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プロローグ 現在 二十七歳 同窓会
あの頃の僕たちは、きっと恋に落ちることから逃げ出したのだ。
これは僕と君の、本当の終わりの物語。
高校の同窓会の知らせが来た。出席の返事をしたのは数か月前だ。
その当日、午後四時。
僕は裸で鏡の前に立っていた。自宅の洗面台の鏡には上半身しか映らない。しかし生憎この家の鏡はこれしかなかった。
いつも通りの自分が鏡の中にいる。
暗くて垢抜けない顔、不健康で生白い肌。
胸板があるはずの個所に、不思議な半球がふたつほど乗っかっている。
すがすがしいほどに女の形をした身体。
どうにも自分の身体として、相応しい形をしていないような気がする。
それが、生まれたときから二十七年間付き合い続けている自分自身の身体に関する、僕の評価だった。
同窓会はホテルのパーティ会場だったはずだ。妙なものを着ていくわけにもいかない。僕はクローゼットから引っ張り出した二着のうち、一着を鏡の前で当ててみる。
それは紺色のワンピースだ。僕はこれを「念のための服」と心の中で呼んでいる。理由はそのまま、家族と同席する冠婚葬祭で体裁を保つため、つまり念のために仕方なく持っている服だから。
実家は高校卒業と同時に離れたきりだ。それ以来ほとんど音信不通で、未だに折り合いが悪い。今までとうとう一度も自分のことについて向き合って話そうという気になったことがない。だから、家族と同席する場ではいつもこのワンピースのような女物を着ていた。
それを宛がった自分の、鏡に映った姿を眺める。
不自然なくらいに”自然な曲線”を描くこの身体に見合っている。端的に言えば、似合ってすらいる。それが不気味で仕方がない。
念のためにクローゼットから出してみたが、やはりこれはないだろう。高校時代の友人たちは、僕のことを少なくとも僕の家族より知っている。
僕はワンピースをクローゼットに戻す。
胸回りに幅広いゴムを入れたストレッチの効くタンクトップを着て、胸元の”不自然な双丘”を平坦になるように潰す。
その上からシャツを着て、パンツにジャケットのスーツスタイルで僕は同窓会へ向かった。
電車が遅延して、会場に着いたのは開会ギリギリの時間だった。僕はほとんど全員手続きを終えてしまったであろう受付に向かう。
「お、アキヒト。お前変わってないなあ」
いきなり大きな声で迎えられた。褒められているのか、貶されているのかは分からない。僕はテーブルに置かれた名簿を見ていた顔を上げて、受付に立っている相手の顔を見た。
「マル?」
「おう、久しぶり」
マルは高校時代もクラスの中心人物という感じの明るい男子だった。明るさはそのままに好青年になっている。マルだけではなく、当時の各クラスから一名ずつが幹事をしているようだ。ざっと見ると幹事は高校時代目立っていた人気者たちばっかりだった。そうじゃなきゃ同窓会をやろう、なんて思わないよな。
マルの明るい声で、受付にいた幹事たちの顔が一斉にこちらを向く。全員見知った顔だけれど、ちょっとぎこちない会釈をしてしまった。
高校時代の僕はそんなに友人が多いほうじゃなかった。
「マルはちょっと変わったな」
「それは褒めてんの?」
さっき僕が思っていたことを訊かれたので思わず笑った。
「褒めてるよ、大人になってるじゃん」
「そりゃ十年経ってればな」
マルは苦笑いしながら言った。
僕はマルに促されて会場に入った。
ざっと見渡して、男連中はすぐに誰が誰だか確認できた。多少太ったり痩せたり、坊主だった髪が伸びたりしてようがそうそう変わらない。
その中に、高校時代よくつるんでいた男を見つけた。
「たっちゃん?」
僕の声でたっちゃんは顔を上げた。僕に向かって大きく手を振る。動きがダイナミックなところは変わっていない。
「よう、アキヒト」
「やっぱりたっちゃんだ。痩せたな」
「柔道辞めたからな、筋肉は落ちたよ」
たっちゃんは学年でも指折りのハンサムだ。柔らかくて女に好かれる顔立ちとは裏腹に、柔道部に高校三年間所属していた。現在のたっちゃんは当時鍛えまくっていた身体から適度に筋肉だけが落ち、今流行りの細身のイケメンとなっていた。
「結局いつまで柔道やってたの?」
「そのままエスカレーターで大学行ったから、結局大学卒業するまでやったよ」
「本当に? 超偉いな」
「アキヒトは?」
「俺は高校までだよ。そのあと地元出ちゃったから」
「そういやそうだったな」
僕は高校生当時、学校ではなく地元の道場で柔道を続けていた。柔道という接点が、僕とたっちゃんが仲良くなったきっかけだった。
でもさあ、とたっちゃんが続けた。
「会社の先輩が三十過ぎるとちょっとやそっとじゃ痩せなくなるから、何もしなくても太らないって余裕ぶっこいてんのも今のうちだぞって脅してくるんだよ」
「マジかよ、俺も気を付けよう」
「アキヒトは心配ないだろ」
「いやいや、俺もう割れてた腹筋消滅してるから」
「そういえば昔のアキヒトもっとバキバキだったかも」
すぐ隣から女性の声が割り込んできたので、僕は振り返る。
とてもよく見覚えのある顔だった。僕は絶対にこの女性と親しくしていたはずだという確信があった。
しかし染めて巻いた髪であるとか、顔面を覆うメイクであるとか、その他アクセサリーや衣類の雰囲気に邪魔されて、即座に呼びかけられなかった。
しばし見つめ合う。
「もしかして忘れた?」
心なしか、女性の声は冷たい。
「忘れてない。ニッシーだよね?」
ニッシーは必死に思い出していた僕を見てけらけらと笑った。
「アキヒトって意外と薄情だよね」
「そんなことないって。会うのは久しぶりだし、雰囲気変わってるから分からなかっただけで」
「半分は冗談。でも卒業したらそれっきりだったじゃん」
それはそうだ。
僕は卒業と同時に地元を離れているので、他の同級生たちよりも集まりに出るのが少々億劫だったのだ。
「そうは言うけど、ニッシーだって結局花火大会の連絡してくれなかったし」
卒業しても来ようね、連絡するから、とニッシーが言ったはずの連絡はついぞ来なかった。これで僕ばかり薄情だと責められるのはフェアじゃない。
「あはは、それはそう。結局大学で仲良くなった子たちと違う花火大会行っちゃったからね」
「まあどのみち連絡来ても俺は行かなかったと思うけど。他の人たちはたまに会ったりしてたんでしょ? 松川とか」
「ああ、うん。松川と三橋とは大学もキャンパス一緒だからよく遊んでた。花火大会に一緒に行ったメンバーだとマルだけは卒業して以来かも」
アキヒトと同じでね、とニッシーは続けた。
「俺とマルは結構会ってたけどな」
たっちゃんが割り込む。
「だってたっちゃんとマルはご近所でしょ」
「うん、番地違い」
「それは会うよ、幼馴染じゃん」
いかにもクラスのリーダー、人気者という感じのマルと、気付くと輪の外の傍観者みたいな僕が仲良くなれたのはたっちゃんのおかげだった。
「あとはサトミが誘っても来たり来なかったりきまぐれだったね」
なんでもなければ聞き流すようなトーンでニッシーが言った。この場にいればいつかは出てくるであろう名前を早々に聞いた僕は、努めて平静を装う。
「……ああ、サトミね」
「うん。まあサトミってなんか来てもあんまり喋らないし楽しくないのかなって思ってたんだけど」
「あいつは楽しくてもそんな感じじゃない?」
僕はニッシーが言い終わるのを待つようにして反論してしまった。サトミの話がしたいわけじゃなかったのに。
「そう言われればそうかも。大人しい子だし……っていうかアキヒト今日一緒じゃないの?」
「えっ、誰が?」
「サトミ」
脳裏に藪蛇という言葉が浮かぶ。サトミの話をさりげなく他の話題に移さなかった僕が悪い。
「いやいや、だから俺ずっと地方にいたからって言ってるじゃん」
僕は笑いながらそう言って、この話題を切り上げようとした。
「でも就職は東京に戻ってきてるんだよね」
切り上げに失敗した。
「まあ、そうだけど。でも俺は知らないよ。むしろニッシーのほうが知ってるんじゃないの?」
「私だってグループメッセージで今日行くよって連絡あった程度だよ」
「あ、今日来るんだ」
「それも知らないの?」
僕とニッシー、他にも当時仲が良かった数人はスマートフォンのメッセージアプリでグループを作っている。たまに集まろうという話になって、結局流れたりしているのを僕は眺めているだけのことが多い。サトミもそうだ。
つまり僕とサトミは個別で連絡を取っていない。
「あー、ごめん、読み飛ばしたかも」
「……あんたたちってそんな感じなの?」
ニッシーが困惑したような、呆れたような顔で訊いてきた。
「そんな感じって?」
「なんか……別れたカップルみたいな」
それは実際に当たらずとも遠からずといったところなのだけれど、生憎ニッシーは僕とサトミの間に合った最終的な関係についてを知らない。
「それも、話し合う場を持つことができずに不完全燃焼になっちゃったカップルみたいな」
「別れたカップルの詳細はいいから」
僕はニッシーのボケを義務感で拾った。拾ってから、もしかしてボケではなく真面目に言ったのかもしれないと思った。ニッシーはそういうところがある。それに、ボケだとしてもニアピンで予想してくるのはちょっと怖い。割と当たっている。言わないけど。
「そもそも俺、ニッシーたちに対しても連絡不精だったじゃない。それと同じことだよ。サトミもあんまりまめなほうじゃないだろうし」
「盛り上がってんね、何の話?」
受付の仕事を終えたマルが入ってきた。
「こいつとサトミの話」
たっちゃんが僕を指差しながら返答する。
「助けてよ、マル。なんか取り調べみたいなことされてんだけど」
僕は大袈裟に芝居がかった口調で言った。
「え、お前らの同棲疑惑の話?」
マルは僕を助けるどころか、さらに火種を大きくした。
「なんでだよ!」
「え、あったよねそういう話」
マルはたっちゃんとニッシーを交互に見やって同意を求めようとした。僕はニッシーとたっちゃんが変なことを言う前に否定した。
「いやさすがにそんなわけないじゃない」
「そんなわけありそうなんだよな」
マルがわざとじっとりとした視線でこちらを見ながら言った。
彼がそうしつこくこう言うのにも、理由がないわけではない。
「まあ泊まらせてもらったことはあったよ」
「一回じゃなかったろ? 何回か……結構あっただろ?」
「うん」
「それだよ!」
マルが何故か勝ち誇った。僕は苦笑いになる。
「君ら、趣味悪いぞ」
酒がまずくなるよ、と喉元まで出かかって止めた。和やかなはずの同窓会に来て早々言うことじゃない。たとえ来て早々尋問に遭っていたとしても。
「まあ、そもそもあいつ、もうサトミじゃないけどね」
たっちゃんが途切れた会話をなんとか繋げるように言った。ああそういえば、とニッシーが拾って続ける。
「結婚したもんね」
「サトミってあだ名だっけ?」
「郷原美沙を略してサトミ」
マルの質問に僕が答えた。
婚姻届を出しているなら間違いなくサトミか配偶者のどちらかは苗字を変えている。誰も確認していないけれど、おそらくサトミが苗字を変えたのだろうという前提で話をしていた。
「あいつ式したんかな? アキヒト呼ばれた?」
また話が急旋回して僕のもとへ帰ってくる。
「だからなんで俺なんだよ、ニッシーでもいいだろ」
そう言いながら、実はサトミが挙式していて、ニッシーは呼ばれていて自分に連絡が来なかっただけだったらどうしよう、と思った。どうしよう、ってどうもできないのだけれど。
覚えても仕方ない焦りを感じている間に、ニッシーが首を振って言った。
「私も呼ばれてないよ。フェイスブックでもいつの間にか結婚しました、って書き込みがあっただけだから」
「最近は珍しくないからな。俺の同期も式やってなかったし」
たっちゃんが頷きながらそう言った。
そのうち、他のクラスメートも合流してサトミの話からは離れた。
僕は内心安堵しながら、昔話に花を咲かせる輪の中にいた。不思議なもので、高校時代よりも誰とでも気楽に会話ができた。
高校時代、僕は特別に僕がどういう人間なのかクラスメートに説明をしたことはなかった。今では教育番組でよく聞くようなカタカナやアルファベットの言葉も、まだ今ほど一般的ではなかった。それに、そういう聞きなれない単語で自分を紹介することで、過剰に気を遣われたり、かわいそうだと思われることを当時の僕は嫌った。
端的に言えば、意地を張っていたのだ。だけど、そんな僕の偏屈な意地とは関係なく、僕にはこうして友人がいる。結果として、僕は本当に学友に恵まれたと思う。
そうであるからなおのこと、サトミとはどうして離れてしまったんだろう――と、今でも思う。
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