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二人の前に、大きな虹がかかっていた。
ついさっきまで激しく降っていた雨はあがり、空には灰色の雨雲がまだ残っていた。
ドンは今、バックと二人きりでこの景色を見ていることに満たされた気持ちでいた。言葉は交わさなかったが、これで十分だった。
バックが空に向かってつぶやいたことを耳にするまでは。
「おれ、次にこんな虹を見たら、マリーをデートに誘う」
なんだって。
ドンは驚きのあまり、言葉が出てこない。
しばらく目を見開いたままバックを見つめていたが、やっとのことで声が出た。
「なんでまた…」
バックはゆっくりとドンの方に顔を向け、彼を見つめた。そしてふっと笑うと、言った。
「ロマンチックだろう?」
✴✴✴✴✴✴✴
あれからずっと、ドンの頭の中は、バックのこと、そして「なぜ?」の文字で一杯だ。そうでなくても、最近彼のことばかり考えていたのに。なぜなんだ?マリーだと?マリーって、ちょっと前に行きつけのバーでバックを逆ナンしてきた、あの彼女だろう?
確かにあのときはいい感じに見えたさ。でもそれは、おれといい感じになる前のことだろう?
それとも、「いい感じ」になっていると思ったのは、おれの独りよがりだったのか。
ことの発端は……いつからなのか、よく覚えていない。
けれど彼のことを考えるとき、ドンの目にすぐ浮かぶのは、彼の眼差しだった。
奴とは、この分署に入ったときからの同僚だ。仲のいい、同僚。消防士としての仕事ぶりも優秀で、互いを信頼する仲。
お互いに恋人がいたときもあったし、ダブルデートしたことだってあった。
なのになぜか…いつの頃からか、彼と視線があったとき、目を見て話しているときの感覚が変わってきた。それは、ほとんど気づかないくらいの、些細な変化だった。
ドンも、違和感を覚えつつも、それが何かは深追いせずにいた。ただ、日を追うごとに、彼と視線がぶつかったときの、「捕われた」という感覚、そしてそれに続く、吸い込まれるような感覚は強くなっていき、見つめ合う時間も長くなっているように感じた。
それは、他の仲間たちがいるときにも起きた。
署内でちょっとしたパーティーがあるときや、仕事終わりに消防士たち御用達のバーで飲んでいるとき。
バックもドンも、普段のように他の者と談笑したり、ビリヤードやダーツに興じたりする。
が、これもいつものように、二人がカウンターで並んで飲んだり、冗談を言い合ったりするときに、ふとした瞬間、視線が絡み合う。そうなると、もう目を逸らせないのだ。頭では、このままではまずい、と分かっていても、見つめてしまう。そしてそれはバックもそうだった。少なくともドンはそう感じていた。
そして、昨晩は…ついに、視線が絡み合うだけでは済まなくなりそうになった。
仲間の家で同僚たちと飲んでいるとき、たまたま、部屋に二人きりになったのだ。それまでは、いつものように皆で談笑していたのが、二人きりになった途端、またあの空気になった。二人とも、黙りこんでいた。ドンも、ついさっきまでバックも交えて楽しく語り合っていたはずなのに、急に緊張し始めて、隣にいる彼の顔を見ることができない。何かせずにはいられなくて、手に持ったビールをすすろうとするが、もう空だった。クソ、と小声で悪態をつく。
「飲むか?」
顔をあげると、バックが自分の飲みかけのボトルを差し出していた。ドンは彼の目を見た。彼の目も、ドンをまっすぐに見つめていた。もう、抗うことはできなかった。
バックがボトルを傍らに置くのを合図にするかのように、彼に吸い寄せられる。
もう少しで互いの唇が触れそうになったその瞬間、部屋に仲間が戻ってきた。
慌てて身を離し、事なきを得たが、心臓は破裂せんばかりに高鳴っていた。そんなドンとは裏腹に、バックの方は、何事もなかったように仲間たちとやり取りしていた。
今のは何だ?ドンの頭は混乱する。おれが奴に近づいたのは確かだ。でもバックも、避けようとしなかった。それどころか、奴も俺に身を寄せてきたんだ。ここのところの、二人の間に流れる妙な空気が、気のせいではなかったと確信した夜だった。
それなのに。
なんで奴はあんなことを言ったんだ?
それからというもの、ドンは彼のことを考えないように努めた。
さんざんおれを振り回しておいて、女を誘うと宣言した。何なんだあいつは。仕事はできるし、いい奴だと思ってたが、全然いい奴なんかじゃないじゃないか。大体、マリーを誘う気なら、なんで俺のことをあんな目で見つめたりしたんだ。あの晩のことは何だったんだ?俺が右往左往してるのを見てほくそ笑んでたのか?だとしたらとんだ変態野郎だ。もしかしてサイコパスなのか?
もうこんなことはごめんだ。おれは仕事に専念する。
✴✴✴✴✴✴✴
その週は、幸い大きな事故もなく、ちょっとしたボヤ騒ぎや、ガス漏れの処理などがあっただけで、大抵は待機の時間だった。仲間たちは、訓練をしたり、ゲームをしたり、思い思いに過ごしていた。ドンも、バックのことを考えまいと筋トレに励んだおかげで、いつものダンベルからさらに2つ重りが増えていた。
その日も、何事もなく一日が終わろうとしていた。遠くの方で、低く唸るような轟音が聞こえる。
「おっと、一雨くるなこりゃ」
誰かが言った。
ドンが外を見やると、先程まで快晴だった空に、どす黒い雨雲が風に乗って移動してきていた。
帰り支度をしていた者も、皆のたまり場になっている、キッチンのある広い部屋に集まっていた。ドンも、窓際に立って、外の様子をみる。2ブロックほど先の空は既に暗く、時々ビカビカと光が瞬き、その後に雷鳴が轟いていた。
その轟音は次第に近づいてくると同時に、署のある付近にも雨が降り出す。そして、雨足はあっという間に激しくなった。
近くで雷が落ちるたびに、歓声があがっている。
仲間たちは窓から外を見ながら話している。
「この雷雨が通り過ぎるまで待つかな」
「確か前に降ったときは、綺麗な虹が見えたよな」
「そうだな」
バックの声にはっとして、振り向いた。その瞬間、キッチンのカウンターにもたれていたバックと目が合った。あれから、彼のことを見ないようにしていたのに。バックはずっとドンのことを見ていたようだった。
どんなに努力しても、一度捕われるともう無理だった。ドンの視線はバックに釘付けだった。
彼らの間には仲間たちがいて、騒がしくしていたが、目に入らなかった。周りの喧騒はかき消え、スローモーションのようにゆっくりとした動きになる。
バックは口元に微かな笑みを浮かべながら、ドンを見つめ返す。
まるで永遠にも思われた時間が過ぎたあと、バックがおもむろに部屋を出る。
ドンは気になって後を追う。
階下に降り、出口の方を見るが、姿が見えない。どこにいる?
ふと、思いつく。
あの日、一緒に虹を見た、あそこだ。
よく二人で過ごす場所。
ドンは1段飛ばしで階段を駆け上がる。
そして屋上に通じる非常ドアを開ける。
そこには、土砂降りの雨に打たれるバックの後ろ姿があった。
幸い、雷は既に東の方に移動していた。
バックは、顔を空に向け、気持ち良さそうにしていた。まるでシャワーを浴びているかのように。
「バック」
雨の音でかき消されないよう、ドンが叫ぶように呼ぶと、顔だけをそちらに向けたが、再び雨のシャワーに集中する。
ドンはどんな言葉をかけていいかわからず、バックの傍らで立ち尽くしていた。
次第に、雨足が弱くなる。
バックはふう、と息をつきながら髪の毛を両手でなでつけると、ドンの横を通り過ぎてドアに向かおうとする。
「待て」
とっさにバックの腕をつかむ。バックは立ち止まり、つかまれた腕を見てから、ドンの顔を見た。
「何だ?」
ドンの心臓がまた早鐘を打ち始める。
「行くな」
「行くな、って、どこへ?」
「それは、その…どこへも、だ」
バックが笑いながら言う。
「なんだよそれ?お前にそんなこと言われる筋合いはないだろう」
「そうかもしれないが、行くな」
真顔に戻ったバックが、もう一度聞く。
「なんでだ?」
すぐに答えられず、しばらく見つめ合ったまま雨に打たれる。
バックは業を煮やしたようにふっとまた笑うと、ドアの方へと踵を返す。
「お前を、誰にも渡したくないからだ…っ」
バックの背中に向かって叫ぶ。
ドン自身、口をついて出た自分の言葉に驚く。
立ち止まったバックはしばらくそのままの姿勢で立っていた。表情が見えず、不安が募る。何か言ってくれ。
ゆっくりと振り向いた彼の顔は、ニヤついていた。
「やっと、だな」
「何だって」
バックが近づいてくる。
「どうなることかと思ったぞ」
それはこっちのセリフだ。
「何だと。お前、じゃあ―」
続く言葉はバックの唇で塞がれた。その瞬間、すべてが吹っ飛んでしまった。
バックの、雨混じりの唇の感触。表面は少し冷えているが、中身は温かい。
ああ、やっとだ。
ゆっくりと唇が離れると、二人の額が触れ合う。雨はいつの間にかやんでいて、入れ替わりに太陽の熱を肩口に感じる。
ふと空を見上げると、そこには見事な虹がかかっていた。
あの日見たよりも、鮮やかで、美しい、七色の虹。
確かに、ロマンチックだな。
だが、もう二度とごめんだ。
ドンは心の中でそう言うと、今度は彼の方からバックに口づけた。
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