの裾をつまみ淑女の礼をとった。冬の葉を思わせる深緑を基調とし、控えめに段のついたフリルのこのドレスは今日久しぶりに会う男のために一週間前から悩みに悩んで選んだドレスだ。スバルに少しでもよく見られたくて、褒めてほしくて。結局一回も褒めてもらえることはなかった。 「……いえ、勿体ないお言葉。……お役に立てずに、不快な思いをさせ、申し訳ございません、でした……」  ユキの震える声が、不似合いにもこの豪奢な部屋に響き渡る。  そして、ユキは一度も婚約者であったスバルの顔を見ることもなく、部屋から出た。
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