第一章 十五歳 春

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第一章 十五歳 春

入学式は体育館で行われる。教室からの移動は男女別の二列で整列させられた。 僕はスラックスを穿いて、スカートを穿いた女子生徒の列に混ざっていた。 体育館に到着すると男女混合の五十音順で席に着いた。 入学して最初の一週間というのは、まだ構築されていない教室内の人間模様をお互いに探り合う期間だ。その中でもとりわけ僕については遠巻きに探る視線というのが多いように感じていた。 この学校では、女子の制服規定にスラックスが含まれている。だからスラックスを穿いて通学することは何の問題もないのだけれど、入学式早々にズボン姿で登校してきた新入生は僕一人だった。 ――眺めてないで話しかけてくれればいいのに。 もしかしたら視線を寄越すクラスメートたちも、僕のほうから話しかけてくれないかな、と思っていたのかもしれない。どちらにしても、良くも悪くもそのうちみんな興味をなくすだろう。そう考えて僕は向けられる視線を放置していた。  そのまま遠くから視線を浴びる日々が数日続いた。 その間、誰も僕に話しかけず無視しているのかというとそんなことはなかった。近くに座っているクラスメートとは男女問わず他愛のない会話をしていた。ただ、なんとなく皆が何かを訊きたそうな視線を送っていた。 つまり僕は、ちょっと浮いている――という状態だった。 転機になったのは入学式から一週間後の委員決めの時だった。 この学校にも、御多分に漏れず風紀委員や保健委員のような生徒たちによる委員会活動があった。  「じゃあ、まず学級委員から」  担任の道庭先生が黒板に大きく学級委員、と書いた。その下に小さく二名、とも。  「……やりたい人、いる?」  道庭先生はこの学校に勤めて長く、今までの経験から学級委員はあんまりなり手がいないということを知っていた。  クラスメートたちはそれぞれがぐるりと頭を回して教室中を見渡していた。案の定、挙手はひとつもなかった。そのうち隣り合った男子同士が「お前やれよ」「なんでだよ、お前がやれよ」とふざけ合う声が聞こえ始めた。  「これはあんまり言いたくなかったんだけど」  男子たちのざわめきを上から塗りつぶすような、よく通るアルトで道庭先生が続ける。  「このままだと他薦になります。ただ、他薦はしばしば罰ゲームのようになるから私はあんまりやりたくないのね」 それはそうだろう。先ほどの「お前やれよ」のざわめきを聞けば、他薦の結果がどうなるかなんて火を見るよりも明らかだ。お前やれよ、と言われがちな人間――つまり、対人関係においてどちらかといえば支配される側であることが多い人間が選ばれてしまうに決まっている。俗にいう、いじられやすい人間というやつが。 それは、この場の誰にとっても幸せなことではないのではないか。僕は目立たないように、教室の左端、前から二番目の席で窓の外を見ながらそう考えていた。 「ちなみに。一年生の前期に学級委員やっちゃえば、残りの二年半は他薦になっても『もうやったから』で避けられるわよ」 「え、でも結局他の委員とかはやらなきゃいけないんじゃね?」 教室の中央から声が上がる。いつも声もリアクションも大きくてうるさい男だ。名前も覚えた。あいつは滝野だ。  「まあ、それはそうだけど。でも委員は必ず全員がやらなければならないわけじゃないから」  「だったら三年間全部の委員から逃げ切ることも可能ってことでしょ?」  「理論上は可能だけど心情の問題でできない人が多いですね、良心というものがありますから」  滝野と道庭先生の会話はそこで途切れた。 相変わらず教室に手が挙がる気配はない。誰か早く手を挙げろよ、と、互いが互いに無言で圧力をかけ続けるこの状況に、僕はこれ以上耐えられそうになかった。窓の方を向いているのは、教室内を見回すのが怖いからだ。  いよいよ白けてきた教室内にため息が聞こえ、耐えかねた僕はおそるおそる手を挙げようとした。  「俺やるよ」  僕が手を挙げきる前に、教室の廊下に近い方から声が聞こえた。  「えーと、『俺』は誰?」  即座に道庭先生が訊いた。  「用丸(ようまる)でーす。先生の今やっちゃえば残り二年半チャラという話に乗っかりまーす! あとたっちゃんお前感じ悪かったからな!」  用丸は自己紹介でマルと呼んでくれと名乗っていた奴だ。マルの言葉で、教室内のぎすぎすしていた雰囲気が少し緩んだ。  「先生が丸め込もうとしてると思ったからだよ、悪かった」  マルがたっちゃんと呼んだのは、先ほど道庭先生と言い争いになっていた滝野だ。  「用丸くんね。ありがとう」  道庭先生が黒板の『学級委員 二名』の傍に『用丸』と書いた。  「あと一人、誰か」  マルの雰囲気に助けられたのか、道庭先生の声も元気になった。  僕はこの機を逃さず手を挙げた。  「先生、質問なんですが」  「えっ? うん、何?」  道庭先生はてっきり学級委員の立候補だと思っていたらしく、面食らったような顔をしたが、すぐにその顔を戻した。  「学級委員には男子一名、女子一名、のような決まりはありますか?」  道庭先生は、うーん、と曖昧な返答をまずよこした。  「決まりとしては特にないんだけど、なんとなく例年どこも男女一名ずつのことが多いかな。あと、女子二人の場合はあるかも」  「ありがとうございます。別に規定されてるわけではないんですね」  「はい」  「じゃあ僕やります」  教室中の視線が集まったのを感じた。  それと同時に先に学級委員に立候補していたマルが僕を指さして言った。  「いやお前女なんだから別に男女比気にする必要なくね」  結果男女一名ずつじゃん、と続けてマルは言った。  どうしようか、と僕は少し迷った。 そうだね、と聞き流してしまってもよかった。けれど、今まで僕を遠巻きに眺めてひそひそと各々の見解を噂する人ばかりだった中で、マルだけが初めて僕に面と向かって思ったことを言った。 だから、僕も思っていることを言うのなら今だと思った。それに、僕に集まる視線のうちいくつかは、僕による説明を求めているような気もした。  僕はマルの目を見て、悪意がないことを信じてゆっくり口を開いた。 「俺が男女比を確認したのは、女子生徒を必ず一名選出しないといけないと決まっている場合、その理由がちゃんとあるはずだと思ったからだ」 「は?」 「つまり、スカートを履いて、『私』と喋る、一般的な女子生徒がその場に必要な理由があるのなら、俺がその役に相応しくないのは明らかでしょ」 「言ってる意味がちょっとよく分からん……いや、分からんが、お前が何らかの説明していることは分かる」 マルは怪訝な顔をしていた。 マルの指摘は一般的にはもっともな内容だった。僕は自分が言っていることがかなり異質であることに気付いている。けれど、僕は気になるのだ。その場に”女子”が必要なのかどうか。 「えーと、つまり、結果的に男女一名ずつの選出になったとしても、男女比を確認したのには俺なりの意味があるんだ。まともじゃないのは分かってるけど」 「別にまともじゃないなんて言ってないだろ」  「そうだね。まあ……平たく言えば、誰がやってもいいのなら、俺がやってもいいかな、と思ったわけ」  「最初からそう言ってくれ。分かんねえよ」  マルはこれで終わりのつもりのように、静かに言った。  「……他人なんて分からなくて当たり前だよ」  僕も静かに返した。これは僕が常々思っていることだった。  「どういう意味だよ」  「君の無理解を責める気持ちはないってことだよ」  「責める気持ちはないけど見下してはいるんだろ」  「そんなことないよ」  「じゃあその上から目線をやめろ」  「それは君の感想だろ?」  「ストップ!」  道庭先生が割って入った。  「二人とも、今言わなくていいことを言っているし、言い方も相応しくないのは分かる?」  先生にそう言われて、僕とマルの言い争いは学級委員の話題から遠く離れてしまっていたことに気付いた。  「すみません」  僕はなんとなく教室全体にそう言った。一人で熱くなってしまったことが恥ずかしくて、マルのほうは見れなかった。  「で、やってくれるのね? 学級委員」  先生が僕に確認する。マルが「えっ」と低く声を出したのが聞こえた。 何故か、後に引くものか、という気持ちになった。  「はい、やります」  「名前は?」  「秋吉です」  僕は入学初日の自己紹介と同じように答えた。ついでに続けて言う。  「秋吉瞳(あきよしひとみ)です。アキヒトって呼んでください。よろしく」  入学式からひと月が経過した。 葉桜が生い茂る季節に行う体育の授業。それ自体は悪くない。  悪いのは……終業まで残り十分、グラウンドに立っているのが僕ともう一人しかいないということだった。 誰にも見えないように校舎の向こうの森を眺めながら、僕は渋い顔をした。 ――厭な状況になったな。  走り高跳びのテストだ。失敗した者から順に記録を終えてグラウンドに尻を下ろし、残りのクラスメートが飛ぶのを観戦することになる。 今、失敗せずに飛び続けて残っているのは僕と、隣のクラスの一名だけ。  体育の授業は二クラスの女子生徒が集められて合同で行われる。そうなると、座ったクラスメートたちは、自然発生的に自分のクラスの生き残りに声援を送るという状況になった。 「アキヒト! 頑張れ! 飛べるよ!」 「サトミ! いけー! もうお前しかいない!」  気が重い。別に誰と争っているわけでもないのに。 先行で構えている、サトミと呼ばれた生徒をちらりと見やる。口をきいたことも、挨拶をしたことも一度もない。顔だけはなんとなく覚えている。彼女が入学式で新入生代表スピーチをしていたからだ。新入生代表スピーチというのは、その年の入学試験で最も成績の良かった者が選出されるともっぱらの噂だ。  ――つまり彼女は典型的な文武両道というわけだ。  そのサトミと二人で、授業時間をぎりぎりいっぱいまで使って高く、高く、飛び上がっている。  サトミが飛ぶのを待っていると、不意にグラウンドの向こうから低いざわめきが聞こえ始めた。先に体育の授業が終わった男子生徒たちが体育館から出てきて、外廊下をだらだら歩きながらこちらを野次馬し始めたのだ。  「マジかよ! アキヒト残ってんの!」  「スゲー! 郷原と一騎打ちじゃん!」  郷原というのはサトミの苗字である。  こんなところでサトミと比べられて目立ちたくなかった。僕は見知った男子生徒たちに「早く帰れよ」と叫んだ。  歓声が大きくなり、サトミがバーめがけて突っ込んでいった。バーにぶつからない程度のゆとりを持って、バーに近い方の足で踏み切り、もう片足を振り上げて、飛び上がると身体を捻る。バーにぎりぎり腹が当たらないように回りながら超えていく。綺麗なベリーロールだった。  ガシャン、と鳴った。  サトミは回り切ったが足が触れてしまい、バーが落ちた。ああ、惜しい、という声が次々に聞こえてくる。  これで、残りは僕だけになった。  マットから身体を起こして降りたサトミが、不意にこちらを見つめた。  磁器人形のように白い肌。真っすぐ肩の上で切り揃えられた黒い髪。綺麗なアーモンド形の瞳、ちょこんと尖った鼻に、薄い唇は真一文字に結ばれていて、表情は読み取れなかった。その分、人形のような血の通っていない美しさを感じた。ハーフパンツから伸びる脚が長い。 秋吉さん、と体育の先生に呼ばれる。しばらくサトミを見つめてしまっていたことに気付き、僕は慌てて目をそらした。  バーを見据える。右足を一歩引いて構えると、バーに向かって大きくカーブを描いて走り始めた。バーに滑り込むように、ほぼ平行に近づくとバーから遠い方の足で踏み切る。もう片足をバーに触れないぎりぎりで振り上げて、大きく跨ぐように飛び越えた。不格好なはさみ跳びだった。  体育の授業が終わっても、マットに擦れた肘のあたりがまだ少しひりひりとした。  廊下を歩く僕の隣で、クラスメートのニッシーが唸っている。  「あーもうほんと惜しかった」  「なんで跳んだ俺より悔しがってんだよ」  ニッシーこと西田あゆみはおおよそいつも声が大きく、動作も大きい。ニッシーはその大き目な身振り手振りで、僕が跳んだ時の状況を熱く解説していた。そんなことされなくても、状況については跳んだ僕が一番分かっていた。  「マットが滑って支柱に当たった振動でバーが落ちたんだ。俺がちゃんと跳べてたら、そうはならないんだから。失敗は失敗だよ」  「そういえばなんでお前はさみ跳びなんかしてたんだ」  後ろから聞こえた声に僕とニッシーは振り返った。彫の深いハンサムが後ろからついてきていた。ニッシーと同じく、僕のクラスメートだ。  「滝野も見てたのかよ」  学級委員決めで先生に食って掛かった奴だ。  「たっちゃんでいいぞ」  たっちゃん、の「ちゃん」の方にアクセントが来る形でたっちゃんは言った。僕は「わかった」と返事した。  「で、はさみ跳びの理由? あれでしか跳べないからだよ」  僕はあんまり言いたくなかったので、ちょっとふてくされた感じで言った。  「えっ、マジで」  「そんな驚くことないだろ。ベリーロールも背面跳びも中学で習ったけど跳べなかったんだ」  「それで学年最高記録出すって、逆にすげえな」  「どうだろう。男子だったらあれくらい余裕で跳ぶだろ」  「そりゃそうだ」  「だからさあ、あのバーが落ちなければアキヒトが単独トップだったんだよ!」  ニッシーが思い出したように悔しがった。  「別にクラス対抗とかじゃないし、いいじゃない」  ――自分でもこんなに跳べると思ってなかったんだ。満足だ。  じゃあ、と会話を切り上げると、僕とニッシー、たっちゃんは分かれた。たっちゃんは教室へ、ニッシーは女子更衣室へ、僕は女子トイレへ。 それぞれ体操着から制服に着替えるために。 こういった具合で、ニッシーとは授業の合間や休み時間によく話をしていた。ニッシーはちょっとうるさいくらい明るくて誰とでも話すし、誰からも話しかけられる。だから僕とニッシーが友人になったというよりは、僕もニッシーが話しかけるうちの一人になったという感じだった。ニッシーは吹奏楽部で、放課後は部活に直行する。だから放課後になると僕はだいたい一人だった。  昇降口へ向かう階段を下る。階段の壁には今週から、画用紙に描かれたポスターが何枚も展示されている。今年の文化祭で使用するポスターのコンテストが行われているのだ。月末に投票用紙が配られ、全校生徒が投票することになっている。  ゆっくりと階段を下りながらポスターをざっと流し見る。コミックタッチのものから水彩画風まで、作風も色使いもさまざまだったが、どれも力作だった。その中に、見覚えのあるものがあって、ふと足が止まった。  見覚えがあるのはポスターではなく、その作者の名前だった。  『一年五組 郷原美沙』  それは走り高跳びで熾烈な争いを繰り広げることになってしまった、隣のクラスの彼女の苗字だ。  ――そうか、俺と同じなのか。  彼女はサトミと呼ばれていた。僕はてっきり下の名前がサトミなのかと思っていた。しかしそれだと、郷原サトミというなんともくどい名前になってしまう。漫画のキャラクターみたいな名前だなと思っていたが、その認識は誤りだったということだ。  郷原の描いたポスターは、輪郭線のないベタ塗りだった。レトロ調のタッチで、ドアップの女の子と思しき顔の、瞳の中にきらきらと青白い光が映り込んでいる。  文化祭には毎年テーマがあるらしい。今年は『百火繚乱~燃えろ青高魂~』という、可もなく不可もなくいかにも高校の学祭らしいフレーズだった。  ということは、郷原美沙のポスターの女の子の瞳の中に映り込んでいる青白い光は星か何かなのだろう。よく見れば背景が塗りつぶした青一色ではなく靄がかかったようになっているのは、青く燃える炎の表現なのだろうと察した。 僕は一歩引いて壁に貼られたポスター全体を俯瞰した。テーマに含まれている火や燃えろという言葉を意識して、赤を基調としたポスターが多い。その中で郷原の青を基調としたポスターは文字通り異色だった。ぼんやりと眺めていてもかなり目立つ。僕が郷原の名前を見つけたのも、それだけ目立っていたからだ。 激しく燃える真っ赤な炎ではなく、静かに揺れる青い炎。 走り高跳びの最中、ふとこちらを見つめた郷原の顔を思い出す。感情は読めないが、瞳が印象的な整った顔だった。なんとなく、このテーマから赤く燃え盛る炎ではなく、青白く燃える炎を導き出すのは郷原っぽいような気がした。 郷原のポスターは応募作品の中で目立ってはいたし、上手いか下手かで言えば断然上手い部類であったが、群を抜いて上出来というわけではなかった。きっと投票で選ばれるのは他の作品だろう。それよりも。 ――文武両道な上に芸術の心得もあるのか。非の打ち所がないな。 僕はちょっと面白くない気持ちになり、そのまま昇降口へ向かった。 この翌週、投票と集計があった。 思った通り、文化祭のポスターは三年生が描いた作品になった。真っ赤な炎に包まれた躍動感のある作品で、僕も嫌いじゃなかった。 五月下旬というのはほとんど夏の陽気だと思う。特に今日は日差しが強い。雨が降るよりは有難いけれど、具合の悪くなる者も出て当然の天候だった。 高校生になって最初の運動会を迎えたのは、そういう日だった。
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